[過去ログ] 【SUBARU】新型(2代目)レヴォーグ Part12 (1002レス)
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968: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:47 ID:MhS+R9Ff0(13/16) AAS
以上のように、

『クリトン』の中で示されているソクラテスの人生観においては、

ただ食事にありつき、食欲を満たし続けるといったただ生きるだけの生き方は人間の生き方としては不十分であり、

人間が人間である以上、ただ生きること以上に、善美なるものについての知を探究し、自らが正義に基づいて正しく生きようとする善く生きることを求め続ける生き方がより価値のある生き方として求められていると考えられることになります。

392 名前:名無しさん@そうだドライブへ行こう (ワッチョイ b32b-XGqV)[] 2019/04/16(火) 12:47:24.43 ID:EMLvChxX0 [22/126]
そして、ソクラテスが自らの信念に従って、自らが善く生きるために法によって定められた死を受けいれた、
そのおよそ2000年後の時代を生きたミルも、こうしたソクラテスにおける人生についての考え方と
善く生きることの価値を念頭に置いたうえで、
冒頭の
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
省1
969: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:47 ID:MhS+R9Ff0(14/16) AAS
プラトン著『ソクラテスの弁明』の中で、ソクラテスは、自分が今まで行ってきた哲学探究の活動がどのようなものであり、
それがいかなる意味で善なる生き方に適った行いであるのか?ということについて以下のように語っています。

私は自分の息と力の続く限り、知を愛求し、諸君に忠告し続けることをやめないであろう。…

そして、また、私は以下のようにも信じてもいる。
神に対する私のこの奉仕以上に大きな善がこの国で行われたことがいまだかつてなかったということを。

なぜならば、私が歩き回ってしていることと言えば、身体のことも金銭のことも、どのようにすれば魂をできるだけ優れたものにすることができるのかということ以上に、
あるいは同じくらいにでも気遣ってはならないということを、老いも若きも諸君のすべてに向かって説いて回ることにほかならないからである。

(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第17節)
970: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:47 ID:MhS+R9Ff0(15/16) AAS
つまり、

ソクラテスにおいて、この世界で最も価値がある善なる行いとされることは、

経済活動を通じてお金を稼ぐことでも、運動や食生活によって体を気遣い、自らの健康と容姿を維持することでもなく、

ひとえに自分の魂をより優れた善なるものにするという魂への気遣いにほかならないということです。
971: (ワッチョイ 1d88-xiBb [124.210.67.118]) 2020/08/26(水)23:48 ID:MhS+R9Ff0(16/16) AAS
そして、

こうした魂への気遣い、すなわち、自らの魂を善いものへと高め、さらには、周りの人々の魂をも巻き込んで、
それらを共により優れたより善いものへと高めていくための知の愛求こそが人生の最大の目的であり、
それが善く生きるという生き方の核心でもあると考えられることになるのです。

ところで、

上記のソクラテスの言葉において、金銭や身体への気遣いに比べて、魂への気遣いの方を重視してそれを優先すべきであるということが語られているからといって、

それは、もちろん、経済面や身体面への配慮をおろそかにしてもいいということを意味しているわけではありません。
省1
972: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:52 ID:DrZ1QCKs0(1/12) AAS
そして、

経済面での困窮も、それが窮まれば、自由に知を愛求するための心理的な余裕も失われていきますし、
金銭面の不足を補うために無理を重ねれば、身体の不調も引き起こされやすくなることになります。

このように、
魂と身体と金銭の関係は、健全で幸福な人生を歩むうえでは、どれもが欠かすことができない三位一体の関係にある要素であると考えられることになるのです。

しかし、それでは、これらの三つの要素のすべてがその人の人生における意味と価値を決定づけるのに同等の重要性を持った要素なのか?
というと、必ずしもそうではなく、

例えば、いかに、身体が丈夫で有り余るほどの富に囲まれていたとしても、
その人の魂が未熟で悪しきものであるとするならば、その人生自体が無意味で無価値なものとなり、
省2
973: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:53 ID:DrZ1QCKs0(2/12) AAS
それに対して、

