[過去ログ] 邪馬台国畿内説 Part699 (1002レス)
上下前次1-新
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
148: 2021/04/08(木)17:03 AAS
いつもの様にののしるだけで議論してる気になってる田舎者畿内説あわれ
149: キウス ◆PyuQX798ps 2021/04/08(木)17:05 AAS
失礼 >>145 は私です
byさんありがとうございました
150: 2021/04/08(木)17:11 AAS
>>145
記から風土、気候が会稽と似ているからね。
推測でしょうね。 by
151(3): 2021/04/08(木)17:17 AAS
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせるテクニック。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
省3
152: 2021/04/08(木)17:17 AAS
メッセージが届いておりました
建物Dの構造柱の穴だとされる穴と束柱の穴だとされる穴は、なぜ、深さに殆ど違いが無いのだろうか。
153(2): 2021/04/08(木)17:18 AAS
AA省
154: 2021/04/08(木)17:19 AAS
>>151
最初魏志倭人伝を読んだときは卑弥呼の都は奴国になったな
155: 2021/04/08(木)17:19 AAS
>>142
奥山
倭人伝は中国の文献だからだ
中国に畿内説の解釈を提示し中国の意見を聞くことは
プラスになることが多いからだ
156(1): キウス ◆PyuQX798ps 2021/04/08(木)17:19 AAS
>>105
阿波さんは、短里を取りつつ阿波説を解説するところがすごいと思います。
157(1): 2021/04/08(木)17:20 AAS
>>140
近畿説ですが、邪馬壹国は、開拓地で宗教地
決して、中心的な国ではない。
卑弥呼一族の故郷なだけ。共立されて
中心地域に住み、生涯を過ごし、冢まであった。
墓の移動先が箸墓、黒塚古墳ではないか推測。by
158: 2021/04/08(木)17:23 AAS
>>156
真実に従っているだけだよ。 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 しかり。 @阿波
159(1): 2021/04/08(木)17:23 AAS
>>151
>>153
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書用封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
省7
160: 2021/04/08(木)17:29 AAS
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径【円墳】百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
?曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
?(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
?「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が継続中!
もしも箸墓が卑弥呼の冢だったら…
魏使「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
省4
161: 2021/04/08(木)17:36 AAS
>>南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪>>馬台国の位置も決まることになる。
なりません。女王国の南限ですが
邪馬壹国の位置とは関係ないです。
奈良は、紛争がない開拓地域なんで鉄武器はでません。丹山が奈良と三重にあります。
女王国の範囲なので三重から千里に倭種
by
162(1): 2021/04/08(木)17:38 AAS
>>159
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
省7
163: 2021/04/08(木)17:42 AAS
健康には気を使っているつもりのオイラも、今晩この後すぐ、コンビニへ行こうと横断歩道を渡ってて横から信号無視の暴走プリウスに轢き殺されるか判らない。
オイラがいつ死んでもいいように、おまいらには、おまいらだけには、真実を伝えておかねば!
?倭国大乱後、出雲吉備(墳丘祭祀)連合が、大和東海(銅鐸)連合を征服(初期ヤマト王権=纏向型前方後円墳)。大和挟撃に貢献した東海には前方後方墳(裏切りの御褒美)。
?そこへ北部九州・邪馬台国卑弥呼から派遣された伊都国王神武が東征してきて、奥津城(王家の谷=紀伊半島の水銀鉱床独占=帯方郡の鉄を独占大量輸入)化する。
?崇神が鉄剣により、更なる東征で本州統一(前方後円墳祭祀)を進め、台与崩御後王統が途絶えた邪馬台国を乗っ取り、魏も西晋に代わり、薄葬圧力から解放され、3世紀末頃箸墓を築造する(倭王宮は天智太宰府まで博多、ヤマト王権は完全な幻想)。
164(2): 2021/04/08(木)17:50 AAS
>>157
魏志倭人伝を無視した与太話だな
聞いて損した
165(2): 2021/04/08(木)17:53 AAS
>>162
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
外部リンク:ja.wikipedia.org
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
省4
166: 2021/04/08(木)18:12 AAS
>>164
無視などしていないけどね。
by
167(1): 2021/04/08(木)18:13 AAS
>>164
それ、畿内説じゃないからな
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 835 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.013s