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松崎しげる [転載禁止]©2ch.net (97レス)
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95: 7分74秒 [sage] 2018/06/26(火) 09:23:36 ID:AsndHNo9 デルモア・シュワルツは、『夢の中で責任が始まる』という短篇小説によってアメリカ文学史に燦然と輝いている作家である。 この短篇は、一九八八年に刊行された村上春樹訳編の『and Other Stories とっておきのアメリカ小説12篇』(文藝春秋)の中に、『夢で責任が始まる』という題で収録されている。 訳者の畑中佳樹は次のように書いている。 「たった一発の狙いすました弾丸でたった一つの的を射ぬき、あとは一切余計なことをせずに死んでいった作家――デルモア・シュウォーツを、ぼくはそんな風に感じている。 その一発の弾丸とは、一つの短篇小説である。そのタイトルが、まるで伝説のように、アメリカ小説愛好家の間で囁かれつづけてきた。」 『夢の中で責任が始まる』が長く語り継がれる伝説の作品となった理由のひとつは、たぶん、それが「映画」と「夢」の親密な関わりについて書かれた最初の、そして最高の小説だからだ。 時は、一九〇九年。主人公の「僕」は映画館でスクリーンを見つめている。映っているのは古いサイレント映画で、そこに登場する男女は、若き日の「僕」の父と母だ。 父は母を連れ出して、コニーアイランドへ出かける。浜辺を散歩し、メリーゴーランドに乗り、いちばん高級な店で食事をとる。 そこで父は母にプロポーズする。母はうれしさのあまりすすり泣く。 すると、「僕」は席から立ち上がり、 スクリーンに向かって 「結婚しちゃいけない! まだ間に合う、考え直すんだ、二人とも。いいことなんて何も待ってないぞ。後悔とにくしみと醜聞と、それからおそろしい性格の子供が二人、それだけさ!」と叫ぶ――。 かつて、ジャン・コクトーは、 「映画とは現在進行形の死をとらえた芸術だ」と書いたが、 そんな映画というものの特異さ、そして映画館でスクリーンに魅入っている時の混濁した深層心理、夢想とも妄想ともつかない昏い惑乱状態をこれほど繊細に掬い取った作品はない。 『夢の中で責任が始まる』は、一九三七年に復刊された「パーティザン・レヴュー」の巻頭を飾ったが、当時、二十四歳だったデルモア・シュワルツは、一躍、若手世代の文化英雄となった。 文芸批評家のアルフレッド・ケイジンが「『夢の中で責任が始まる』は、率直で、美しく、忘れられないものだった。 ……〈われわれの経験〉についてその後読むことになったもののなかで、最高の寓話だった」と回想しているのは、そのひとつの例証だ。 私が、デルモア・シュワルツの名前をふたたび強く意識するようになったのは、 マガジンハウスの文芸誌『鳩よ!』の2001年12月号で「坪内祐三 いつも読書中」という特集が組まれ、その中で坪内祐三がデルモア・シュワルツの『スクリーノ』という短篇を翻訳し、 「必敗者シュワルツ」という刺激的なエッセーを寄せていたからである。 この『スクリーノ』も「映画」と「映画館」が主題になっていた。 坪内祐三さんは、その後、2007年に『変死するアメリカ作家たち』を上梓する。 この本は、一九九一年から未来社のPR誌『未来』に断続的に連載された20世紀のアメリカ文学で変死したマイナー作家たちを描いたポルトレがもとになっており、 その巻頭を置かれていたのがデルモア・シュワルツだった。 そのほかにハリー・クロスビー、ナサニェル・ウエスト、ロス・ロックリッジ、ウェルドン・キースというシブい名前が並んでいる。 坪内さんによれば、 当初は、さらにジェイムズ・エイジーとリング・ラードナーのふたりの作家を加えて一冊にまとめる構想があったようで、本来なら最初の彼の著作になるはずであったという。 この頃、神田神保町の北沢書店のバーゲンだったかで、五百円ぐらいで『Selected Essays of Delmore Schwartz』を見つけた。 