[過去ログ] 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖 (1002レス)
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178: 2024/02/03(土)10:22 AAS
>>177
それだ!
吉野ヶ里の石棺に刻まれていた星/星座。
古代人は、天文に長け、ロマンチストで、信仰心豊か。
179(1): 2024/02/03(土)10:30 AAS
重要なので何回も書きます
伊都国王が女王卑弥呼である事を踏まえて魏志倭人伝を読むと内容が矛盾無く理解出来ます。
「丗有王 皆統屬女王國」
「魏の時代に、伊都国には女王卑弥呼がいた、倭の国々は皆、女王国に従属していた。」
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王卑弥呼は女王国より北には、特に一大率を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた。一大率は(魏)国中に於ける刺史のようであった。」
この様に伊都国王が女王卑弥呼である事を踏まえると、訳の内容が全く変わるのです。
180: 2024/02/03(土)11:52 AAS
ま〜たここでも悪ふざけか、トンデモ糸コケ
181: 2024/02/03(土)12:15 AAS
一大率は「一大國}=壱岐にせっちされたもの
182: 2024/02/03(土)19:40 AAS
>>179
読み違い。女王国は邪馬台国のこと。
「女王」とは「女王の影響力が及ぶ30国」のこと。
つまり、8国+22国=30国を記述したのち、
「此処(以上30国)で女王の境界が尽きる」、と言っている。
(補注:華奴蘇奴国は、華奴国と蘇奴国を合わせて書いたもの、これを2国と見る)
183: ネトウヨボクメツ隊! 2024/02/03(土)20:37 AAS
高天原の神々への信仰というのは邪馬台国つまりヤマト王権の公式なものであって、庶民階級の信仰は若干これとはー違っていたのではないかと思う
銅鐸の神は何か。オレは今でいうエビス神に関わりがあるかもしれないと推測する
エビスというのは異邦人の意味だ。
折口信夫が言うように異世界つまり海の向こうの常世の国から来訪してくる神だったのだろう
エビスは記紀に登場しない神だが、その信仰は根深く今でも続いている
客人の神こそが庶民にとって一番身近な神だった
恵比寿大黒つまりエビスとオオナムチの信仰が上古の基層的な信仰で、高天原の神々は銅鏡文化人の崇拝する高級すぎる神だったのだろう
省2
184: [age] 2024/02/04(日)02:04 AAS
事代主とか少彦名とか言われてるが?
185: ネトウヨボクメツ隊! 2024/02/04(日)10:35 AAS
西宮神社では恵比寿神は耳が遠いので壁をドンドン叩いて祈願するという不思議な習慣がある
恵比寿神は耳が遠いという伝説は古くから日本各地に伝わっており、西宮神社だけの話ではないようだ
神社というものがない時代、耳の遠い来訪神に祈願するためには壁がないのだから、楽器で音を鳴らさねばならなかったろう
銅鐸は耳の遠い来訪神に祈願するためのものでは無かったと思う
186: 2024/02/04(日)10:39 AAS
「率川阿波神社」の末社が、住吉神社と春日神社。
奈良市最古の恵比須社「率川阿波神社」が何故に「阿波國」から勧請されなければならなかったのか。
「事代主神」ならば、大阪市浪速区の「今宮戎神社」等が勧請元でなければならないのに、なぜか「阿波國」。
そして社殿前の立て札(御由緒)には「大物主大神の御子神」であると説明されている。
ならば「大物主大神」と「事代主神」は阿波にいたと言わざるを得ない。 @阿波
187: 2024/02/04(日)10:44 AAS
よし、令和の正解だ
平原女王墓が卑弥呼
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域
2chスレ:archeology
188: 2024/02/04(日)11:05 AAS
楽浪郡の公孫康が卑弥呼を共立し、帯方郡が引き継いだので
平原は公孫氏の支配下にはいった。
[魏志 韓伝]
後漢最後の献帝の建安年間(196〜219)、公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。
公孫模等を遣して、遺民を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の楽浪郡民が少しずつ戻ってきた。
この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。
189(1): 2024/02/04(日)11:17 AAS
鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々は、
紀元前108年頃には、前漢武帝に朝貢していたよ。 @阿波
190: 2024/02/05(月)13:04 AAS
[魏志 韓伝]・・修正
桓末〜霊末の間(167-189)、韓(楽浪郡南の馬韓等)、濊(楽浪郡東の国)が強盛になり、
郡・県は制御できず、郡県民の馬韓等への流出が増えた。
後漢最後の献帝の建安年間(196〜219)、公孫康が楽浪郡の南の荒地を分けて帯方郡を為すと共に、
公孫模や張敞等を遣して韓や濊を伐ったので、旧民が少しずつ戻ってきた。
この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。
つまり、桓末〜霊末に馬韓等の武装難民が多数渡来して倭国大乱になり、邪馬台国などの馬系国を建てた。
これを楽浪郡の公孫康(196〜)が高千穂に卑弥呼を共立して治め、帯方郡(204〜)に引き継いだ?
