[過去ログ] 【SUBARU】新型(2代目)レヴォーグ Part12 (1002レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
957: (ワッチョイW 4d28-6Ftx [180.59.74.131]) 2020/08/26(水)23:34 ID:kvcVc9Pl0(7/7) AAS
優秀なネラーやの
958: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:35 ID:MhS+R9Ff0(4/16) AAS
「満足な豚より不満足なソクラテス」の由来と真意とは??ミルとベンサムの功利主義の違い | TANTANの雑学と哲学の小部屋
外部リンク[html]:information-station.xyz
959: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:36 ID:MhS+R9Ff0(5/16) AAS
「満足な豚より不満足なソクラテス」または「太った豚よりも痩せたソクラテス」といった形で語られることが多いこの格言は、

正確には、

19世紀のイギリスの経済学者および社会思想家であるジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)が功利主義に質的な視点を導入するに当たって例として挙げた

「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。それと同じように、
満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」

という言葉に由来すると考えられることになります。
960: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:36 ID:MhS+R9Ff0(6/16) AAS
功利主義(utilitarianism、ユーティリタリアニズム)とは、
ミルと同じイギリスの経済学者であり法学者でもあったベンサムによって提起された倫理学および政治学上の学説であり、
それは、人間の行為の善悪は、その行為の結果としてもたらされる功利(utility、効用、有用性)によって決定されると考える倫理思想ということになります。
この場合の「功利」とは、すなわち、その行為がもたらす結果が行為者自身やその周りの人々にとって良い影響を及ぼすのか?それとも悪い影響を及ぼすのか?ということを示していると考えられるので、
それは、より日常的な言葉でいうならば、幸福や快楽といった言葉に極めて近い概念であると考えられることになります。

ただし、
こうした功利主義において語られている幸福や快楽については、
単に、美味しいものをお腹いっぱい食べて満足だ、とか、お金をいっぱい儲けられてうれしいといった肉体的・即物的な快楽だけではなく、
素晴らしい内容の本を読んで感動したとか、困っている人を助けて心が晴れやかになったといった精神的・知性的な効用のことも含めて「快楽」と呼ばれているので、
功利主義において求められている幸福や快楽とは、
省2
961: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:38 ID:MhS+R9Ff0(7/16) AAS
満足な愚者の生き方と不満足なソクラテスの生き方の質的な差異

そして、ベンサムが、功利主義において問題となる快楽と苦痛はそのすべてが量的に比較可能であり、快楽や苦痛の種類に質的な優劣はないと考えたのに対して、
ミルは、幸福や快楽の実現が人生や社会における最大の目的と考える功利主義の立場に立っても、そうした幸福と快楽には質的な差異が存在すると主張することになります。
上記の「満足な豚より不満足な人間、満足な愚者より不満足なソクラテス」という言葉に表れているように、
十分な餌を与えられ肥え太った豚が何頭合わさっても、飢えてやせ細った一人の人間の価値に満たないように、
盗んだ金でご馳走にありついたり、酒や麻薬に溺れて肉体的な快楽を味わい尽くしたりするといった目先の欲望を満たすことで満足する愚者の生き方よりも、
善美なるものについての普遍的真理を見いだせず、人々を善なる生き方へと導くことができずに悩み続けることで
いつまでも不満足であるソクラテスの生き方の方が、たとえ本人にとっては不満足な状態にあるとしてもより価値のある優れた生き方であると考えられることになります。
962: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:40 ID:MhS+R9Ff0(8/16) AAS
そして、こうしたソクラテスと愚者の双方における生き方の違いや、肉体的快楽と精神的快楽の違いに見られるように、
ミルは、幸福や快楽には、その質において大きな違いがあると考えたということになるのです。

そして、こうしたミルにおける質的快楽主義のことを分かりやすく示すための例えとして用いられたのが、
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
という言葉であると考えられることになるのですが、
こうしたミルの質的快楽主義の例示における論理展開の真ん中の部分を取り去って、頭と末尾の部分をくっつけて簡略化した言葉が、