デルモア・シュワルツの詩作と小説以外の評論、エッセイを集成した大部のハードカバーで、私は、拾い読みしているうちに、 デルモア・シュワルツは、ほぼ同世代のジェイムス・エイジーにどこか似ているなと思った。 ジェイムズ・エイジーは、アメリカが生んだ最高の映画批評家であり、優れた詩人、作家、シナリオライターでもあったが、デルモア・シュワルツと同様、 過度のアルコール中毒と憂鬱症のために、やはり〈変死〉している。 ピューリッツァー賞を獲ったエイジーの唯一の長篇小説『家族の中の死』も自伝的な作品で、父親とチャップリンの映画を見に行った幼少時の場面が印象的に描かれていた。 デルモア・シュワルツも、T・S・エリオット、エズラ・パウンド、W・H・オーデンをめぐる詩論、ヘミングウェイ、フォークナー、ジイドについての作家論などのほかに、 映画評論も手がけている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1425132426/95
96: 7分74秒 [sage] 2018/06/26(火) 20:23:53 ID:my5ylTpt 37 2007年01月05日 23:02 M. F. > 時岡玉枝さま お返事が遅くなって申し訳ありません。 ブーレーズおよび日本でのブーレーズの音楽に関する言論状況についてお持ちのご不満は 主に、少なくとも一般に広く流布しているものに関しては、やや衒学的なレベルの議論が 多く楽譜の実質的内容に踏み込んだものがほとんどない事であると理解しました。 確かに、ある時期以降のブーレーズの著作には、理論的な記述はほとんど見られなく なりますね。ライヴ・エレクトロニクスを用いる3作品は楽譜すら購入不可能ですが、 これは個人的にも大きな不満のひとつです。(なおLa corruption...は1956年ですので、 これ以降というとほとんどすべて、たとえばPenser la musique aujourd'huiなども 含まれてしまうことになりますね。) ただし記憶が正しければ、(私自身見聞きしたわけではありませんが)ブーレーズは '70年代以降も自作に関するレクチャーを時たま行っていたと思います。彼がそれを 文字にするのに必要な(する気があるかどうかは別として)時間を手に入れるのは いつになるでしょう?? 一方で、現今の日本におけるブーレーズに纏わる言説で「質の低いもの」が抱える問題は、 「事実の入念な検討」を欠いていること、それも楽譜の分析を知っているかどうかという レベルではなくて、日本語で参照可能なブーレーズ自身の著述(謂わば"1.5次"資料)に すらあたっていない事に起因すると考えるので、それはある程度書き手の自己責任かな、 と思います。 何れにせよ、ブーレーズを含む20世紀の音楽について、他の芸術との相関において 語り得る、あるいは語られなければならない側面についてすら、一般向けの適切な解説を 見出すことは稀なので(もちろんブーレーズ自身は沢山語っていますが、彼は直接的言及を 避けるタイプですし、単独では理解は容易ではありませんから)自分で補完しなければ ならない現今の状況は、何とも不自由だなと感じています。 あまりお返事にはなっていないかと思いますが、とりあえず。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1425132426/96
97: 7分74秒 [sage] 2018/06/27(水) 07:44:57.29 ID:53UZMGa8 38 2007年01月06日 20:26 時岡玉枝 >M.F.さま 私の発言のような、単にエンピリカル/プラグマティックな物言いで 誤魔化されることは お嫌いなのだろうな、という事は 承知の上で、 敢えて、わたしレヴェルの意見に 真摯にお答えいただきましたことには、 おおげさでなく 心より感謝いたします。 皮肉と受け取らないでいただければ 幸いなのですが… と同時に、やはり M.F.さまですら、 ブーレーズ自身というより、受容・解釈 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1425132426/97
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