[過去ログ] 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16 (758レス)
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691: 2021/07/11(日)19:53 AAS
『無布帛以革爲衣』
同じ北部九州にありながら、
長崎タケミナカタとして吉野ヶ里などと戦っていた。
倭国水軍が巳百支國経由で攻め込んで来たら、島から島へと逃げ回らないといけない。
だから絹などの布が手に入らず、革の衣服をまとっていたわけですね。
難升米について考えると、
タケミナカタの子孫。
諫早で生まれ育つ。
青少年期に倭国乱が勃発し、
父が筑後の大物主と通じて、金印(小さな蛇)を用いて狗奴国勃興に助力。
省4
692: 2021/07/11(日)19:54 AAS
景初二年(238)春、大率の諜報網から、
魏の大軍が公孫氏攻略に取りかかっており、
帯方郡と楽浪郡には既に魏から派遣された太守が着任していることを知る。
取り急ぎ大率長官である難升米本人が帯方郡へ向かい、
景初二年六月に到着。太守劉夏と国家間外交交渉。
遼東は長雨で、魏の大軍が足止めを喰らっている。
邪馬台国から兵糧を送ってもらえないか、との打診を受け快諾。
粘り強く交渉し、漢委奴國王金印の存在も持ち出し、
兵糧を送る代わりに、卑弥呼に金印を授与する、という外交交渉を成立させる。
693(2): 2021/07/11(日)19:56 AAS
大率の輸送船部隊に、邪馬台国から大量の兵糧を送るよう命じ、
難升米本人は、司馬懿に招かれ襄平包囲軍の本陣へ。
見たことも無い大規模な攻城戦。
四万の大軍を見て仰天する。
邪馬台国から兵糧が続々と到着し、司馬懿らは大喜びして難升米に感謝感激しまくる日々。
包囲中はヒマなので、
上機嫌の司馬懿に毎夜接待され、プライベートなことまで語り合う。
『次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
景初二年8月23日、襄平を脱出しようとした公孫淵が捕らえられ処刑。
これにて約定が守られたことから、金印授与が確定し、
省5
694: 2021/07/11(日)19:56 AAS
景初二年十二月、金印授与の詔書が発効される。
景初二年12月8日明帝が病に倒れる。
景初三年1月1日
明帝が危篤となり、河内から早馬で駆け付けて最後に面会する。
明帝崩御。
その日のうちに、まだ8歳の曹芳が第三代魏皇帝となる。
皇帝が代替わりし、明帝の詔書が無効になる危険性もあったが、
司馬懿が続けて重鎮に収まったのと、
難升米が魏群臣との謁見会場で熱弁をふるい、
予定通りの金印その他の報酬を得ることに成功する。
695: 2021/07/11(日)19:57 AAS
『魏酬倭国止于銅鏡鉗文』
魏は倭国への報酬として、倉庫で銅鏡をはさんでいる除湿用の紙を取り外して、
出荷した。
伊都説であれば、
その大部分は方格規矩鏡で、一部は青龍三年銘。
貴重な青銅原料として、倭国で大部分は溶かされて、
超大型内行花文鏡になったわけですね。
696(1): 2021/07/11(日)19:58 AAS
当然のことながら、
金印外交を成功させた、大率長官の難升米は、率善中郎将・銀印まで拝領して大出世。
卑弥呼に重用され、
邪馬台国軍の将軍となったわけですね。
「吾輩は魏の大将軍・司馬懿殿と親交を温めたのだ。
いざとなれば魏の四万の大軍が来てくれるのだ。
ワハハハハ。」
といった感じでしょうか。
しかし現実は厳しく、高齢の卑弥呼が体調を崩し、
邪馬台国政権の動揺につけこんだ狗奴国軍が、
省6
697(1): 2021/07/11(日)19:59 AAS
同年に卑弥呼が死去。
張政らは平原遺跡での葬儀に参列します。
難升米の一族が御柱を立てたわけですね。
ここぞとばかりに攻めてくる狗奴国軍に対して、
難升米が出陣します。
