[過去ログ] 【SUBARU】新型(2代目)レヴォーグ Part12 (1002レス)
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975: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:54 ID:DrZ1QCKs0(4/12) AAS
それはちょうど、
ソクラテス自身の人生が、晩年は経済的にも困窮した状態にあり、最後には、無実の罪によって死刑判決を下されることになりながらも、
その判決から逃れるために自らの考えを曲げることもなく、
最期まで、自分の考えと生き方を貫き通した人生であり、
そうした知の愛求と善く生きることを探究し続ける姿勢を貫き続けたソクラテスの生き方と死に様自体が、
ソクラテス自身の魂の善さと気高さを明確に表しているのと同じ関係にあると考えられることになります。
以上のように、
ソクラテスの言う「善く生きる」ということの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いと、それをもたらすための知の愛求があると考えられることになるのですが、
それでは、こうした善く生きるための魂への気遣いと知の愛求は、より具体的にはどのようにして実現されていくことになるのでしょうか?
976: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:57 ID:DrZ1QCKs0(5/12) AAS
善く生きるとは何か??
四元徳に基づく善い生き方とソクラテスにおける知徳一致の思想
前回書いたように、ソクラテスの哲学における「善く生きる」ことの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いがあると考えられるのですが、
ソクラテスにおいては、そうした魂への気遣いは、端的に言えば、徳の習得によってもたらされると考えられることになります。
977: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:57 ID:DrZ1QCKs0(6/12) AAS
ギリシア語における徳(arete、アレテー)とは、もともと、人間の持つ能力やその優れたあり方、卓越性のことを指す概念であり、
例えば、
ミケランジェロのように優れた彫像を作り上げることができる人物は、彫刻家としての徳を持った人であり、
優れた政治家のように、言論によって人々を説得する技術に秀でた人物は、政治家としての徳を持った人、または、弁論術の徳を持った人であると考えられることになります。
しかし、
省2
978: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:57 ID:DrZ1QCKs0(7/12) AAS
そして、
そうした人間の魂の善さに関わる徳のあり方については、
のちに、ソクラテスの弟子であるプラトンにおいて、知恵と勇気と節制そして正義という四つの徳、すなわち、四元徳の形にまでまとめ上げられることになるのですが、
こうした四つの徳の相互作用によって人間の人格とその人の人生のあり方が形成されていくと捉えられることになります。
つまり、
省6
979: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:58 ID:DrZ1QCKs0(8/12) AAS
それでは、次に、どうすれば、四元徳に適うような生き方が可能となり、人間の魂の善さに関わる徳を十分に習得することができるのか?ということですが、
そうした魂を善くする徳を身につけることは、知の愛求(philosophia、フィロソフィア)すなわち、哲学の営みによってのみもたらされるというのがこの問いに対するソクラテスの解答ということになります。
つまり、
自らの魂をより善いものへと高めていくための徳の習得は、そうした善なる徳についての知識を得ること、すなわち、善美なるもの(kalon kagathon、カロン・カガトン)についての知を得ることによってもたらされるということです。
そして、
こうした「徳とは知である」というソクラテスにおける知徳一致の思想は、
さらには、道徳の実現は、善なるものについての知によってのみもたらされるという
ソクラテスの主知主義の思想へとつながっていくことになるのです。
省6
980: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:58 ID:DrZ1QCKs0(9/12) AAS
このように、
かえってそうした知識や知恵があるゆえに、それを利用して他人を騙したり、不正を働いたりして悪の道へと進んでしまう人間もいる以上、
知恵や知識自体は善い生き方だけではなく、悪い生き方にも同等に用いることができると考えられることになりますし、
単に知識として何が善で何が悪であるかを知っていたとしても、そのことだけですべての人が善人になるといったことは到底あり得ず、
むしろ、実際に人が悪事を行う場合においては、自分がやっていることが悪と分からずに行う悪人よりも、悪を悪と分かっていながら行う悪人の方がよっぽど多いと考えられることになります。
それでは、
ソクラテスは、こうした主知主義における矛盾をどのように解決し、善なるものについての知とそうした知への愛求のみから、善なる徳の習得と、ひいては、善く生きるという生き方の実現自体を成し遂げていくことになるのでしょうか?
981: (ワッチョイW 0d7b-OjTm [14.9.86.32]) 2020/08/26(水)23:58 ID:JD+1an5z0(1) AAS
スレ立て規制食らったので誰か頼むで
982: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:58 ID:DrZ1QCKs0(10/12) AAS
ソクラテスの主知主義のパラドックスの論理整合的な解釈と普遍的真理としての善なる知、善く生きるとは何か??
