[過去ログ] 真・三國無双8 Part57 (1002レス)
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371: 2018/01/25(木)22:48 AAS
>>97
いやいやあるでしょ
廖化元倹 棍 周瑜からのコンバート品
黄巾賊として民兵出身なので棍を長年の馴染みとして使う
母親が病気になり、張角が起こす奇跡の評判を頼りに黄巾党へやってきて、張角の符水による治療で母親が回復したことで太平道に傾倒するようになる
張梁や張宝から修行を受け、太平妖術を体得する
周倉とも面識があり、若さを持て余して暴れたいだけの周倉とは反りが合わず行動を共にすることはなかった
棍は廖化が装備したときのみトリガーフローが専用のものに変化
坂道というステートでは、トリガーフローで投石兵が出現して岩を転がして攻撃する
天候が強風のステートでは、頭上で棍を回転させることで竜巻を生み出し敵を攻撃する
省7
372: (スプッッ Sdda-n2Vf) 2018/01/25(木)22:48 ID:2+cn5nm8d(7/8) AAS
>>363
ダメージよりめくりがやばそう
373: (ワッチョイ 7ab2-uzZr) 2018/01/25(木)22:48 ID:sxIsUB9O0(2/79) AAS
キモ
374: (スプッッ Sdda-n2Vf) 2018/01/25(木)22:50 ID:2+cn5nm8d(8/8) AAS
郭??阿多の表記はちょっとガイジすぎませんかね
韓遂阿約レベル
375: 2018/01/25(木)22:51 AAS
>>134
審配→(´・ω・`)
審配は絶対不安気な困り顔にされる
376(1): (ワッチョイ 7ab2-uzZr) 2018/01/25(木)22:51 ID:sxIsUB9O0(3/79) AAS
テンプレがおかしいので早めに埋めてしまいましょう
377: 2018/01/25(木)22:51 AAS
>>133
辛憲英の父親はとても神秘的だと兵卒が言っていたよ
378: 2018/01/25(木)22:52 AAS
>>138
有望株
蒋欽 波盾
鉄舟のリメイク品でいわゆるサーフボード型の盾。画像リンク[jpg]:t12.pimg.jp
盾の打突で攻撃し、トリガーフローでは霊的な力で起きる水飛沫に波乗りする。動画リンク[YouTube]
元水賊のチャラ男(声:谷山紀章)画像リンク[jpg]:cdn.img-conv.gamerch.comならではの丘サーファーっぷりに期待。長江では舟いらずの普通のサーファーに
そして乱舞〆ではカットバックドロップターン
画像リンク[jpg]:scontent-sea1-1.cdninstagram.com
霊的な波を起こして水上走行が可能なので移動で舟要らずになるが、適性ランクが低いキャラほどすぐに転覆してしまって使い物にならない。全く失敗せず乗りこなせるのは蒋欽だけ
チャラ昭画像リンク[jpg]:renote.jpに持たせてもバッチリ似合う
省1
379: (ワッチョイ 7ab2-uzZr) 2018/01/25(木)22:53 ID:sxIsUB9O0(4/79) AAS
埋め
380: (ワッチョイ 7ab2-uzZr) 2018/01/25(木)22:53 ID:sxIsUB9O0(5/79) AAS
埋め
381: 2018/01/25(木)22:53 AAS
>>140
いや蒋欽公奕でしょ
波及して周泰幼平のストーリーも濃密になっていく
★蒋欽無双伝 外部リンク:www.youtuberepeat.com
蒋欽公奕(164年-219年 55歳没)
後漢末期、朝廷は民に重税を課し、灌漑の監督に怠慢を働いていたため農民たちは困窮していた
そんな貧しい農家に生まれたのが蒋欽だった
蒋欽の両親は貧しさのあまり宗教に傾倒し、丹陽に評判を得た祖茂の道教徒となっていた
