[過去ログ] 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16 (758レス)
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314: 2021/02/04(木)02:53 AAS
>>309の在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。

1999年に学術論文「ウルサンムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。

加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。

本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。

そもそも玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
省13
315
(1): 2021/02/04(木)12:23 AAS
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

外部リンク[html]:www.seibutsushi.net
 

ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
省1
316: 2021/02/04(木)21:50 AAS
AA省
317
(1): 2021/02/05(金)13:28 AAS
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
省3
318: 2021/02/05(金)15:15 AAS
AA省
319
(1): 2021/02/05(金)18:03 AAS
>>964
>後1300里、100里でも記してあり、

對海國と一大國は海岸沿いの二辺の陸行であり、
奴國は伊都國からの側副傍線行程記載。
証拠は、「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」の「五千余里」の計算で、
400余×2+300×2+500+100+(4000余ー1000余)=5000余(里)
という計算がなされている事。

>なおさら、水行20日だしね。

不彌國から南方の「水行二十日」に位置にある投馬國への所要日数説明記載。

>萬二千余里がほぼ終わっていないよ。
省3
320: 2021/02/06(土)01:28 AAS
>>319
スレチだマヌケ
321
(1): 2021/02/06(土)16:40 AAS
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
外部リンク:ja.wikipedia.org

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
省7
322: 2021/02/06(土)23:22 AAS
AA省
323
(2): 2021/02/10(水)23:24 AAS
>>112
過去スレで検討しましたが、
考古学的な出土分布から、古代の主要地名をプロットし直すと、
古代の高志=越とは、北部九州から見て、海を越えた本州。
山口県を中心とする、主に日本海沿岸地域、ということになります。

沼河ヒメの物語についてです。

文献からは、沼河ヒメを口説きに行ったのは、
大己貴命(奴国の坊ちゃん)→八千矛神(中広形銅矛)→大国主(奴国王)のうちの、
八千矛神(中広形銅矛)の時期です。

また、考古学的には、山口県からは、中広形銅矛がわずかに出土しています。
省2
324: 2021/02/10(水)23:25 AAS
これも過去スレで検討しましたが、
沼河ヒメの沼河とは、土井ヶ浜遺跡の辺りですね。
集落遺跡はまだ見つかっていないのですが、
大規模な弥生墓地が見つかっているのですから、
その関連集落が近くにあったと想定しても問題はないでしょう。

土井ヶ浜遺跡には、女性指導者=古代シャーマンがいた。
縄文末〜弥生早期の日本海沿岸覇者の八岐大蛇の首魁ですね。

対馬海峡を統一して、北部九州の玄界灘沿岸を統一した、
吉武高木大王の、王族東征将軍=宗像田熊石畑遺跡将軍、が、
八岐大蛇を倒して、支配下に置いた。
325: 2021/02/10(水)23:26 AAS
沼河ヒメは、女系は八岐大蛇の女王筋、
つまりは土井ヶ浜遺跡の女性シャーマンの血統ですね。

男系は、素直に考えれば、田熊石畑遺跡将軍。

しかし、「奴」奈川姫、との記載もあることから、
ひょっとしたら、たまたま男系が奴族系統だった可能性があります。
あるいは、奴族の八千矛神と夫婦になったので、奴を入れた名前が残った可能性もあります。
DNA解析をすれば分かることですが。
326: 2021/02/10(水)23:26 AAS
沼河ヒメの物語が目立つのですが、
考古学的には、山口県からは中広形銅矛はわずかしか出ていない。
つまり、銅剣銅矛戦争において、沼河ヒメの勢力はさほど活躍したわけではないんですね。

なのにわざわざ沼河ヒメの物語が記載されている。
ご丁寧に口説き文句まで残されて。

これはつまり、逆で、沼河ヒメの産んだ息子、
タケミナカタならびにその子孫が、歴史上、重要な役を果たした、
からですね。
327
(1): 2021/02/10(水)23:27 AAS
【建沼河男命】
・頑固な長男、超真面目
・母親の集落を引き継ぎ、貝輪工房を真面目に運営し続けた人生
・国譲りの際に、とばっちりを受けて拷問・・・土井ヶ浜遺跡の英雄

【建御名方神】
・放蕩な次男、女好き
・奴国王の水軍を任せられ、瀬戸内海を東へ西へ、津々浦々に女が
・国譲りの際にも大暴れ

アリとキリギリスですね。
ただ、この兄弟は、アリがとばっちりを受けて、
省1
328: 2021/02/10(水)23:29 AAS
タケミナカタについて考察すると、
沼河ヒメと八千矛神の息子として生まれます。

放蕩で女好きのタケミナカタは、
八千矛神→大国主と気が合い、
大勢いる息子たちの中でも最も可愛がられます。

水軍を率いて、雀居遺跡⇔下関⇔瀬戸内海⇔淡路島五斗長垣内遺跡を、
颯爽と巡視して回ります。
下関の〇吉神社に残っているのはその頃の名残りですね。

奴国王が後漢と交渉した際は、
金印授与前に倭国視察に来た楽浪郡使を、
省10
329
(1): 2021/02/10(水)23:30 AAS
奴国王失脚の際については過去スレで検討しましたね。

タケミナカタ本人は東へ、
その息子の一人が金印を持って西へ。
その名残りが諏訪神社の配置に残っています。

奴族のこの手法は200年後にも使われていますね。
クマソタケルがヤマトタケルに敗戦した際。
クマソタケル本人は西へ。
その手の者は鉄鏡を持って東へ。

鉄鏡は日田に持ち込まれましたが、
さらに念を入れて、
省7
330
(1): 2021/02/11(木)08:20 AAS
地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南

そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)
省6
331
(1): 2021/02/13(土)19:24 AAS
>>330
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw
332
(1): 2021/02/14(日)01:02 AAS
>>331
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
省8
333: 2021/02/15(月)00:58 AAS
>>332

何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw
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