弥生人イスラエル十支族説 (51レス)
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26: 07/30(火)18:00 ID:vKaSpgSv(3/3) AAS
外国
海外
日本
27: 07/30(火)19:44 ID:RmCdGxXq(1/2) AAS
>>1
ユダヤ人の渡来: ユダヤ人が弥生時代に日本に渡来したという説は、根拠に乏しい説であり、歴史学や考古学の分野では支持されていません。
渡来のルート: ジャポニカ米や文化の伝播ルートは、長江江南付近から日本列島へと考えられていますが、ユダヤ人がそのルートを通って日本に来たという直接的な証拠はありません。
民族の特定: 古代の人々の民族を特定することは、遺伝子解析などの高度な技術を用いても困難な場合が多く、特に弥生人を特定の民族と断定することはできません。
28: 07/30(火)19:49 ID:RmCdGxXq(2/2) AAS
>>11
秦の始皇帝の民族性や出自については、確固たる証拠に基づいた説は存在しません。弓月国経由でユダヤ人の家系であるという説や、肖像画の風貌、皇帝の冠に関する記述は、歴史的な根拠が乏しく、信憑性に欠けるものです。
29(1): 08/01(木)16:05 ID:Hwg289w7(1) AAS
10支族はユダヤ教徒ではなかったし、いわゆるユダヤ人でもないと思う。
カナンに住んだイスラエルの民ということでOK。
日本に渡来した最初のユダヤ教徒は書紀に記される弓月君の一派で、のちに秦の苗字を持つようになる。
この弓月君の一派が渡来したのは、4世紀末頃とされる。
一方、10支族の一派が渡来したのは2700年前頃とみられ、それは北部九州の板付で水田稲作が活発に行われていた頃に当たる。
話していたのは、ヘブライ語。
例えば、日本語のボケル(暈ける)は、ぼんやりして明暗がはっきりしないことを言うが、このボケル(暈ける)は、ヘブライ語のbwgr(ボケ=朝)に由来する言葉。
早朝の未明の頃はまだ薄暗く、あたりがぼんやりとしか見えないので、その明暗定まらない時刻の朝を表すヘブライ語のbwgr(ボケ)から和語のボケル(暈ける)の言葉が生まれた。
ボヤケルもその類語だ。
こうしたヘブライ語の語彙と同系の語彙の存在が、10支族の一派の渡来の事実の傍証の一つとなっている。
30: 08/02(金)10:28 ID:wlFOenOq(1/3) AAS
>>1
弥生人は、中国大陸の沿岸部や朝鮮半島から日本列島に渡来し、稲作を中心とした新たな生活様式をもたらしました。彼らが持ち込んだ稲は、日本の気候や土壌に適応し、ジャポニカ米へと進化しました。また、渡来によって土器の種類や文様は多様化し、高床倉庫も建設されました。これらの文化交流は、縄文時代から続く日本列島の歴史に大きな影響を与えました。
31: 08/02(金)10:32 ID:wlFOenOq(2/3) AAS
>>29
10支族がユダヤ教徒ではなかったという点については、興味深い視点ですね。カナンに住んだイスラエルの民、という定義であれば、ユダヤ教以前の信仰を持つ人々も含まれることになるでしょう。しかし、日本に渡来したとされる時期が2700年前頃というのは、かなり古いですね。
弓月君の一派が4世紀末頃に渡来したというのは、比較的よく知られた説ですが、10支族の一派がそれよりはるかに前に渡来したという説は、根拠が十分にあるのでしょうか?北部九州の板付での水田稲作との関連付けは、興味深いですが、言語学的な証拠である「ボケル」の語源説については、もう少し詳細な研究が必要なように思います。
ヘブライ語の「bwgr」が日本語の「ボケル」の語源という説は、非常にロマンティックですが、言語学的には様々な要素が絡み合い、単純な語源関係を特定することは難しいものです。他の言語との比較や、音韻変化の過程などを総合的に検討する必要があります。
また、10支族の一派が日本に渡来したという説は、歴史学や考古学の分野では、まだ定説とは言い難いでしょう。様々な説が提唱されており、それぞれの説には根拠となる証拠と、疑問点が存在します。
このテーマは、歴史、言語学、考古学など、様々な分野の知見を総合的に検討する必要がある、非常に興味深い研究対象と言えるでしょう。
32(1): 08/02(金)10:34 ID:wlFOenOq(3/3) AAS
>>21
