[過去ログ] 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16 (758レス)
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711: 2021/08/08(日)21:16 AAS
なんで諏訪にタケミナカタの母なる沼河の名前が無いかというと、
タケミナカタと、その兄の建沼河男命が、超仲悪かったからですね。
おそらくタケミナカタは、敗走途中に建沼河男命も一緒に逃げるか、
せめてどこか山中に身を隠すよう説得したでしょうが、
頑固な建沼河男命は
「やかましい!金印なんぞ知らん!
私にやましい事なんぞないのん、なんで逃げないといかんのだ!」
と逆に烈火の如く怒鳴って追い出したことでしょう。
奴国王と、沼河ヒメの子で、田舎お坊ちゃん育ちの建沼河男命はおそらく、
現代の我々と似たような感覚の持ち主で、
省12
712: 2021/08/08(日)21:19 AAS
大己貴命(大奴貴命)が、
八千矛神=中広形銅矛将軍=アマテラス配下の東征将軍スサノオ、として、
カモ族八上ヒメの整備した木俣=瀬戸内高地性集落群、を制圧した時代が、
荒魂ですね。
天神族ではないので、最高位の大王アマテラスにはなれず、
足利義満よろしく、後漢皇帝から金印を貰って、領土を安堵してもらったのが、
和魂ということになります。
海のかなたから、光り輝く金印がやってきて、
それを根拠にして、対馬海峡〜北部九州〜瀬戸内四国〜五斗長垣内遺跡、を治める。
そのための交易管理省庁が、大倭ですね。
省6
713: 2021/08/08(日)21:19 AAS
初代大物主は、当然奴族として、
そもそも瀬戸内開発した八上ヒメの残した、木俣神(カモ
同じくカモ族の筆頭である、アジスキタカヒコネ
水軍大将で、海上を巡視して回っていたタケミナカタ
奴国王の最大のバックであったワニのコトシロヌシ
、と、どなたでもありえますね。
714(2): 2021/08/08(日)21:21 AAS
以上が、70年タケミナカタが諏訪に持ち込んだであろう地名から考察できることですが、
また、ピンポイントでは、諏訪には大和や高木もあります。
後世にわざわざ別の読みだと断っていますが。
これらは地名ではなく、重要な役所名ですね。
大倭(おおやまと):交易専門の役所:後のS字甕の交易圏
高木(たかぎ):金印授与式の思い出の吉武高木宮殿
この辺りは、タケミナカタが、北部九州の制度を持ち込んだのでしょうね。
諏訪の大和あたりを本気で発掘したら、筑前町と同じく硯などが見つかるかもしれませんし、
高木あたりを発掘したら、大型建物があるかもしれませんね。
715: 2021/08/08(日)21:35 AAS
諏訪神氏には大祝という制度がありますね。
嫡子家督相続ではなく、
ダライ・ラマのように、神事にて後継者を決める方式。
女系で言うならば、山鹿貝塚・イザナミ神事の、骨取り神事による共立女王選択。
また、八坂刀売神の出身であるワニ族の城野遺跡には、
北部九州最大の方形周溝墓に男児が埋葬されており、
大祝との関連が示唆されます。
後の皇族にても、例の神託事件がありましたね。
716: 2021/08/09(月)10:03 AAS
十月は神無月で、出雲だけ神有月ですね。
全国の神様が出雲に集まって、政策や縁組を話し合います。
弥生時代であれば、神様、つまり各地の豪族など支配層の集まりですね。
旧暦だと現在の11月の時期になりますから、
秋の収穫が終わって、米俵を作って、各地から持ち寄ってきた、ということになります。
古代出雲であれば、香椎〜宗像のエリアに集まったわけですね。
717: 2021/08/09(月)10:03 AAS
現代まで神無月神有月が残っているということは、
暦に風習として残るだけの、長期間に渡ってその制度が続いていたわけですね。
ということは、70年までの数十年に過ぎなかった奴国王時代だけではなく、
その後の時代にも、数百年くらいは、古代出雲=宗像が有力だった時代があった、
ということになりますね。
古代豊国=古代出雲+古代伯耆は、カモ系女王が東へ追い出されて、