「満足な豚より不満足なソクラテス」という形で語られることが多い格言ということになります。

そして、ミルが肉体的快楽としては不満足な状態にあるが、精神的にはより価値の高い状態にある人物の例として
わざわざソクラテスのことを挙げている以上、そこには何か理由があると考えられることになるわけですが、
次回は、それではミルは、ソクラテスにおけるどのような思想のことを念頭において、
省1
963
(1): (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:44 ID:MhS+R9Ff0(9/16) AAS
新車を乗り回したり酒やオンナに溺れて肉体的な快楽を味わい尽くしたりするといった目先の欲望を満たすことで満足する愚者の生き方よりも、
たとえ本人にとっては不満足な状態にあるとしてもより価値のある優れた生き方である
964: (スプッッ Sdc3-0dad [1.75.250.123]) 2020/08/26(水)23:44 ID:PgXk8VTod(7/7) AAS
>>953
意味が違うって言ったの全く解ってないようだな
カニの目は出っぱって丸いからカニ目ってのはそう言う意匠なヘッドライトのことで
しかも特定の車の愛称なんだよ
外部リンク[html]:gazoo.com
だから全然意味が違うし
お前が作った言葉でもないし
違う車の事だし
車を知ってる奴からはバカにされるだけだからやめておけって
965: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:45 ID:MhS+R9Ff0(10/16) AAS
ただ生きることと善く生きることの違い

ソクラテスは、『クリトン』における友人クリトンとの対話の中で、人間が生きるべきあり方について以下のように語っています。

一番大切なことはただ生きることではなく、善く生きることである(プラトン著、『クリトン』、第8節)

それでは、ここでソクラテスが言う「善く生きる」とはいかなる生き方のことを指していて、
それは「ただ生きる」ということとはどのように違うのか?ということですが、
こうしたことについては、『クリトン』の中では、さらに以下のように語られている箇所があります。
966: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:45 ID:MhS+R9Ff0(11/16) AAS
『クリトン』では、アテナイの人々の手による民衆裁判によって死刑判決を下されたのち、毒人参の杯をあおいで死を迎えるまでの時を牢獄の中で過ごしているソクラテスの姿が描かれているのですが、

そのような中、面会に訪れた友人クリトンが牢獄からの脱獄とアテナイの国外への逃亡を勧めるのを聞いていたソクラテスは、

彼を思う友人の勧めとは反対に、法によって定められた裁判の結果を受け入れることが正義に適った善く生きる生き方であることを様々な論駁の議論によって示していくことになります。

そうした論駁の中で、ソクラテスは、

クリトンの勧めに従って国外へと逃亡することになった場合、自分が落ちのびることになる土地としてアテナイの北西にあったギリシア中部の都市国家テッサリアのことを例に挙げながら、自問自答していく形で、以下のように自分自身に語りかけることになるのです。
967: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:46 ID:MhS+R9Ff0(12/16) AAS
お前は、こうした地方を立ち退いて、クリトンの友人たちを頼ってテッサリアへと行こうとでもするのだろう。…

しかし、いったいお前はテッサリアに行って何をしようというのだ?ご馳走になること以外には、あたかもテッサリアへと引っ越したのは食事にありつくためであったとでも言うように!
(プラトン著、『クリトン』、第15節)

389 名前:名無しさん@そうだドライブへ行こう (ワッチョイ b32b-XGqV)[] 2019/04/16(火) 12:44:32.66 ID:EMLvChxX0 [19/126]
ここで、ソクラテスは、

自分が法を破るという行為を犯してまで国外へと逃亡した場合、
そのような正義を踏みにじる恥ずべき行為を犯した自分が道徳や正義について語っても、
そのことに聞く耳を待つ人はもはや誰もいなくなってしまうであろうし、

何よりも、そのようなことをしてまで生きのびても、ソクラテス自身の生き甲斐であり、生きることの最大の目的である善美なるものについての探究と、
善く生きることの追求が果たせなくなってしまうということを問題にしていると考えられることになります。
省6
968: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:47 ID:MhS+R9Ff0(13/16) AAS
以上のように、

『クリトン』の中で示されているソクラテスの人生観においては、

ただ食事にありつき、食欲を満たし続けるといったただ生きるだけの生き方は人間の生き方としては不十分であり、

人間が人間である以上、ただ生きること以上に、善美なるものについての知を探究し、自らが正義に基づいて正しく生きようとする善く生きることを求め続ける生き方がより価値のある生き方として求められていると考えられることになります。

392 名前:名無しさん@そうだドライブへ行こう (ワッチョイ b32b-XGqV)[] 2019/04/16(火) 12:47:24.43 ID:EMLvChxX0 [22/126]
そして、ソクラテスが自らの信念に従って、自らが善く生きるために法によって定められた死を受けいれた、
そのおよそ2000年後の時代を生きたミルも、こうしたソクラテスにおける人生についての考え方と
善く生きることの価値を念頭に置いたうえで、
冒頭の
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
省1
969: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:47 ID:MhS+R9Ff0(14/16) AAS
プラトン著『ソクラテスの弁明』の中で、ソクラテスは、自分が今まで行ってきた哲学探究の活動がどのようなものであり、
それがいかなる意味で善なる生き方に適った行いであるのか?ということについて以下のように語っています。