道教徒の施設には、行けば食べ物があり一定の教育も受けられたために蒋欽一家は安寧の暮らしを得られた
その頃、蒋欽は道教徒の施設で周泰と出会う
省16
382: ガラプー (ワッチョイ ba7e-Orec) 2018/01/25(木)22:53 ID:SGBp3Zdd0(14/40) AAS
>>365
知らねーよ
383: 2018/01/25(木)22:53 AAS
●長沙近河戦 188年 24歳
陰陽族は舟山を脱した後は、孫堅の水軍に退路を絶たれていたために淮河には戻らず長江へと逃げ活動拠点を移した
しかしその一帯は孫堅による統治が行き届いていたため、蒋欽らは孫堅を畏れ、孫堅らが遠征に赴いていた留守を狙って官軍船に攻撃を仕掛けていた
孫堅は区星の乱を鎮圧すると、いよいよ陰陽族の取り締まりに本腰を入れ、文台四帥に蒋欽と周泰を生け捕りにすることを命じた
孫堅が偽の遠征で長沙を留守にするように見せかけ、長沙近河に輸送船を出すと、陰陽族が襲撃してきたために輸送船に潜んでいたい黄蓋らが顔を出し迎撃した
黄蓋は「お前たちは一体何のために水賊をしているのか。この長江に国でも築くつもりなのか。今、長沙の民はみな安らかに暮らしている。孫家の治世は確かなものであり、それは行く末は大陸全土に広がるであろう。それに比べてお前たちのしていることに先はあるのか」と言い
韓当は「んふふふふ。俺はあちこちの賊を討伐するのが趣味のようなものだ。だが残念なことに今度は生け捕りにせよと命じれられているのだ。ただでは返さんぞ」と陰陽族に帰順を勧めるが、蒋欽らは死に物狂いで抵抗した
すると程普は「お前は民を襲わないそうだが、お前が襲った官軍の兵もまた民であり家族がある。お前のしていることは所詮賊徒のそれである」と諭し、
祖茂は周泰に向け「我ら兵は物言わぬ刃であるが、その意は全て主にある。そなたの頭領には文台殿に勝る義があると思うのか」と問いかける
陰陽族はなんとか壊滅を免れたが、揚州を追われることとなる
省18
384: (ワッチョイ 7ab2-uzZr) 2018/01/25(木)22:53 ID:sxIsUB9O0(6/79) AAS
埋め
385: 2018/01/25(木)22:54 AAS
●舒城の戦い 194年 30歳 陸遜11歳
袁術から元孫堅軍が孫策麾下へと帰還すると、その中にいた文台四帥らによって以前の縁が語られ、亡き孫堅の計らいとして蒋欽と周泰は正式に孫策軍に仕官することとなる
袁術は徐州を攻めるために廬江の陸康へ兵糧の援助を求めたが、陸康はこれを拒否したために交戦状態となり、袁術は陸康が居を構える舒城へ孫策軍を派遣する
孫策は陸康に兵糧を出せない理由を問いただすと、「そなたには世の飢饉が見えぬのか。こことておいそれとくれてやれるほど兵糧が余っているわけではない。その上、袁術は我欲に走る輩。兵糧を与えたとて、自らを肥やすためだけに用いられるのであれば、私がそれをくれてやる道理などないのだ」と毅然と答えた
陸康は昔孫堅に一族の者が救われたことを挙げ、孫策とは戦いたくないので兵を引くよう頼んだが、孫策を監視するために紀霊の軍が派遣されていたため、孫策は退くことができず戦端は開かれる
蒋欽は長江から水軍を率いて舒城の裏手を攻めたが、そこで逃げ出す船団を補足した
その民間船には、まだ十一歳の陸遜が、六才の幼い陸績の手を引いて立っていた
蒋欽が近づくと、陸遜は匕首を自らの喉元に当て「私を捕虜にすることは叶いません。あなたが近づくよりも容易く、この刃は私の喉を裂くでしょう。もし捕虜にできたとしても、叔父はそれで降伏するような御人ではありません」と毅然と言い放った
蒋欽は関心して船団を見逃してやり、舒城へと上陸していった
●劉繇攻略戦 195年 31歳
省23
386: (ワッチョイ 7ab2-uzZr) 2018/01/25(木)22:54 ID:sxIsUB9O0(7/79) AAS
埋め
387: 2018/01/25(木)22:54 AAS
