[過去ログ]
邪馬台国畿内説 Part717 (1002レス)
上
下
前
次
1-
新
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
12
:
1 ◆n7jxAxKCBhb6
2021/08/19(木)20:41
AA×
[240|
320
|
480
|
600
|
100%
|
JPG
|
べ
|
レス栞
|
レス消
]
12: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/08/19(木) 20:41:09.58 ◆11 ◆FAQ 1 Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか! A:九州は倭国の一部なので問題ない。 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。 壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。 桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照) 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2 Q:水行とは河川を行くことだ! 魏使は九州を出ていないではないか! A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。 「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。 (例)「泝流」が6回 「泝(+固有名詞川名)が7回 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629372901/12
11 倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか! 九州は倭国の一部なので問題ない 郡使は伊都国で常に駐するので九州のことがよく観察されているのは当然のこと 逆に伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物灼骨卜占や丹井が記されている事実は倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり就中倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る 岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を倭国全般の風俗と記録することは合理的行動でないからである 畿内は朱の生産地を擁しておりこれは3世紀の九州に見られないものである水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡宇陀の丹生河上が縄文唐古鍵清水風が弥生中期で宮古北が布留0と古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが丹後赤坂今井墳丘墓弥生終末出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し南らホケノ山の水銀朱はの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性南らを示す 桜井茶臼山3世紀第3四半期末第4四半期出土の水銀朱が大和産であることは水銀硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み南ら であるこれらの状況から3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される 北部九州の古墳出現期には津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され河野らている被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼志賀谷口であり東方からの影響と考えられる また向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する参照 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である 水行とは河川を行くことだ! 使は九州を出ていないではないか! 海を行くときも水行と記載された実例があるので不成立 水行と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを川と判断する理由は無い逆に明確に河川を移動しているケースで陳寿が水行という語を使った例は無い 例流が6回 固有名詞川名が7回 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島上に所在することは予め明示されている 倭人伝における水行の初出が循海岸と副詞的に形容されている以上以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な日や日に及ぶ水行を循海岸水行の省略形であると見すことには合理性がある 以上の根拠を以て倭人伝における水行は全て循海岸水行と推認する
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 990 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
ぬこの手
ぬこTOP
0.085s