[過去ログ] 邪馬台国畿内説 Part965 (1002レス)
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9: 1 ◆ondZSOlfxeS6 2023/11/17(金)11:40:02.43 AAS
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
省7
182: 2023/11/17(金)13:21:20.43 AAS
九州文学小説から始まった一人一説雑多九州説は個人的感情を挟むので
どうしても連呼や荒らしになってしまう
336
(3): 2023/11/18(土)02:13:49.43 AAS
ほんとうに薄葬令なんてものが有ったなら
副葬品も質素にしなきゃならないから
平原1号墓は候補から脱落だね
339
(1): 2023/11/18(土)03:12:16.43 AAS
平原1号のガラス連珠は東アジアに類例がなく、
中央アジアの騎馬民族のものと一致している
馬韓伝記載の大木が立てられている
399
(2): 2023/11/18(土)08:24:12.43 AAS
>>342
やはり裏が取れていないのだね。

馬韓伝に書かれているのは、馬韓人の一般祭祀としての大木祭祀であり、
平原遺跡のものと同様なのであれば、
馬韓時代の遺跡あるいは墓からそれなりに発掘発見されているはず。
なのに報告が無いし、そのような祭祀が朝鮮半島で続いている様子もない。

一方で、平原遺跡の御柱祭祀と類似性があるとして定説になっている、
諏訪大社の御柱祭については、実際に現在まで続いている祭祀であって、
御柱祭そのものが根拠であるし、
諏訪大社御祭神は神代建御名方神なのであるから、平原遺跡より前から日本にあった一祭祀だとして、問題が無い。
省4
760
(1): 2023/11/19(日)11:54:53.43 AAS
>>757
ほらよ。 外部リンク[pdf]:museum.bunmori.tokushima.jp
762: 2023/11/19(日)11:58:00.43 AAS
>>760
宗像大社の国宝と比べると格落ち感が半端ないな
961: 2023/11/20(月)13:55:40.43 AAS
>>207-215
成る程。成る程。
ヤマタイコクキナイセツが、柱にしていた物事が、随分と、怪し気な、証拠の無い主張だと分かったぞ。
これでは、ヤマタイコクキナイセツは、正々堂々の討論から、逃亡し、
嘘の宣伝という、科学界に対する荒らし行為を、し続けるするしか、ないのだね。
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