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邪馬台国畿内説 Part704 (1002レス)
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1 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/06/02(水)20:33
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26: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/06/02(水) 20:33:19 (承前) ◆FAQ 23−2 ◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと ◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと ※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。 ◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと ◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること ◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること ・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86) ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総 ・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式 ・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984) ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998) ◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること ◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること ◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24 Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう! A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1622632671/26
承前 2 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない森岡立入こと 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ隆起斜道が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で前方部盛土に遮られる形で消失し墳裾に達しないこと 初期古墳の墓構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる西谷春成所用日数参加人員共に少なくない 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており一体施工でないこと 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており築造に相応の時間差が想定されていること 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること 森将軍塚 科野ー川西 期矢島 前橋王山古墳 上毛 持塚二号墳 上総 高千穂七号墳 上総 山伏作一号墳 上総 長沖八号墳 武蔵 温井一五号墳 能登 見手山一号墳 但馬 西穂波号墳 東伯 上種西一四号墳東伯 帆立貝式 高鼻二号墳 伯 日拝塚古墳 筑前 神松寺御陵古墳筑前以上 植野 朝日谷2号墳 伊予ー布留0古梅木 朝日谷2号で後円部上に棺設置後覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が方丘上に在地産の二重口縁がそれぞれ配置され書陵部墓上祭の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう! 面文身を九州説の根拠とすることは不可能である 面土器の分布から見て弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県設楽であり九州ではない 両地域と深い交流のあった向に面の人がいたことは確実であろう 古墳時代の畿内にもこの習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである このように倭人伝の面文身記事は九州説にとって不利な記述である
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