たとえ、健全な身体に恵まれず、十分なお金もなくて、経済的な困窮の内に短命の人生を終えるとしても、その人の魂が善きものであったとするならば、

その人の魂とそこから放たれる言葉と行為が周りの人々の魂にも働きかけ、これを癒し、世界に何らかの良い影響を必ず残していくことになるので、

その人の困窮の内に終えた短い人生がまったくの無価値で意味のないものであったということには到底なり得ないということになります。
974: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:53 ID:DrZ1QCKs0(3/12) AAS
そして、むしろ、そのような経済的困窮と病による身体的苦痛といった苦難を与えられてもなお、
自らの魂をより優れたより善いものにする探究を試み続けたその意志の強さと気高さこそが、
その人の人生が、世界にとってもその人自身にとっても大きな価値のある素晴らしいものであったことの確固たる証明となると考えられることになるのです。
975: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:54 ID:DrZ1QCKs0(4/12) AAS
それはちょうど、
ソクラテス自身の人生が、晩年は経済的にも困窮した状態にあり、最後には、無実の罪によって死刑判決を下されることになりながらも、
その判決から逃れるために自らの考えを曲げることもなく、
最期まで、自分の考えと生き方を貫き通した人生であり、
そうした知の愛求と善く生きることを探究し続ける姿勢を貫き続けたソクラテスの生き方と死に様自体が、
ソクラテス自身の魂の善さと気高さを明確に表しているのと同じ関係にあると考えられることになります。

以上のように、

ソクラテスの言う「善く生きる」ということの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いと、それをもたらすための知の愛求があると考えられることになるのですが、

それでは、こうした善く生きるための魂への気遣いと知の愛求は、より具体的にはどのようにして実現されていくことになるのでしょうか?
976: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:57 ID:DrZ1QCKs0(5/12) AAS
善く生きるとは何か??
四元徳に基づく善い生き方とソクラテスにおける知徳一致の思想

前回書いたように、ソクラテスの哲学における「善く生きる」ことの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いがあると考えられるのですが、

ソクラテスにおいては、そうした魂への気遣いは、端的に言えば、徳の習得によってもたらされると考えられることになります。
977: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:57 ID:DrZ1QCKs0(6/12) AAS
ギリシア語における徳(arete、アレテー)とは、もともと、人間の持つ能力やその優れたあり方、卓越性のことを指す概念であり、

例えば、

ミケランジェロのように優れた彫像を作り上げることができる人物は、彫刻家としての徳を持った人であり、

優れた政治家のように、言論によって人々を説得する技術に秀でた人物は、政治家としての徳を持った人、または、弁論術の徳を持った人であると考えられることになります。

しかし、
省2
978: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:57 ID:DrZ1QCKs0(7/12) AAS
そして、

そうした人間の魂の善さに関わる徳のあり方については、

のちに、ソクラテスの弟子であるプラトンにおいて、知恵と勇気と節制そして正義という四つの徳、すなわち、四元徳の形にまでまとめ上げられることになるのですが、

こうした四つの徳の相互作用によって人間の人格とその人の人生のあり方が形成されていくと捉えられることになります。

つまり、
省6
979: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:58 ID:DrZ1QCKs0(8/12) AAS
それでは、次に、どうすれば、四元徳に適うような生き方が可能となり、人間の魂の善さに関わる徳を十分に習得することができるのか?ということですが、

そうした魂を善くする徳を身につけることは、知の愛求(philosophia、フィロソフィア)すなわち、哲学の営みによってのみもたらされるというのがこの問いに対するソクラテスの解答ということになります。

つまり、

自らの魂をより善いものへと高めていくための徳の習得は、そうした善なる徳についての知識を得ること、すなわち、善美なるもの(kalon kagathon、カロン・カガトン)についての知を得ることによってもたらされるということです。

