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邪馬台国畿内説 Part776 (919レス)
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676
(3)
: 2022/04/16(土)13:14
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>>668
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676: [] 2022/04/16(土) 13:14:03 >>668 >書いた本人が行くと(会稽東冶の東だと)言ってんだから >里数と日数が並列だなんて大間違い 残念ながら並列だね *** 晋書倭人伝 倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好 戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫 魏は倭の三十国と通交していた、戸数は七万戸 魏志倭人伝 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸 邪馬台国の戸数は七万戸 上記二書の七万戸という戸数が一致していることから、邪馬台国とは「魏と通交していた三十国からなる国家連合」のことであり、その合計戸数が七万戸とわかる。 「邪馬台国」が三十国からなる国家連合全体を指す呼称であることから、これまで一般的に認識されていた伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国という行程は誤りである。 「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬台国(あるいは魏使が駐在した伊都国)への日数を示すものである。 「水行十日陸行一月」とはこの文脈では「船で行くなら十日かかる距離、陸で行くなら一月かかる距離」という意味であろう。 邪馬台国までの道里が万二千里であるため、陸行の場合は一日に四百里進むことになるが、 戦果報告を十倍にして報告する「露布の慣習」を考慮に入れると一日四十里(一里=434mとして約17km)となり、移動可能な距離である。 同様に考えれば、水行では一日百二十里(約52km)となり、やはり移動可能な距離におさまる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1650003012/676
書いた本人が行くと会稽東冶の東だと言ってんだから 里数と日数が並列だなんて大間違い 残念ながら並列だね 晋書倭人伝 倭人在帯方東南大海中 依山島為 地多山林無良田食海物 有百小国相接 至時有三十通好 戸有七 男子無大小悉面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中皆自大夫 は倭の三十国と通交していた戸数は七万戸 志倭人伝 南至邪馬 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日馬升 次日馬獲支 次日奴佳 可七万戸 邪馬台国の戸数は七万戸 上記二書の七万戸という戸数が一致していることから邪馬台国とはと通交していた三十国からなる国家連合のことでありその合計戸数が七万戸とわかる 邪馬台国が三十国からなる国家連合全体を指す呼称であることからこれまで一般的に認識されていた伊都国奴国不弥国投馬国邪馬台国という行程は誤りである 水行十日陸行一月は帯方郡から邪馬台国あるいは使が駐在した伊都国への日数を示すものである 水行十日陸行一月とはこの文脈では船で行くなら十日かかる距離陸で行くなら一月かかる距離という意味であろう 邪馬台国までの道里が万二千里であるため陸行の場合は一日に四百里進むことになるが 戦果報告を十倍にして報告する露布の慣習を考慮に入れると一日四十里一里として約となり移動可能な距離である 同様に考えれば水行では一日百二十里約となりやはり移動可能な距離におさまる
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