[過去ログ] 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16 (758レス)
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731(1): 2021/08/09(月)14:59 AAS
経験豊富な軍神タケミナカタ本人が存命の間は、
銅戈軍が越後から攻め込もうとしても散々に打ち破られた。
だから銅戈軍は、まずは大阪湾上陸作戦に集中したわけですね。
しかし、
タケミナカタもいずれ亡くなり、
山育ちの息子たちだけになりますね。
さらに、青銅器鉄器の供給が断たれていますから、
金属製武器が枯渇していきます。
S字甕の分布と一致して出土する、多孔銅鏃というのは、
要するに、青銅器の原料が枯渇してきて、少しでも銅を節約するために、
省5
732: 2021/08/09(月)15:01 AAS
時系列としては、
・70年にタケミナカタが諏訪に逃げ込む
・しばらくはタケミナカタ軍は強いので、銅戈軍は大阪湾上陸に専念する
・銅戈軍が畿内を制圧していく
・タケミナカタ死去、諏訪東国の金属器枯渇
・銅戈軍精鋭部隊が諏訪占領、諏訪大将を関東まで追いかけて捕縛
・東国は諏訪傀儡政権の下、銅戈軍の支配下に入る
・反乱予防、忠誠心の証、として、諏訪東国各地で前方後方墳を建設
・生口として北部九州へ大量連行され人口の減った畿内へ、東国から人員補充(庄内式土器の流れ)
蛇鈕金印だから蛇神と自称。
省2
733: 2021/08/09(月)18:25 AAS
長すぎるのと、想像で繋いでいる部分が多すぎて事実と区別されていない。
当たっている部分もあるかもしれないが、読む気が起きない。
もっと短くわかりやすい表現を心がけて欲しい。
734: 2021/08/09(月)19:18 AAS
中広形銅矛が大国主=奴国王で、57年金印を貰いました
奴国王は70年に失脚しましたが、金印はタケミナカタが持って逃げました
タケミナカタは諏訪に逃げ込んで、三遠式銅鐸を前線配備して徹底抗戦しました
銅戈ニギハヤヒ軍は、まず畿内を占領してから、次いで諏訪を占領しました
諏訪に金印は無く、実はタケミナカタの息子が持たされて長崎に隠れていました
省2
735(2): 2021/08/10(火)00:40 AAS
魏志倭人伝に書かれた里程は、57年金印の時に測定されたものでした
だから当時の伊都で到着するのは吉武高木遺跡の宮殿でした
魏志倭人伝に書かれた日程は、238年金印の時のものです
当時の伊都で女王之所都は平原女王墓周辺に遷都していました
736: 2021/08/11(水)04:26 AAS
なんで金印が志賀島から出土したかというと、
>>707
一族の女系の祖は八坂刀売神でもあるからでしょうね。
そもそも金印などを持っていたから、八岐大蛇系のタケミナカタ一族は
200年も東西の辺境で耐え忍ぶこととなった。
一方のカモ系アジスキタカヒコネやワニ系コトシロヌシは一度は降伏しましたが、
それぞれ早期に中央政界に返り咲いています。
栄枯盛衰を悟った難升米あるいはその一族の方から進んで、
母方の縁がある豊国有力者アズミ族へ金印を献上して、身分保障してもらったのでしょう。
>>698
省8
737: 2021/08/12(木)23:35 AAS
1世紀初頭
・中広形銅矛将軍=奴国王と平形銅剣女王が夫婦喧嘩で全面戦争
・銅矛銅剣戦争の末期に奴国王が土井ヶ浜遺跡女首長を口説き落とす >>323>>341
・荒神谷遺跡で降伏調印式 >>398
・その頃に出生
1世紀前半
・半島出兵で活躍 >>358-359
・水軍大将に任ぜられ、対馬海峡〜雀居遺跡〜下関〜五斗長垣内遺跡を巡視して回る
55-56年:楽浪郡使を侏儒国(五斗長垣内遺跡・若杉山遺跡)へ案内
57年:倭の奴国王の使者として水軍を率いて奉貢朝賀(後漢書『使人自稱大夫』)
省6
738: 2021/08/12(木)23:36 AAS
奴国王の息子には他の有力部族の縁者も多い中で、水軍大将に抜擢されるには、
半島出兵で相当の戦果をあげた、ということですね。
そうなると、当然そこに相応の領地を得ていたことでしょう。
筑摩はもともと「ちくま」ではなく、「つかま(豆加萬)」であった、とのことですし、
諏訪(周防)から見て、北西にある、
ということから、
半島南部の、つ(か)ま國=投馬國であった、可能性がありますね。
投馬國は、それぞれの時代にそこを所有していた一族にとっては、当然重要な領地であり、
諏訪に移動した一族は、投馬國→筑摩つかま、という地名をつけたし、
宮崎に移動した一族は、投馬國→都萬、という地名をつけたし、
省1
739: 2021/08/12(木)23:38 AAS
また、役所を設置しただけでなく、>>714
わざわざ箕輪という地名まで残していること。
銅矛銅剣戦争で言うならば、銅剣勢力は当時敗者であったこと、
下関に名を残していること、
などから、
勝者として瀬戸内を巡視していた、のでしょうから、
そうなると、瀬戸内経済圏を担当する大倭、の海運を管理していたことにもなり、
また金印を保持していた=管理していた、ことからも、
彼が、初代の大倭長官=大物主であった、可能性が高いですね。
740: 2021/08/18(水)16:04 AAS
.