始皇帝が漢民族じゃなかったという説は、根拠が薄く、歴史学者の間では一般的な見解ではありません。秦王朝は漢民族の国家であり、始皇帝も漢民族の一員であるというのが定説です。
33: 08/02(金)15:06 ID:B/zQUQvM(1/2) AAS
ヘブライ語は、2世紀頃には口語としては死語となっていたそうだ。
文語のヘブライ語は祭祀や学者など少数の者が使用していたとされている。
そうすると、日本におけるヘブライ語の渡来は2世紀以前に限定されることになり、それ以後にはヘブライ語話者の渡来は考えにくいことになる。
10支族がアッシリアによって滅亡離散したのは前722年のこととされている。
その10支族の一派が日本にまでやってきたとすれば、だいたい弥生前期前葉頃を考えるのがよい。
この時期は、水田稲作の板付遺跡で稲作が活発に行われていた頃に当たる。
なお、その200年後頃にユダ族のバビロン捕囚が解除され、レビ族の支派のアテル氏族のかなりの人数の行方が分からなくなり、カナンに帰還したアテル氏族はごく少数だったとされている。
このアテル氏族の一派も日本にまでやって来ていたとした場合も、彼らはまだヘブライ語を話していたようなので、この時期の日本へのヘブライ語の渡来も想定可能である。
いずれにしても、日本にまでイスラエルの離散者がやって来る状況というのは、その現地での離散が相当な規模であった場合となるのではないか。
そうした規模の離散が起こったのは、上の二つの事件のときと考えるのがよいだろう。
省2
34: 08/02(金)18:10 ID:Nb5KeX+u(1) AAS
距離が遠すぎる
途中で脱落したグループがそこに定住した痕跡とかはないのか
なぜユダヤ教の信仰を捨てたのか、旧約聖書の物語を残さなかったのか
35(1): 08/02(金)20:27 ID:B/zQUQvM(2/2) AAS
中央アジアでは、ユダヤ教徒がごく普通に見られる。
10支族のような離散や交易に関係する者たちのようだ。
その東端は、交易の十字路のアルタイ山脈付近だ。
日本までは、それほど遠くない。
しかも、日本まで交易路は続いているのだから、それをつたってやってくるのはそう困難ではないだろう。
ユダヤ教が成立するのは、バビロン捕囚のあとユダヤ人がカナンに帰還してからのこと。
それ以前には、ユダヤ教はなかったのだから、10支族の場合はユダヤ教とは無関係とすべき。
なので、10支族の場合は、棄教ということは考えなくてもよいだろう。
36: 08/03(土)10:41 ID:U0DMs5nx(1) AAS
>>35
ブハラ・ユダヤ人(南端がパキスタン)
じゃあ距離は問題ない、ここから日本に渡って来ても全然不思議じゃないってことか
十支族と別の経歴でインドの「コーチン・ユダヤ人」ってのもいるのか
人間の移動力をなめてたかもしれない…
37: 08/04(日)06:15 ID:s3glVgMW(1) AAS
>>32
親父が漢民族じゃねえだろ
38: 08/05(月)00:28 ID:XM/JB0xR(1/5) AAS
ブラジリアンタウン
39: 08/05(月)00:28 ID:XM/JB0xR(2/5) AAS
アメラジアン
40: 08/05(月)00:29 ID:XM/JB0xR(3/5) AAS
GIベビー
41: 08/05(月)00:29 ID:XM/JB0xR(4/5) AAS
アイヌ
アイヌ人
アイヌ民族
42: 08/05(月)00:30 ID:XM/JB0xR(5/5) AAS
縄文人
弥生人
古墳人
渡来人
日本人
43: 08/09(金)02:13 ID:HlP7Cw6u(1) AAS
今のタリム盆地あたりは、中央アジアの交易路の一大要衝だったそうだ。
10支族もそのあたりまでくれば、日本列島の情報は入手できたのかもね。
実際、アルタイ山脈のパジリク遺跡の壁掛け絨毯には、日本の勾玉が描かれている。
半島を経た交易でアルタイまで勾玉が運ばれていたということになる。
そうなると、当然、半島から海を渡ったところに島があり、そこからお宝はやって来ると知られていたはず。
10支族もそのような情報を得て、「よっしゃ、行ったろかい」となったのとちゃうかな。
44: 警備員[Lv.20] 08/09(金)20:15 ID:aSSHDcEp(1) AAS
ほ
45: 08/10(土)15:13 ID:0Hu9KeqV(1) AAS
琉球民族
琉球人
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