[過去ログ] 海賊の孫大室寅之祐が明治天皇になったと言える14 (1001レス)
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(10): 大室寅之スレ 2007/01/05(金)23:36 AAS
大室 寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう 
2chスレ:history
大室 寅之祐が明治天皇になったと言える2 
2chスレ:history
作蔵の息子 大室 寅之祐が明治天皇になったと言える3 
2chスレ:history
大室 寅之祐と睦仁=京都明治天皇は別人と言える4
2chスレ:history
大室 寅之祐が明治天皇になったと言える5 
外部リンク[html]:makimo.to
省17
2: 大室寅之スレ 2007/01/05(金)23:37 AAS
◆山口県田布施町麻郷の大室さん
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)
についてお話します。
そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、
田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわ
かっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、
しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分から
なかったが本質は、

A寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から
麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか? 
省12
3: 大室寅之スレ 2007/01/05(金)23:38 AAS
Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵が地家吉佐衛門(1840年3月12日没)の養子となり「地家」姓を賜る。
地家作蔵となのり田布施町麻郷地家に住み着いた。1843年頃、興正寺昭(ショウコウ)坊(照景?)と娘スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に
京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた。(興正寺昭坊は興正派門主一族)やがて地家作蔵(生年月日は不明〜1887年4月24日)
と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日〜1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵(1824年生まれか?)
と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子(男児?)をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは
長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に
戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。
この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。
(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)
1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。
省1
4: 大室寅之スレ 2007/01/05(金)23:39 AAS
>>その後、1854年の春頃(4月頃?)に作蔵とスヘが離婚。
長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。
大谷(興正寺)昭坊(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)
長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は某女性と再婚する。
(作蔵の後妻某は明治4年9月1日死去)1855年1月?頃
(祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。
スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ)
地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。
1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、
スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没)
省8
5: 大室寅之スレ 2007/01/05(金)23:40 AAS
1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに
行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。
弟の庄吉のほうはそのため別府村の高城家にあずけられて別居する事になった。
この庄吉が実家の大室家に帰ったのは 1866年10月末頃、俊輔が寅吉(玉)を
麻郷から連れ出した後のことであった。萩の杉家(松蔭の実家)へ玉を移し
松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)
この時期に麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになった。
麻郷村の人間が手分けして探した。
(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取調べを
受けて小役人たちに拷問されたが歯を食いしばってがんばりとおし、
省1
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(1): 大室寅之スレ 2007/01/05(金)23:41 AAS
そして、1866年10月末頃まで戸籍名大室寅吉(通名(普段つかう名前は)大室虎吉)は
このころ大室寅助と改名し一時、松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため
俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移し1867年3月下旬「玉」は
田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅助(寅之祐)が
上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、
麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが
岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年4月13日、
二本松の島津屋敷に入った。
しかし新撰組に捕まりそうになったので1867年10月17日に寅助を寅之祐と改名し
亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。
省11
7: 大室寅之スレ 2007/01/05(金)23:46 AAS
先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。
大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような倒幕軍の
進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて
「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。(だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。)
(今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。) 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。
このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したという
のはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。
その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。
1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。
1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が
省6
8: 2007/01/05(金)23:51 AAS
もうなんと言うか妄執だね。こんな破綻したネタ上げる外基地はwww
9: 2007/01/05(金)23:57 AAS
たとえ100年叫び続けようと妄想は妄想
10: 2007/01/06(土)00:04 AAS
現代日本は南朝系天皇の傀儡体制です。