983: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:59 ID:DrZ1QCKs0(11/12) AAS
人間の魂をより善いものへと高めていくための徳の習得は、善なるものについての知を得ることによってのみもたらされるとするソクラテスの知徳一致の思想は、
さらに、善なる知からは必ず善なる徳、そして、善なる行いがもたらされるとする主知主義の思想へとつながっていきます。
そして、
こうした考え方は、ソクラテスのパラドックス、または、主知主義のパラドックスなどと呼ばれる議論へと結びついていくことになります。
984: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:59 ID:DrZ1QCKs0(12/12) AAS
前回も書いたように、知と徳、知識と行動の関係については、
通常は、知識をもっていることとその知識に基づいて行動することは必ずしも直接的には結びつかない問題であると考えられることになります。
例えば、
私たちは、地球一周がおよそ4万キロメートルであることを知識として知っているとしても、だからといって、実際に地球を一周してその長さを測ってみた人はほとんどいないように、
人は、必ずしも自分が知っていることのすべてを実際に行うわけではなく、通常の知識については、それを知っていることと実際に行うこととはまったく別次元の問題であると考えられるということです。
985: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:00 ID:9hWMFjQF0(1/16) AAS
しかし、それに対して、
少なくとも、善に関する知識と行いについては、
両者は必ず一致する、
つまり、
善なることを知っていながら、それを自分の人生においては実際には行わずにいることや、真なる意味で何が善であるかを知りつつも、みすみす悪の道へと走ってしまうということは決してあり得ない
というのがソクラテスの主知主義における強い主張ということになります。
986: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:00 ID:9hWMFjQF0(2/16) AAS
このように、
通常の知については、知を持っていることとその知に基づいて行動することは別問題であると思われるのに、
善に関する知と行いについては両者が直接結びつき、善なる知を持つ人は必ずその知に基づいて善なる行動をするというソクラテスの主張は、
一見すると矛盾する逆説的な主張であるようにも思われるわけですが、
こうしたソクラテスの主知主義のパラドックスは、どのようにして論理整合的に解釈することができるのでしょうか?
987: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:00 ID:9hWMFjQF0(3/16) AAS
無抑制の克服と知の吟味に基づく普遍的な善なる知
そこで、まず、
人間が一般的に自らの知識と認識に反する行動をとってしまうとされる場合について考えてみると、
人が、自分では何をするのが善いことであるのか分かっているつもりでいながら、それに反して悪しきことを行ってしまう時、その人は、無抑制(akarasia、アカラシア)の状態にあると考えられることなります。
988: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:00 ID:9hWMFjQF0(4/16) AAS
例えば、
明日仕事があるのに、前日についついお酒を飲み過ぎたり食べ過ぎたりしてしまって、翌日、二日酔いや胃もたれなどで、前日あんなに食べたり飲んだりしなければよかったと後悔するのは、
通常は、自分の行動を知識によって制御できない無抑制の典型例にあたると考えられることになります。
989: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:01 ID:9hWMFjQF0(5/16) AAS
しかし、
よく考えてみると、翌日忙しい時にはお酒は飲まずに食事も何時までと明確なルールを決めておくとか、そもそもお酒は買いだめをせずに、飲める日に飲んでいい量だけを買うことにするというように、
事前にもっとよく吟味した計画を立てていれば、無理にその場で飲むか飲まざるかの感情的な葛藤を繰り広げなくても翌日仕事がある場合のお酒の飲みすぎや食べ過ぎを避けることはある程度可能と考えられることになります。
990: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:01 ID:9hWMFjQF0(6/16) AAS
つまり、
翌日仕事がある場合にもついつい飲みすぎたり食べ過ぎたりしてしまうことの背景には、単に飲みたい食べたいといった欲求や感情を抑えきれないという無抑制の問題だけではなく、
それぞれの場合に、どのような選択をするのがより良い結果へと結びつきやすくなるのか?ということについての十分な知の吟味が不足しているという問題が根本にはあり、
そのために、後で後悔をすることになる悪い結果を招きやすい行動選択がなされてしまうと考えられることになるということです。
991: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:01 ID:9hWMFjQF0(7/16) AAS
そして、それと同様に、
口論がエスカレートして思わず相手と殴り合いの喧嘩をしてしまったといったより倫理的問題が大きく関わるケースにおいても、
それは、単なる感情の抑制の問題としてだけではなく、自他の知のあり方の吟味の問題としても捉えられることになります。
992: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:01 ID:9hWMFjQF0(8/16) AAS
つまり、
自分の発言が相手にどのように受け取られ、相手の発言がどのような意図によってなされているのか?といったことについての自他の知のあり方のより深い吟味ができていれば、殴り合いの喧嘩といった事態を避けることはできたと考えられ、
少なくとも、そういった破壊的な事態へと至ってしまう前に、互いに自制を促したり、口論がヒートアップする前に、いったん議論を打ち切って、場を改めるといった方策をとることは可能であったと考えられるということです。
993: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:02 ID:9hWMFjQF0(9/16) AAS
いずれにせよ、このように、
その物事が何であるか?といった技術や教養についての一般的な知識ではなく、
どうするのが善いことなのか?といった道徳や倫理、善悪の知については、
それは、十全なる知の吟味によって、知ることが知っている通りに行動することへと直結してくる問題でもあると捉えられることになります。
994: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:02 ID:9hWMFjQF0(10/16) AAS
つまり、
十分な知の吟味を経ることによって普遍的で十全なる善なる知へと限りなく近づくことができるとしたならば、
そこにはもはや、感情や欲求のその時々の制御といった偶然性の付け入る隙はなくなることになり、
そうした普遍的真理としての善なる知のみによって、善なる徳の完全なる習得とそうした知に基づく善なる生が全うされると考えられることになるのです。
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