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
外部リンク[html]:www.seibutsushi.net
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
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省1
741: 2021/08/19(木)15:02 AAS
.
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに木骨泥墻が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出して
土壁の住居の時代に入っていた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では7000年前に高床式住居も登場するが、先行した木骨泥墻に
吸収されて5000年前までに消滅し、4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
省3
742(2): 2021/08/25(水)04:22 AAS
>>693
倭国の現地人である難升米が、司馬懿との対話において、
「伊邪國ではなくて、伊耶國ですよ。」と語ったわけですね。
ということは、
倭地の倭人たちは、や=邪ではなく、や=耶、と表記していたことを示しており、
魏志倭人伝に一か所しか記載されていない邪馬壹國の壹は臺の転写間違いとしたら、
倭人自身は、表音訓読では「耶馬臺國」と表記していたことになります。
それと、廣志に記された、>>671の部分は、
景初二年八月の時点で、難升米と司馬懿の共通知識だったことになり、
つまりは、「魏人が来倭する以前から存在する文字情報」だった。
省9
743: 2021/08/25(水)15:47 AAS
>>673
やはり北部九州で決まりだな
畿内など最初からあり得なかった
744: 2021/08/25(水)21:50 AAS
>当時はまだ
なるほど。
考古学の成果が上がっているのだから、それを取り入れなければですね。
斯馬國の御床松原遺跡など、北部九州では紀元前の硯がどんどん見つかっています。
そして57年金印を貰った=外交文書で外交した。
木簡で長文を書いた痕跡である、細かいキズだらけの案も出土。
木簡での書き損じを削るための、弥生時代の消しゴム=金属製刀子も出土。
遅くとも後一世紀。
早ければ前二世紀くらいには、北部九州の知識層は文字を使用していた。
ということですね。
745: 2021/08/25(水)21:50 AAS
魏志倭人伝が初出で、魏略にすら記載されていない「邪馬壹國」というのは、
魏人の張政が充てた当て字でしょうから、ちょっと横に置いておきましょう。
漢魏人にとっては、倭国=わ国、であって、
倭人本人から、やまと国と聞いた漢魏人が、それに対して充てた当て字ですね。
倭面土國 107年 倭国王師升の謁見場にいた後漢の記録係
邪馬臺國 247年 来倭した魏の張政
が、それぞれ倭人から「やまと」という音を聞いて、それを表音で記したわけですね。
倭國 わ 音読み
倭面土國・邪馬臺國 やまと 訓読み
746(1): 2021/08/25(水)21:51 AAS
考古学出土物から、
北部九州倭人は紀元前から文字(漢字)を使用していた可能性が高いわけです。
伊都説であれば、
三雲南小路1号2号がニニギとコノハナサクヤであり、
糸島平野が筑紫の日向。
そこから逆算すると、
吉武高木大王がアマテラスで、早良平野が高天ヶ原。
神代=北部九州倭国の時代ということになり、
伊邪那岐・伊邪那美は、紀元前から漢字で記録されていたことになります。
747: 2021/08/25(水)21:52 AAS
伊邪那岐 伊耶那岐 イザナギ
伊邪那美 伊耶那美 イザナミ
前漢の武帝が楽浪郡を設置したのが前108年で、
楽浪土器の出土からして、楽浪郡使が伊都など北部九州倭国に常駐し始めたのは
ようやく0年前後からでしょうから、
紀元前に伊邪那岐・伊邪那美を木簡竹簡に記した倭人は、
漢字は知っていたかもしれませんが、
目の前に大陸の漢人はまずおらず、楽浪人が不定期にいたかどうか、という状況だったわけです。
つまり、一昔前の日本人の英語と同じで、
読み書きは非常に優秀だったが、
省9
748(1): 2021/08/25(水)21:52 AAS
そう考えると、
伊邪國=伊耶國=いざ國、ということになります。
伊耶=伊邪 いざ
↓
伊佐 いさ
↓
諫早
見事に繋がりますね。
749: 2021/08/25(水)21:53 AAS
佐賀県の県の木も県の花も楠(クスノキ)ですね。
防虫効果のあるクスノキは、古代から重宝された木で、
舟の材料にもなりましたし、
樟脳の材料として、絹布の保存にも用いられてきました。
クスノキがある→絹布を維持できる→絹布で銅鏡など青銅器を綺麗に磨いて品質管理できる
ということで、
北部九州倭国では、クスノキによって、絹布→銅鏡をピカピカに維持できたのですが、
本州など東方に銅鏡を持っていっても、クスノキも絹布も無くて、すぐ錆びたり緑青がついたりしてただの緑の塊になったわけです。
過去スレで検討しましたが、
東方の開拓最前線における、収穫期のJアラート<銅鐸>などは、
省4
750: sage 2021/08/25(水)21:54 AAS
肥前国風土記によると、
ヤマトタケルが今の佐賀市の辺りを巡幸した際に、
クスノキの大木が生い茂っているのを見て、
「この国は『栄(さか)の国』と呼ぶがよい。」
と言ったことから、栄の国となり、
後に転じて、佐嘉の国となった、とあります。
明治維新で、佐賀県、佐賀市、に統一されましたが、
佐嘉川→嘉瀬川 川上に與止日女神社(壹與)
佐嘉神社
など、佐嘉の字もある程度残っていますね。
省6
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