[過去ログ] 【税】清田スポーツちゃんねるについて語るスレ ★2 (1002レス)
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838(1): あ 11/20(水)19:45 ID:+nQOApwY0(5/9) AAS
1995年 テレビ業界から見たブームの陰り シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
22年前の新聞から見える「Jリーグブームの凋落」
今回は、古い新聞記事の引用から始めることにしたい。見出しは「Jリーグ3年目 前期のTV放送日程決まる 実質的中継数は減 各局及び腰」。今から22年前、1995年の2月20日の東京新聞夕刊の記事だ。
リード文を読んでみよう。「Jリーグ前期のテレビの中継日程が決まった。ブームにわいた一昨年に比べ、このところの逆風もあって及び腰の姿勢が全体的に目立つ。今年は、Jリーグ中継を茶の間に定着させるための正念場になりそうだ」とある。記事によれば、この前期(3月18日〜7月22日)は民放・NHK合わせて21試合が、すべてゴールデンで中継されることが決まっていた。中継試合数そのものは、前年後期と同じだが、チーム数が2つ増えていること(この年からセレッソ大阪と柏レイソルが昇格)を考慮すれば「実質的な中継数は減った勘定になる」としている。
記事の中で、当時のNTV(日本テレビ放送網)のしかるべき人物がコメントを寄せている。日本テレビはこの年から水曜の試合は中継しない方針を打ち出したが、その理由について「残念ながら、一昨年から昨年の間に、Jリーグ中継の商品価値は、かなり落ちたと言わざるを得ない」。さらに、当時のJリーグの現状について「一時の熱が冷めて、視聴者が冷静に試合を見るようになった。ある意味では今の数字が正常」という手厳しい見解も示している。ちなみにコメントの主は坂田信久スポーツ局次長。のちにヴェルディ川崎(当時)の社長に就任し、同クラブの東京移転に尽力する人物である。
省2
839(1): あ 11/20(水)19:46 ID:+nQOApwY0(6/9) AAS
「日本サッカー冬の時代を支えた」テレビ東京の場合
「もともとテレビ業界に入りたいというより、むしろサッカーの仕事がしたかったんです。でも当時、日本のサッカーはアマチュアだったから『サッカーの仕事』といっても選択肢はなかったんですよね。だったら、あの『ダイヤモンドサッカー』をやっているテレビ東京しかない(笑)。だから役員面接でも、サッカーの話ばかりしていました」
現在、東京ヴェルディのパートナー営業部と普及部を兼務する葉梨忠男が、テレビ東京に入社したのは85年のことであった。最初に配属されたのは営業部。当時のテレビ東京には、営業が企画を立てて、スポンサーを集めて番組を成立させるというシステムがあった。加えて『三菱ダイヤモンドサッカー』という看板番組があり、他局に比べてサッカー番組に対する上層部の理解もあった。「サッカーの仕事がしたかった」葉梨にとり、まさに理想的な職場環境だったといえよう。ちなみに、開幕したばかりのJリーグにも「日本サッカー冬の時代を支えた」テレビ東京に対して、一定以上のリスペクトがあったと葉梨は考える。
「93年の鹿島とヴェルディのCS(チャンピオンシップ)は、ウチとNHKが中継したんですけれど、この2局は絶対に外せないというのが、川淵(三郎=当時チェアマン)さんたちの認識だったと思います。日本リーグ時代から中継をやっていたのはウチとNHKくらいでしたから、Jリーグ側も義理を感じていたんでしょうね」
その一方でテレビ東京は「Jリーグを広く、分かりやすく伝えよう」という思いから『ダイヤモンドサッカー』を復活させている。海外の試合を2週に分けて放映していた、第1期『ダイヤモンドサッカー』は68年から88年まで放映されていたが、第2期はJリーグ開幕直前の93年4月にスタート。同年、テレビ朝日の『Jリーグ A GOGO!!』やTBSの『スーパーサッカー』など、民放各局も相次いでJリーグ情報番組を制作しているが、サッカーの番組制作ではテレビ東京に一日の長があった。それは、葉梨のこの証言からもうかがえる。
省1