北朝系の孝明天皇は岩倉具視により毒殺されました。
北朝系の本物の明治天皇は伊藤博文により毒殺れれました。
外部リンク[ht]:www004.upp.so-net.ne.jp ml
大室寅之祐をgoogleで検索してください。
11: 2007/01/06(土)00:08 AAS
1.皇后・皇太后という名称問題は>>1 の歴史知識の無知を証明しただけ
2.明治天皇紀・中山日記の記事云々は具体的ページ数だせず>>1 の敗北
3.種痘云々は侍医・池田謙斎の娘が父から直接聞いた証言があり、>>1の捏造
12: 2007/01/06(土)00:09 AAS
朝鮮にあっては李氏王朝時代から朝鮮半島の権力者は毒殺に怯え続けてきた。
「チャングムの誓い」にも、いくつかの毒殺文化が登場したようだ。
戦前、大東亜共栄圏の旗印の下、李王朝に嫁いだ梨本宮方子も二人の子を王宮官吏に毒殺された。
朝鮮半島における毒殺隠謀は、まさしく歴史的文化なのであり、日本選手の調子を落とす毒を
飲ませるなど、朝飯前、ハエを殺す程度の感覚だろう。
 もちろん、中国でも事情は同じだし、日本でも北朝最後の天皇、
孝明親子が松蔭門下に刺殺され、長州南朝末裔、大室寅之祐が明治天皇に
すり替わって現在に至る事情は、ほぼ確実なものであって、いつの時代、
どこの権力でも、しょせんインチキ、しょせん虚構にすぎない人の地位を
でっちあげるために隠謀殺害が繰り返されてきたのである。
省7
13: 2007/01/06(土)00:10 AAS
989 :ワン :03/10/03 11:08
王政復古の大号令が発せられた日の夕刻、小御所会議(1867年12月)が、天皇の御前でなされた。
したがって、1868年1月に、大室寅之祐が明治天皇になる事は不可能。だからネタ。
外部リンク[htm]:ime.nu
外部リンク[htm]:ime.nu
外部リンク[htm]:ime.nu

992 :ワン :03/10/03 18:54
小御所会議は、岩倉具視ら倒幕派公卿、薩摩、土佐、福井、芸州、尾張の代表が集まって、
天皇の御前でなされた会議だから、その後に天皇が入れ替わったら、山内容堂達が、黙ってないね。

993 :日本@名無史さん :03/10/03 19:07
省2
14: 2007/01/06(土)00:12 AAS
ぶっちゃけ地家河内守作蔵の息子が明治天皇になった

新説
外部リンク[h]:www.marino.ne.jp tm
証言の要旨は次の通り。

(1)山口県熊毛郡田布施町麻郷の大室家が南朝の血統であると言う伝説は
    たしかに存在する。
(2)しかし、問題の大室寅之祐の「大室家」は西暦一八〇〇年頃に始まる。
(3)大室寅之祐の父親とされた(実は弥兵衛と寅之祐は血のつながりはないが)   大室弥兵衛の実子は早死にして居り、血統は絶えて居る。
(4)地家作蔵と結婚したスヘに四人の子供あり、その一人が寅吉、
    この地家寅吉がのちの大室寅之祐と成る。
省15
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(2): 2007/01/06(土)00:16 AAS
孝明天皇
外部リンク[html]:www.dokidoki.ne.jp

明治天皇
画像リンク[jpg]:home.hiroshima-u.ac.jp

ま、親子でしょうな。
16
(1): 2007/01/06(土)00:16 AAS
明治天皇→侍医・池田謙斎→謙斎の娘、というルートによる
信憑性の極めて高い証言があり、明治天皇は謙斎から種痘を受けています
17: 2007/01/06(土)00:19 AAS
多くは望まない、ただ

明治天皇紀・中山日記の記事云々は具体的ページ数を出せ
18: 2007/01/06(土)00:38 AAS
また「チケ」なんて架空の人名でお遊びしてるのか?

河内守作蔵?
日本史、勉強しなおせ。受領名と通称は併称しないんだよ、タコ。
作蔵はイミナじゃないのに恥ずかしいヤツp
19: 2007/01/06(土)00:45 AAS
多くは言わない。

ただ、チケ河内守作蔵なんて名乗りはありえない。
「遠山左衛門尉金四郎」とか「勝安房守麟太郎」とかいうようなもので、
多少なりとも歴史の知識があれば絶対におかさない初歩的ミスだ。
苗字・受領官途名・イミナか苗字・通称・イミナはあっても、
○○守のあとに金四郎だの作蔵だのといった通称はくっつかないのw

残念だったな。
そういう脳内人物考え出すなら、ちょっとは現実性のある名前を考えろw
20: 2007/01/06(土)10:40 AAS
そもそも、「大室」だの「地家」だの、現実にはおよそありそうもない、
見え透いた架空の名前だよな。

そのくせ下の名前はスヘだの作蔵だの泥臭い名前(プ
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