191: 2024/02/07(水)09:45 AAS
→ 南至の投馬国、(自郡至)水行20日
これは、郡→末盧国まで1万里を水行10日、末盧国→投馬国を九州西岸〜薩摩回りで約1万里の10日。
→ 復南至の邪馬台国女王之所都、(自郡至)水行10日陸行1月。
これは、郡→末盧国まで1万里を水行10日、末盧国→阿蘇女王之所都まで2000里を陸行1月。
192: 2024/02/08(木)15:54 AAS
白村江敗退後、唐進駐軍の報復を恐れた藤原不比等は、我が皇統は熊襲の女酋卑弥呼如きに関わりなし、
まして前660年来の皇統版図の博多湾岸を、魏郡使や卑弥呼使が往来したり、駐屯したりはあり得ず、
おそらく、倭人条に云う唐津東南の佐賀の間道を通行して拝仮倭王・・との趣旨で日本書紀を編纂した。
それを1000年後の本居氏や白鳥氏が読み切れず、魏使は博多湾岸を経て南女酋之都に到ったと誤って論じた。
193: 2024/02/09(金)10:35 AAS
内藤湖南も皇国自生説:
>余(内藤湖南)が考定せる倭國の使人田道間守(難升米)と、此れ以外の諸人(都市牛利ら)も、
>皆但馬、出雲より出でし人物たることなり。
>此の二國(但馬出雲)の朝廷服屬は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、
>更に任那の服屬を導きたる者なるべし。
>魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと・・、
そもそも皇国が先にあって論じているから、支那の云う方角や里数は完全無視になる、今の畿内説も同じ。
194: 2024/02/10(土)16:58 AAS
[魏志韓伝 馬韓条]
「(馬韓に大首長の)臣智あり、その官に、魏・率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長あり・・」
解 説:
馬韓の官には、率善邑君以下、魏の官位が授けられていました。
王は存在せず、魏の支配力が、格段に強くなっているようです。
(注1:倭人伝の各国も、邪馬台国女王の他に王なく、官のみ)
(注2:難升米も率善中郎将の官位を授けられ、魏の支配が一段と進んだことを表している)
195: 2024/02/13(火)21:48 AAS
>中原世界では、黄海、は東海と表現し、楽浪大海中に倭人ありと表現するように、
つまり「東夷王は大海を渡り」とは倭王を意味し「珍しい品々」も倭国の代名詞。
それくらい倭王とは「東夷王」と表現されるほど東夷世界で一目置かれた存在。
だからこの後すぐ 西暦57年「漢委奴国王」の金印を贈られた。
王莽(前45〜23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より
禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8〜23)の皇帝に即位しました。
196(1): 2024/02/14(水)09:48 AAS
地球地軸の首振り歳差運動で、
三世紀当時の北極星は、真北より西へ12〜13度ほど振れていた。
依って、倭人伝の東西南北は、
グーグルマップを西へ12〜13度ほど傾けて読めば、今の方角と良く一致する。
197(1): 2024/02/14(水)13:27 AAS
倭人伝
01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
倭人伝は、この後の
魏時に帯方郡から送られた二人の遣使の記録の引用で始まる。
247年張政
65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
と
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