豊玉姫以降はずっとワニ系女王の国、となりますから、
要するにワニ系の安曇族が仕切っていた、ということになります。
沖ノ島の出土品が豪華な時代、というのがその時代に相当するのではないでしょうか。
718(1): 2021/08/09(月)10:04 AAS
タケミナカタは集まることを免除されていますね。
これも、奴国王時代であれば、タケミナカタは古代出雲の現地にいたわけですが、
70年以降は、諏訪にいて、
当時の交通網では、あまりにも遠すぎて、往復だけで1年くらいかかったわけですね。
諏訪タケミナカタは銅戈軍に一度降伏していますし、
卑弥呼の次の男王以降は一地方豪族として倭国支配に組み込まれますから、
タケミナカタが、諏訪より奥の東国の支配を傀儡政権としてある程度任されて、
年貢をまとめ、万行遺跡に運び込む、
その代わり、北部九州までわざわざ来なくてもいい、
という時代があったのでしょう。
719: 2021/08/09(月)12:19 AAS
>>718
古代出雲、豊国の安曇が支配していて、
諏訪タケミナカタがその配下に収まって東国経営していたのなら、
安曇野の地名に関しては、安曇の支配下に収まる時の命名かもしれませんね。
卑弥呼の次の男王が東国派兵した時でしょうか。
720: 2021/08/09(月)13:01 AAS
過去スレで検討したとおり、銅鐸はごく最後の巨大なものを除いて、祭祀用ではなく、
環濠集落+銅鐸(Jアラート)の実用品ですね。
主にカモ族が東進するにあたって、
先住の人々と衝突するフロンティアに配備したわけです。
銅矛銅剣戦争で八上ヒメが降伏した時点(荒神谷遺跡)では、
大阪府と兵庫県を取り囲むように銅鐸が分布しており、
これらが被征服側の毛人に残された領域だったことになります。
中広形銅矛も淡路島五斗長垣内遺跡まで。
次の銅戈時代に畿内毛人は征服されますね。
721: 2021/08/09(月)13:02 AAS
ちなみに、八上ヒメ時代のカモ銅鐸は、東は岐阜にも出土しています。
紀元前に琵琶湖沿岸の下之郷遺跡で戦って琵琶湖沿岸を制圧したカモ族が、
八上ヒメの時代(前1世紀〜0年前後)には、琵琶湖を足がかりに東は岐阜まで進出していた、
ということですね。
国譲りの際に、天若日子が亡くなった際。
天若日子の父の天津国玉と、天若日子の妻子は登場しますが、
天若日子の母は登場しませんね。
葬儀にやって来たアジスキタカヒコネは、天若日子の遺族から、天若日子本人に間違われます。
アジスキタカヒコネは怒って喪屋を斬り飛ばし、喪屋はまさに美濃国=岐阜へ飛んでいきますね。
アジスキタカヒコネは、カモであり、母の多紀理ヒメがカモ系の豊国女王。
省1
722: 2021/08/09(月)13:04 AAS
伊都説だと、柏崎遺跡が笠沙の岬に比定されますから、
次代のコノハナサクヤヒメは末蘆王家の王女ですね。
オルドス式短剣が柏崎遺跡と琵琶湖の高島市から出土しています。
サルマタイ系のお抱え渡来工人がいて、
その頭領が高島市の熊野本遺跡に鉄工房を与えられていたわけですね。
要するに、天津国玉は末蘆王家の天神族であり、
カモ女王の多紀理ヒメを娶って、天若日子が産まれていた。
その多紀理ヒメを大国主が無理矢理奪い取った。
ニニギがコノハナサクヤにあのような嫌疑をかけたのは、
そのような時代背景があったから、ではないでしょうか。
723: 2021/08/09(月)13:05 AAS
八上ヒメ時代の銅鐸分布から考えると、
銅矛銅剣戦争終結時に、カモの東方領土は、
琵琶湖を中心とする大山咋領域と、
瀬戸内四国の大山祇領域と、の二大領域があったわけですね。
中広形銅矛将軍は、カモの瀬戸内高地性集落群=木俣、を制圧して、
淡路島に五斗長垣内遺跡を建設した。
天神族系の末蘆王家は、カモと婚姻して琵琶湖方面の領地を保有していた、
その東端が美濃国だったし、
銅鐸が既に京都市にも入りこんでいた、ということになりますね。
724: 2021/08/09(月)14:13 AAS
三遠式銅鐸は、諏訪に逃げ込んだタケミナカタ勢が配備した銅鐸ですね。
諏訪タケミナカタにとっては、愛知県と越後とを防備すれば、東国は守れます。