この頃は狗奴国は熊本に押し込められていますから、戦場は福岡と熊本の県境ですね。
そもそも難升米の自軍は長崎タケミナカタや大率など水軍が主体。
頼みの魏援軍も来ず。
狗奴国軍との決戦で、難升米は討ち死にしたわけですね。
しかし、難升米が亡くなったからこそ、
省4
698(1): 2021/07/11(日)20:03 AAS
△は、難升米が連れてきた鏡職人によるものですね。
遼東に大勢いた戦争避難民の一部でしょう。
司馬懿が技能者を選んで難升米に贈ってくれたわけですね。
タケミナカタ旧領から発祥しています。
年次は難升米の出世年でしょう。
699: 2021/07/11(日)20:17 AAS
>>76
拘奴國は鉄器、ガラス製品、青龍三年方格規矩鏡などを共有する、
卑弥呼の親族ですね。
伊都国王男王は、後漢書に記録された拘奴國を滅ぼしますね。
三国志では記載されません。
拘奴國との内戦だけでも邪馬台国は相当動揺したので、
難升米を失ってただただ恭順するだけの地方タケミナカタ勢は、
そのまま伊都国王男王の配下に収まったわけですね。
そして卑弥呼の親族であり、
また伊都国王男王の娘である、壹與=與止日女が女王になります。
省4
700: 2021/07/11(日)20:24 AAS
難升米 奴の升米
奴国
大己貴神 奴族
701: 2021/07/15(木)23:13 AAS
>>689
>例の鉄鏡を入手した。
曹操の側の状況を考えると、曹操が後漢の献帝を保護して、
建安十三年(208)六月に、曹操が丞相になって以降であることは確実でしょうね。
ただ、同年の赤壁の戦いを始めとして、この頃はすさまじい負け戦続きですね。
建安二十一年(216)五月に、曹操は魏王になります。
この年に、烏丸族の単于や、匈奴の単于が朝貢してきて曹操が応対していますから、
この時期ならば、外国からの朝貢に対応する余裕があったことは確実ですね。
翌建安二十二年(217)は正月から出陣して、あともずっと戦陣にあり、
建安二十五年(210)1月に洛陽に帰還してすぐ、1月23日崩御ですから、
省8
702(2): 2021/07/15(木)23:15 AAS
難升米が自らの故郷に、絹布が無い、と言っていることから、
長崎タケミナカタが卑弥呼に帰順したのは、
238年からさほど遡らない時期ということになりますね。
卑弥呼側に早い時期に帰順していれば、
それだけ流通が早期回復して、絹などは流通もしくは自領で生産しているはずですから。
銀印を貰っていますし、大率について北方担当と詳述されていますし、
難升米が大率長官であったことは確実ですね。
金印を献上したからといって、
邪馬台国の中枢に絡む大率をよそ者に任せるわけはありませんから、
状況としては、
省6
703: 2021/07/15(木)23:16 AAS
長崎タケミナカタが狗奴国王と袂を分かったのは、
216年以降で、238年からさほど離れていない時期ということになります。
伊都から出土した免田式土器は、長崎タケミナカタが狗奴国側にいた期間なので、
210年代前半〜238年に収まることになります。
卑弥呼が共立された年代は判明していません。
狗奴国の脅威に対して、卑弥呼が共立されたのであれば、
卑弥呼邪馬台国が先に成立していて、
後から対馬海峡と金印を手土産に長崎タケミナカタが合流したことになりますし、
長崎タケミナカタが伊都国(倭国=三国志時代邪馬台国)側に寝返る条件の一つが卑弥呼擁立ならば、
長崎タケミナカタや拘奴國が参加するために、
省1
704: 九州王 2021/07/24(土)08:48 AAS
>>675
女王国とは伊都国、奴国のことで倭国の首都圏のこと
邪馬台国とは北部九州地域全体のことで倭国と同じ意味。
705: 2021/08/08(日)21:00 AAS
>>361
70年頃に奴国王が失脚して、
タケミナカタが諏訪に逃げ込んだわけです。
北部九州の地名が、そのまま奈良盆地に移植されたのと同じことで、
