●敦賀・小松・高岡● 【市街地&郊外】part2 (461レス)
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317: 名無しの歩き方@お腹いっぱい。 [sage] 2013/12/20(金) 21:16:08.95 ID:LHp/zV3a0 481 :讀賣新聞 富山版 2012年9月8日:2013/12/19(木) 12:37:45.62 ID:w9WGiQRaほくりく学 磯田道史 賢君「開いた」国づくり 加賀藩と越前藩? 加賀に比べて越前は貧しい。この点で、江戸人の評価は一致していた。しかし、加賀よりは越前のほうが武士はしゃんとしている、と思われていた。 幕末諸藩の藩風を評した書物『人国談』には、加賀を「富饒の国」と呼び、越前を「貧国」と書いてある。 しかし、幕末の越前藩は「藩主が政治と教化に心を砕き、軍備に力を尽くして、土民の心をつかんでいる。土地は貧狭だが人心が一つになれば外国侵略も恐れるに足りない国だ」と評されている。 加賀藩が殿様も武士も「能楽にうつつをぬかして何もしない」という評判をとっていたのとは対照的であった。 薩摩藩の密偵も越前藩主を「非常に英邁である」「尋常の藩主でない」とほめている(肝付兼武『東北風談』)。 質素を基本にして富国強兵の政治改革をすすめ、国民が大いに帰服している、というのである。ここでいう藩主とは松平慶永(春嶽)のことである。 たしかに慶永は賢君であった。この殿様は好奇心が強く、自分で身軽に動いた。ノミ・シラミだらけの国学者・橘 曙覧の宅を自ら訪れたこともある。 なにより人材と情報の収集に貪欲。横井小楠を越前藩に招へいし、坂本龍馬・勝海舟に資金提供していたのも彼であった。西洋人教師もいちはやく連れてきた。維新期、越前の底力は「開いていること」であった。 加賀藩も江戸前期までは開放的で、儒者の室鳩巣を招くなど知の世界の中心にいた。しかし幕末には「三州割拠」に象徴されるように独立超然の傾向を強めていた。 大藩の誇りが邪魔をして、他藩の事例に学ぶ姿勢に乏しく、政治改革が遅れた面がある。 北陸の人口規模では日本国内で「割拠」することなどできない。太平洋ベルトからはずれた奥座敷のこの地は排他的・閉鎖的では衰退してしまう地政学的特質をもっている。 もうすぐ新幹線もくる。北陸は閉じていては成り立たない。北陸は精神を開放的にして、たえず人材と情報を日本中から集めはじめたとき日本の主導者となっている。 これは加賀藩と越前藩という二つの藩の歴史的経験がそれを示している。 (日本史家・静岡文化芸術大学准教授)(この項おわり) http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/chiri/1326026044/317
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