そして、
こうした「徳とは知である」というソクラテスにおける知徳一致の思想は、
さらには、道徳の実現は、善なるものについての知によってのみもたらされるという
ソクラテスの主知主義の思想へとつながっていくことになるのです。
省6
980: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:58 ID:DrZ1QCKs0(9/12) AAS
このように、
かえってそうした知識や知恵があるゆえに、それを利用して他人を騙したり、不正を働いたりして悪の道へと進んでしまう人間もいる以上、

知恵や知識自体は善い生き方だけではなく、悪い生き方にも同等に用いることができると考えられることになりますし、

単に知識として何が善で何が悪であるかを知っていたとしても、そのことだけですべての人が善人になるといったことは到底あり得ず、

むしろ、実際に人が悪事を行う場合においては、自分がやっていることが悪と分からずに行う悪人よりも、悪を悪と分かっていながら行う悪人の方がよっぽど多いと考えられることになります。

それでは、
ソクラテスは、こうした主知主義における矛盾をどのように解決し、善なるものについての知とそうした知への愛求のみから、善なる徳の習得と、ひいては、善く生きるという生き方の実現自体を成し遂げていくことになるのでしょうか?
981: (ワッチョイW 0d7b-OjTm [14.9.86.32]) 2020/08/26(水)23:58 ID:JD+1an5z0(1) AAS
スレ立て規制食らったので誰か頼むで
982: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:58 ID:DrZ1QCKs0(10/12) AAS
ソクラテスの主知主義のパラドックスの論理整合的な解釈と普遍的真理としての善なる知、善く生きるとは何か??
983: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:59 ID:DrZ1QCKs0(11/12) AAS
 人間の魂をより善いものへと高めていくための徳の習得は、善なるものについての知を得ることによってのみもたらされるとするソクラテスの知徳一致の思想は、

さらに、善なる知からは必ず善なる徳、そして、善なる行いがもたらされるとする主知主義の思想へとつながっていきます。

そして、

こうした考え方は、ソクラテスのパラドックス、または、主知主義のパラドックスなどと呼ばれる議論へと結びついていくことになります。
984: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/26(水)23:59 ID:DrZ1QCKs0(12/12) AAS
前回も書いたように、知と徳、知識と行動の関係については、

通常は、知識をもっていることとその知識に基づいて行動することは必ずしも直接的には結びつかない問題であると考えられることになります。

例えば、

私たちは、地球一周がおよそ4万キロメートルであることを知識として知っているとしても、だからといって、実際に地球を一周してその長さを測ってみた人はほとんどいないように、

人は、必ずしも自分が知っていることのすべてを実際に行うわけではなく、通常の知識については、それを知っていることと実際に行うこととはまったく別次元の問題であると考えられるということです。
985: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:00 ID:9hWMFjQF0(1/16) AAS
しかし、それに対して、

少なくとも、善に関する知識と行いについては、
両者は必ず一致する、

つまり、

善なることを知っていながら、それを自分の人生においては実際には行わずにいることや、真なる意味で何が善であるかを知りつつも、みすみす悪の道へと走ってしまうということは決してあり得ない

というのがソクラテスの主知主義における強い主張ということになります。
986: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:00 ID:9hWMFjQF0(2/16) AAS
このように、

通常の知については、知を持っていることとその知に基づいて行動することは別問題であると思われるのに、
善に関する知と行いについては両者が直接結びつき、善なる知を持つ人は必ずその知に基づいて善なる行動をするというソクラテスの主張は、
一見すると矛盾する逆説的な主張であるようにも思われるわけですが、

こうしたソクラテスの主知主義のパラドックスは、どのようにして論理整合的に解釈することができるのでしょうか?
987: (ワッチョイ 0d88-xiBb [14.101.55.164]) 2020/08/27(木)00:00 ID:9hWMFjQF0(3/16) AAS
無抑制の克服と知の吟味に基づく普遍的な善なる知

そこで、まず、

人間が一般的に自らの知識と認識に反する行動をとってしまうとされる場合について考えてみると、

人が、自分では何をするのが善いことであるのか分かっているつもりでいながら、それに反して悪しきことを行ってしまう時、その人は、無抑制(akarasia、アカラシア)の状態にあると考えられることなります。
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