70年タケミナカタが、諏訪地方に地名を持ち込んだわけですね。
周防(山口県)→諏訪(長野県)
古代出雲國(香椎〜宗像)→安曇野
筑紫→筑摩
伊耶國(長崎県諫早市>>676)→伊那
三輪(福岡県旧三輪町)→箕輪
省5
706: 2021/08/08(日)21:01 AAS
古代周防の比定地については、現在の場所かもしれませんが、
古代出雲が考古学的には、
山鹿貝塚、遠賀式土器、平形銅剣、鐘崎式土器、宗像三女神、などなどから、
宗像地域に比定される場合、
現代出雲は出雲ではなかったことになりますから、
そうなると、現代出雲が古代周防であった可能性が浮上します。
考古学的にも、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡、その他重要弥生遺跡が集中しつつ、
中広形銅矛も現代出雲に密接に絡んでいますからね。
もともと加茂、あるいは岩倉、という地名でカモの拠点だったのが、
銅矛銅剣戦争で八千矛神が勝利して、進駐してきて、
省4
707(1): 2021/08/08(日)21:02 AAS
タケミナカタの奥さんは八坂刀売神で安曇の女性と伝わっていますね。
安曇ですから、女系は古代出雲國の八雷神系有力部族のワニ族ですね。
須勢理ヒメ、神屋楯ヒメ、事代主、などの家族になります。
男系は、八坂ですから、スサノオ。
素直に考えれば、大国主の義父のスサノオの娘あるいは近しい親族で、天神族の娘。
しかし、大国主がスサノオ就任後であれば、スサノオ大国主と神屋楯ヒメの娘。
安曇族の男系がどちらであるのかとも直結してきます。
解の一つは城野遺跡にありますが。
安曇野、の地名がついているということは、
ワニ族の地盤である、香椎〜宗像(古代出雲國)の全体もしくは一部が、
省1
708: 2021/08/08(日)21:03 AAS
タケミナカタの長男は、建御名方彦神別命、と伝わっています。
ヒコ(魏志倭人伝だと卑狗)がついているので、70年以前に既に成人していて、
北部九州倭国にて官職を得ていたわけですね。
母がワニ族で、
父が建御名方。
建は、将軍として出陣した、の意味ですから、
父と同じ部隊を率いて、出陣したことのある、北部九州に所領を持っていた、人物、
ということになります。
母の出自を考えると、一部で言われている、タケミナカタ=建+ムナカタ
なのかもしれません。
省2
709: 2021/08/08(日)21:04 AAS
タケミナカタの次男は、出早雄命(いずはやお)、と伝わっています。
別名は、伊豆早雄命、あるいは、イスハイ。(諫早と似ていますね)
また兄妹の出早ヒメは、伊都速比売命とも書くそうです。
タケミナカタの母親、沼河ヒメは貝輪一族で、
その重要拠点が、貝輪が多数出土して、木棺墓女性指導者を擁する、
沼河=土井ヶ浜遺跡や、長崎県、ですね。
出、伊豆、伊耶、伊那、と考えれば、
出早雄命は本来は長崎県を領有していくはずだった若者。
70年にタケミナカタと共に諏訪に逃れた。
銅戈ニギハヤヒ軍に侵攻されて、追われて追われて伊豆で降伏した。
省3
710: 2021/08/08(日)21:05 AAS
以上の二人のどちらかが、金印を秘匿して長崎に残って、
その嫡流が難升米ということになりますね。
本来なら、日本統一につれて滅ぼされる運命だったのですが、数奇な流れで踏みとどまります。
・諏訪タケミナカタが降伏した頃に、北部九州でカモが失脚した。>>99
・倭国乱が発生した
・倭国乱に乗じて、狗奴国勃興した。>>689
・狗奴国王が、曹操から例の鉄鏡を貰った
・後漢が滅亡した(220)ので、漢委奴國王金印が失効し、鉄鏡を持つ狗奴国王が難升米父&金印を軽視し始めた
・難升米は狗奴国王と袂を分かち、卑弥呼側に寝返った。>>702
・難升米が活躍して、親魏倭王金印や銀印を得た
省5
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