平原女王墓が卑弥呼って聞いたけど? (58レス)
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48: 04/17(水)20:05 ID:03JVZyPy(1) AAS
紫金山古墳から三角縁神獣鏡は10面出土したが
鏡の紐を通す孔が全て鋳放し(鋳たままで仕上げしていない)であって
中には孔が完全に塞がっているものもあった。
考古学者の森浩一によると
「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから倭人伝にも卑弥呼に与えた印は『金印紫綬』と書いてあるでしょう。
金印も同じように紐を付けます。紫色の組み紐。紐は腐ってくるからよく鏡だけ発掘品に並べてあるけど
組み紐とセットで、ある意味では組み紐の方が重要だったわけですね。紫綬。
だから、もしも本当に三角縁神獣鏡というものが魏の皇帝が大量生産で卑弥呼の使いにやった鏡とすれば
紫綬を通す所の、紐の孔は綺麗に作り上げて、そこには何色かの組み紐が付けてあってしかるべきなのです。」
省6
49: 05/11(土)06:01 ID:cvTkP9+Z(1) AAS
倭国 漢読み「ワ」 倭読み「やまと」

107年倭国王師升が発音 後漢宮殿書記が記録 倭面土

247年倭国民多数の発音 張政が記録 邪馬臺(台)

その後の外交など交流 多数者が調整 邪靡堆

720年日本書紀 倭の読みは 夜摩苔
省4
50: 06/28(金)11:51 ID:kiTwzhRu(1) AAS
宮崎公立大学の考古学者であった奥野正男氏(1931〜2020年)は、著書「邪馬台国はここだ」(奥野正男著作集?、梓書院、2010年刊)の中で、以下のように述べている。

「平原遺跡から出土した方格規矩四神鏡が後漢晩期の作であるとすれば、共伴する国産の大型鏡もまた3世紀に製作された可能性がある。3世紀はまさに卑弥呼の時代であり、副葬鏡の数、国産大型鏡の大きさにおいても、平原遺跡は日本の古代史上初めて女王となった卑弥呼の墓にふさわしい。」(209ページ)

奥野氏は、論文「卑弥呼の鏡は後漢鏡、その墓は平原である」(『季刊邪馬台国』第2号、梓書院、1979年刊)でも同様の見解を発表している。

また、福岡大学の考古学者・小田富士雄氏らは著書『倭人伝の国々』(学生社、2000年刊)の中で、次のように述べている。

「平原(王墓)は、すでに邪馬台国時代の段階に入っている。」
51: 06/30(日)08:35 ID:NqnbjH5F(1/2) AAS
伊邪那岐・伊邪那美 いざなぎ・いざなみ

邪 呉音ジャ 漢音ヤ

中国南部の浙南石棚墓群つまり呉太伯末裔が前10世紀に長崎伊邪國に少数漂着渡来したから、
「邪(耶)=ざ」として漢字を宛てた。

伊邪國伊耶國いざ 伊佐国いさ 諫早いさはや
阿耶訶あざか 邪馬嘉國ざまか 大坂 栄 佐嘉 佐賀さが
邪馬壱國ざまい (佐馬壱) 雀居遺跡ささい

中国北部出身の張政が来倭して、倭やまとに宛てたのが邪馬台国で、
邪馬台国の「邪=や」だけ中国北部系。
52: 06/30(日)08:36 ID:NqnbjH5F(2/2) AAS
いざ
伊邪國:長崎諫早(伊佐国)
已百支國:伊万里

末蘆國:唐津平野(吾田)柏崎遺跡(笠沙岬)
伊都國(魏代):糸島平野(日向)井原鑓溝遺跡(吾平山上)潤地頭給遺跡(吾平津)
伊都國(漢代):早良平野(日本)吉武遺跡(高天原)
 斯馬國:糸島半島(士摩)

奴國:那珂比恵遺跡〜須玖遺跡(葦原那珂津国)
 不彌國:雀居遺跡(邪馬壱國)ざまい

豊国
省10
53: 07/01(月)20:00 ID:lVTPVCKw(1) AAS
平原1号墳は200年頃の築造とされている。
弥生終末期初め頃。
一方、卑弥呼が急死して墳墓が造られるのは、弥生終末期終わり頃の248年頃。
ちょっと時期がずれるな。

また、1号墳出土の勾玉が問題。
この勾玉は、ガラス製。
平原の部族が、なんで伝統的な翡翠の勾玉を入手できなかったのか。
この点に、大きな謎がある。
邪馬台国の卑弥呼の墓であれば、やはり縄文以来の翡翠の勾玉だろうからな。
それが入手されずに、ガラスを溶かして勾玉を作るというかなり前衛的とも言えることをしているわけだから、平原の部族は価値観が他の部族とは異なっていたのではないか。
省1
54: 07/02(火)12:28 ID:5I9wvYJV(1) AAS
平原王墓が卑弥呼の墓であるという説があります。
55
(1): 07/02(火)15:37 ID:qsk50lTu(1/2) AAS
倭人伝では、倭国の国々に付けた漢字がみな野卑な字となっている中、伊都だけが良字が当てられている。
このことを不審なことだと言う説を見たことがない。
ガラスの勾玉を作った平原部族の前衛的価値観と、その部族の国に伊都という良字が当てられた不審事を合わせると、平原と後漢の帯方郡との間にはかなりな深い付き合いがあったような感じがする。
伊都を邪馬台国とするよりも、伊都を倭国における帯方郡の出張所とみなすほうが妥当ではないか。
56: 07/02(火)15:44 ID:qsk50lTu(2/2) AAS
>>55
訂正
「後漢の帯方郡」は、間違い。
「公孫氏と魏の帯方郡」が、正しい。
57: 07/04(木)14:16 ID:4HP+vMJL(1) AAS
卑弥呼の墓は高良山の祇園山が有力だが、この祇園山の裾部分で出土した1号甕棺は西新式であり卑弥呼の時代に合致する。
しかも、この甕棺には後漢鏡片、硬玉製勾玉、鉄製刀子などが収納されており、三種の神器のセットの観念があったことが分かる。
主体ではない甕棺墓でこの充実さだから、この祇園山の被葬者が卑弥呼であったとすれば、その副葬品の内容は相当なものだった可能性がある。
祇園山が卑弥呼の墓であり、のちにその上部に別の者の墳墓が造営されたとすれば、あとで作られた上部の方形墓は台与の墓かも知れない。
58: 08/14(水)08:48 ID:fJBqVo9k(1) AAS
邪馬臺の中心地がどこであれそこに卑弥呼の墓があるわけではないんだよね
特に卑弥呼は共立王だから邪馬臺の中心地が畿内だとしても墓は父祖の地(例えば九州とか四国)に作られててもおかしくない
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