840(1): あ 11/20(水)19:47 ID:+nQOApwY0(7/9) AAS
「はやり物のアンテナが働いていた」フジテレビの場合
Jリーグ開幕当時、テレビ東京と真逆の発想でJリーグ情報番組を制作していたのが、フジテレビである。週末のJリーグの試合をさまざまなデータから予想する『デタカルチョ』。そして当時のJリーガーを徹底的にイジりながら、彼らのスーパープレーを一挙に紹介する特番『Jリーグ超プレー大賞』。これらの番組を世に送り出していたのが、フジテレビのスポーツ番組の伝説的プロデューサー、村社淳(むらこそ・きよし)である。
「『デタカルチョ』は深夜枠でしたが、のちのtotoを意識した番組でしたね。試合の天候だけでなく、勝敗の予想に方位学まで取り入れたりして、ちょっとふざけたところもありましたけれど(笑)。『Jリーグ超プレー大賞』については、確かに選手を使って笑いをとっていた部分もありました。ただしそれは前段であって、メーンはあくまでJリーグのスーパープレーだったんですよ。そこのところは、誤解していただきたくないですね」
Jリーグ中継に関しても、フジは独自の考え方を持っていた。93年の開幕前、どのカードを中継するのかを決める際にも、フジは積極的にゴールデンの試合をオファーしたという。当時としては、非常に思い切った決断であった。
「ヴェルディと(横浜)マリノスの開幕戦はNHKで決まり。だったら、ウチは(ホーム&アウェー逆の)マリノス対ヴェルディでいこうと。とはいえ、始まる前は海のものとも山のものとも分からないですから、他局さんは無難に昼間のカードを狙っていたんですよ。その後、開幕戦の視聴率が30%を超えたものだから(32.4%)、そこからはもう奪い合い(苦笑)。そういう意味で、当時のフジは立派でしたね。ちゃんとはやり物のアンテナが働いていましたから」
省2
841(1): あ 11/20(水)19:47 ID:+nQOApwY0(8/9) AAS
民放各局がJリーグを「オワコン」と見なした背景とは?
実際、95年のフジのJリーグ中継の視聴率をリサーチすると、最高視聴率はヴェルディ川崎と横浜マリノスによるCSで13.5%。レギュラーシーズンはいずれも1桁であった。中継カード数も95年の11から96年は7、さらに97年は2にまで激減。ゴールデンでの中継もなくなった。「サッカーのテレビ東京」も、状況は似たようなものであった。
「94年の終わりぐらいから(Jリーグ中継の)視聴率が悪くなったんですよ。ゴールデンで生(中継)は、どうなんだと。それでもテレ東はサッカーを大事にする局だったから、ちゃんとスポンサーが付けば『やりましょう』という感じではあったんです。でも、スポンサーもお金が続かなくなったんですよね。『ダイヤモンドサッカー』についても、前の年(94年)の秋には全国(放送)からの撤退が決まっていました」(葉梨)
実は95年当時、テレビ制作会社に勤務していた私は『ダイヤモンドサッカー』でAD(アシスタント・ディレクター)を務めていた。最後の収録となった3月26日のテレビ欄を見ると、「必見!J&外国人テクニック集!」という、ぼんやりしたサブタイトルが付けられていて、内容もおよそ「最終回」らしくなかったことを覚えている。その後、『ダイヤモンドサッカー』は予算規模を縮小して関東ローカルで命脈を保ったものの、96年9月に終了。最後は、土曜の18時30分からの30分番組だった。
Jリーグブームの陰りは、なぜ95年に顕在化したのだろうか。この年の資料を俯瞰してみると、いくつか思い当たる節が見られる。まず、野球界の盛り返し。阪神淡路大震災が発生したこの年は「がんばろう神戸」を合言葉に、オリックス・ブルーウェーブがパ・リーグ優勝を果たした(その中心にいたのは、言うまでもなくイチローだ)。一方、海の向こうに視線を転じれば、ロサンゼルス・ドジャースの野茂英雄がメジャーリーグで新人王を獲得。こうした野球界の活況に対して、Jリーグは話題性に乏しかった。国民的スターだった三浦知良が、前年にイタリア(ジェノア)に渡ってしまったことも大きかったように思う。
省2
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