私は自分の息と力の続く限り、知を愛求し、諸君に忠告し続けることをやめないであろう。…

そして、また、私は以下のようにも信じてもいる。
神に対する私のこの奉仕以上に大きな善がこの国で行われたことがいまだかつてなかったということを。

なぜならば、私が歩き回ってしていることと言えば、身体のことも金銭のことも、どのようにすれば魂をできるだけ優れたものにすることができるのかということ以上に、
あるいは同じくらいにでも気遣ってはならないということを、老いも若きも諸君のすべてに向かって説いて回ることにほかならないからである。

(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第17節)
970: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:47 ID:MhS+R9Ff0(15/16) AAS
つまり、

ソクラテスにおいて、この世界で最も価値がある善なる行いとされることは、

経済活動を通じてお金を稼ぐことでも、運動や食生活によって体を気遣い、自らの健康と容姿を維持することでもなく、

ひとえに自分の魂をより優れた善なるものにするという魂への気遣いにほかならないということです。
971: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:48 ID:MhS+R9Ff0(16/16) AAS
そして、

こうした魂への気遣い、すなわち、自らの魂を善いものへと高め、さらには、周りの人々の魂をも巻き込んで、
それらを共により優れたより善いものへと高めていくための知の愛求こそが人生の最大の目的であり、
それが善く生きるという生き方の核心でもあると考えられることになるのです。

ところで、

上記のソクラテスの言葉において、金銭や身体への気遣いに比べて、魂への気遣いの方を重視してそれを優先すべきであるということが語られているからといって、

それは、もちろん、経済面や身体面への配慮をおろそかにしてもいいということを意味しているわけではありません。
省1
972: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:52 ID:DrZ1QCKs0(1/12) AAS
そして、

経済面での困窮も、それが窮まれば、自由に知を愛求するための心理的な余裕も失われていきますし、
金銭面の不足を補うために無理を重ねれば、身体の不調も引き起こされやすくなることになります。

このように、
魂と身体と金銭の関係は、健全で幸福な人生を歩むうえでは、どれもが欠かすことができない三位一体の関係にある要素であると考えられることになるのです。

しかし、それでは、これらの三つの要素のすべてがその人の人生における意味と価値を決定づけるのに同等の重要性を持った要素なのか?
というと、必ずしもそうではなく、

例えば、いかに、身体が丈夫で有り余るほどの富に囲まれていたとしても、
その人の魂が未熟で悪しきものであるとするならば、その人生自体が無意味で無価値なものとなり、
省2
973: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:53 ID:DrZ1QCKs0(2/12) AAS
それに対して、

たとえ、健全な身体に恵まれず、十分なお金もなくて、経済的な困窮の内に短命の人生を終えるとしても、その人の魂が善きものであったとするならば、

その人の魂とそこから放たれる言葉と行為が周りの人々の魂にも働きかけ、これを癒し、世界に何らかの良い影響を必ず残していくことになるので、

その人の困窮の内に終えた短い人生がまったくの無価値で意味のないものであったということには到底なり得ないということになります。
974: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:53 ID:DrZ1QCKs0(3/12) AAS
そして、むしろ、そのような経済的困窮と病による身体的苦痛といった苦難を与えられてもなお、
自らの魂をより優れたより善いものにする探究を試み続けたその意志の強さと気高さこそが、
その人の人生が、世界にとってもその人自身にとっても大きな価値のある素晴らしいものであったことの確固たる証明となると考えられることになるのです。
975: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:54 ID:DrZ1QCKs0(4/12) AAS
それはちょうど、
ソクラテス自身の人生が、晩年は経済的にも困窮した状態にあり、最後には、無実の罪によって死刑判決を下されることになりながらも、
その判決から逃れるために自らの考えを曲げることもなく、
最期まで、自分の考えと生き方を貫き通した人生であり、
そうした知の愛求と善く生きることを探究し続ける姿勢を貫き続けたソクラテスの生き方と死に様自体が、
ソクラテス自身の魂の善さと気高さを明確に表しているのと同じ関係にあると考えられることになります。

以上のように、

ソクラテスの言う「善く生きる」ということの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いと、それをもたらすための知の愛求があると考えられることになるのですが、

それでは、こうした善く生きるための魂への気遣いと知の愛求は、より具体的にはどのようにして実現されていくことになるのでしょうか?
976: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:57 ID:DrZ1QCKs0(5/12) AAS
善く生きるとは何か??
四元徳に基づく善い生き方とソクラテスにおける知徳一致の思想

前回書いたように、ソクラテスの哲学における「善く生きる」ことの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いがあると考えられるのですが、

ソクラテスにおいては、そうした魂への気遣いは、端的に言えば、徳の習得によってもたらされると考えられることになります。
1-
あと 26 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.014s