越後から攻め込まれる分には、侵攻できる山道が限られますので、
山城でしっかり防備して、いくつかの抜け道にだけ銅鐸を配備しておいた、ということでしょう。
越後からはあまり攻め込まれず、最後に銅戈軍の精鋭部隊が攻め込んできて制圧され、
長野に配備されていた三遠式銅鐸はまとめて柳沢遺跡に埋納されますね。
一方の愛知県では、三遠式銅鐸は、銅戈勢力側の近畿式銅鐸と対峙しています。
ちなみに、銅戈軍はニギハヤヒ(+カモ族)ですね。
金属製武器フル装備で、朱塗り盾に巴型銅器。
近畿式銅鐸はカモ銅鐸の最終進化形ということになります。
省5
725: 2021/08/09(月)14:13 AAS
三遠式銅鐸が東国にとっての防衛境界に綺麗に出現している。
ということは、
東国は既にある程度統一されていたことになります。
タケミナカタより先に、諏訪を支配していたと言われる、守矢氏などが、
東国をある程度まとめていた可能性が高くなります。
ただし、前方後方墳の建設などはもっと後の話ですし、
王権を示唆する遺物遺跡はありませんから、
王というよりは、各地の首長をまとめる長くらいの立場だったのでしょう。
琵琶湖からカモ族が領土拡張してきたことで、
畿内毛人と東国蝦夷は分断され、
省2
726: 2021/08/09(月)14:14 AAS
>>413
70年にタケミナカタが諏訪に逃げ込むわけですが、
その時のタケミナカタ軍は五斗長垣内遺跡を擁して、金属製武器フル装備ですから、
70年の時に守矢氏に勝利すること自体は可能でしょう。
しかし、すぐに追ってきたタケミカヅチ軍と対峙する必要があります。
追ってきたタケミカヅチに、逃げ込んだばかりのタケミナカタがすぐに負けた場合、
捕縛処刑されて、諏訪にタケミナカタの痕跡は残りませんね。
また、後に銅戈が攻め込んでいるということからも、
タケミナカタが降参したのは70年当時ではなく、ニギハヤヒ軍が整備されて、銅戈を使い始めてから、
ということになります。
省5
727: 2021/08/09(月)14:14 AAS
>>362
59年頃から疫病があったけれども、なんとか持ち直した。
タケミナカタ軍が諏訪攻略に取りかかった。
諏訪攻略中に、70年奴国大洪水が起きた。
タケミナカタ不在の好機を逃さず、天神族が軍を出して奴国王が捕縛された。
大慌てで引き返してきたタケミナカタ水軍だったが、決戦に敗れた。
諏訪はある程度攻略済みだったので、諏訪に逃げ込んで防備を固めた。
これなら無理が無くなりますね。
728: 2021/08/09(月)14:56 AAS
西からやって来た異人であるにも関わらず、
なぜにタケミナカタが東国蝦夷に支配者として支持され続けたかというと、
銅戈軍に征服された畿内毛人の運命が原因でしょうね。
銅戈軍に征服されると、畿内毛人のように生口にされる。
だからこそ、軍事経験豊かで、北部九州の進んだ制度をもたらしてくれる(>>714)、
タケミナカタを中心にして防衛したのでしょうね。
729: 2021/08/09(月)14:57 AAS
70年代に銅戈軍が発足したとして、
107年には160人もの生口を送っています。
庄内式土器は銅戈勢力の考案した海上輸送用の土器ですね。
積載重量を軽減するため薄手で、
揺れる舟にて、木組みに嵌めて固定するために尖り底になっています。
対照的に、諏訪箕輪(諏訪大倭三輪)は陸上輸送ですから、S字甕は平底ですね。
輸送途中で休みたい時に地面に置けますからね。
730: 2021/08/09(月)14:57 AAS
銅戈軍が諏訪を占領したのは、短期決戦ですね。
なぜかというと、柳沢遺跡で銅戈で勝利式典を行っているのに、
関東には石製祭祀型銅戈で貝輪を追いかけているからです。
長野での勝負があっさり決まったが、
タケミナカタ勢の大将(伊豆早雄命?)が関東へ逃げた。
銅戈軍の隊長は、
北部九州から追加の銅戈が到着するのを待ったり、
あるいは現地で青銅器を溶かして銅戈を作ったりする、
その時間も惜しんで、
すぐ長野から出陣して、関東で追いついて捕縛した。
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