●丹陽制圧戦 197年 33歳
袁術は祖郎の道教団に食料を援助することを持ち掛け、その対価として孫策を攻めさせた
これに対応した孫策は、蒋欽と周泰を道教団取り締まりの先鋒にし当たらせ制圧
この騒ぎに、道教徒──つまり民が襲われているとして、その支援のために??県城から太史慈が進出して来る
しかしこれを予期していた周瑜の策により、太史慈は包囲された
太史慈の武力は凄まじいもので、文台四帥を同時に相手し退け、さらに蒋欽、周泰らが同時に斬りかかっても退け、再び孫策が対峙し、周瑜と魯粛が仕掛けた罠に追い込むことでようやく捕らえられた
太史慈は降伏し、孫策に帰順した
祖郎は蒋欽らの弁明もあり、道教施設の流民に対する支援や教育の手腕を買われて孫策に帰順することとなる
このとき蒋欽は、未だ道教施設で暮らしていた母と再会し迎え入れている
●皖城の戦い 199年 35歳
省14
388: 2018/01/25(木)22:54 AAS
●二張門下競合戦 203年 39歳 徐盛20歳 丁奉18歳 ※孫呉の無双伝共通 外部リンク:www.youtuberepeat.com
この時期、江東一帯では住民の反乱が相次いでいて、諸将はその警戒と対応に忙しく追われていた
その取り締まりの最中に、元陰陽族の蒋欽の部下が略奪を働く事件を起こし、蕪湖の県令をしていた徐盛がそれを取り締まり処刑しようとしたため、蒋欽と一触即発となった
徐盛の副官の丁奉が両者を諌め、主君の沙汰を仰ぐよう進めることでその場は収まった
後日、孫権の前で両者が主張すると、蒋欽は「その者は俺と共に以前水賊をしていたのだ。そんな者が今や官職を得て、このところの大勝続きで気持ちが大きくなっていたのやもしれん」と、盗んだ物を返すのでそれまでの水軍での功績を以て恩赦を嘆願したが、徐盛は法律と道徳を説いて豊かに抗弁すると、知識に乏しい蒋欽は返す言葉を失った
見兼ねた呂蒙が助け舟を出そうとするが、これも徐盛に巧みに論破されてしまい、最後はがなり返すので精一杯となる
孫権は両者を諌めると、蒋欽の主張を汲んだ沙汰を発したが、まだ若く血気に逸る徐盛はこれを不服とした
それを見た孫権は、徐盛がこの先奢らぬよう慮り、歴戦の蒋欽の下に徐盛を丁奉共々加わるよう命じた
徐盛らが下がると、孫権は蒋欽と呂蒙を引き止め、徐盛との弁論のことを論った上で学問を勧める
二人は難色を示し軍務を理由に断ろうとしたが、これを面白がった張昭と張紘が指南役を引き受けると言い出した
省20
389: (ワッチョイ 7ab2-uzZr) 2018/01/25(木)22:54 ID:sxIsUB9O0(8/79) AAS
埋め
390: 2018/01/25(木)22:54 AAS
●孫尚香奪還戦 212年 48歳
荊州を巡って劉備との抗争が表面化してきたため、孫権は孫尚香を人質としておくわけにいかなくなり、孫尚香の奪還を命じる
荊州の劉備本拠地には周泰(生存してる場合は祖茂)が潜入し、孫尚香を連れ出して、蒋欽らが長江で迎えとしてそれを待った
無双では阿斗は連れ出さない形での離縁となるため、趙雲と張飛の追撃は純粋な奥方の保護ということになる
蒋欽らは水際で趙雲らを退け撤退する
●第一次濡須口の戦い 213年 49歳 ※孫呉の無双伝共通
蒋欽は孫策に仕官してからは、舟山諸島に面した呉群沿岸に別荘を建て、戦役のない時期はそこで元陰陽族の部下らを招いて波盾を使い海へ繰り出していた
祖郎を通じ舟山の道教寺院に波盾を幾つか作らせ部下たちに与えたりもした
さらに長江で軍務があるときも、暇を見つけては波盾で繰り出し波乗りに興じていたが、長年それを続け過ぎていたため、目と耳と皮膚に病を患っていた
この頃の蒋欽は病が重くなり、身体の不調を押し殺しながら無理をして軍務に当たり周囲を心配させていた
省15
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