[過去ログ] 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖 (1002レス)
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198: 2024/02/14(水)13:29 AAS
247年張政の行程

03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
省3
199: 2024/02/14(水)13:43 AAS
240年梯儁 女王国の国勢の報告

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
省10
200
(1): 2024/02/14(水)14:05 AAS
歴史板九州説も復活してんの気付かないで
畿内説に行っちゃってたw おめ。
再録

中国史の謎、一月行は
倭人伝の陳寿によって暴露されている。

漢書地理志 東南アジアだが徐聞は海南島辺
自 日南 障塞 徐聞 合浦 船行 可 五月 有 都元國
又 船行 可 四月 有 邑盧沒國
又 船行 可 二十餘日 有 ?ェ離國 步行 可 十餘日 有 夫甘都盧國
自 夫甘都盧國 船行 可 二月餘 有 黄支國 (中略)
省12
201
(2): 2024/02/14(水)15:39 AAS
>>200
>倭人伝 去女王 四千餘里 又有 裸國
>裸國〜黒齒國 在 其東南 船行一年可至

女王(倭国)を去る4000余里と云えば近畿地方になる、
その東南と云えば、紀伊半島→伊豆半島から島伝いくだって1年、小笠原だと思うよ。
202
(1): 2024/02/14(水)16:09 AAS
>>201
文脈で、
54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里

女王国は倭国。倭国から東渡海 どこ? 
侏儒國 在 其南 人長三四尺は、四国?
女王国が倭国なら去女王 四千餘里に陸は無い。
邪馬台国は女王国の都ではない。

上の文脈には船行一年可至のような広大な倭国の中で、
省3
203
(1): 2024/02/15(木)08:06 AAS
>>196
磁気偏角も加えると30度はズレていたと思います、北海道は現在でも10度ズレていますからね。画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
204: 2024/02/15(木)08:49 AAS
>>201
>女王(倭国)を去る4000余里と云えば近畿地方になる、

違う。
侏儒国=神津島(女王国「阿波」から直線距離 約400km 四千余里 ∴一里=100m   @阿波
205: 2024/02/15(木)09:13 AAS
>>203
磁気偏角・・・天の真の北と、磁石が示す北との偏角
歳差偏角・・・天の真の北と、北極星が示す北との偏角、
この2つは別物で合計は出来ない
206
(1): 2024/02/15(木)09:34 AAS
>>202
倭人伝の場合、30国による共立記事の後に書かれているので、
女王国の東は、共立女王国=倭30国であることは明らか。
だから、太平御覧倭人伝では、倭国東渡海千余里・・と書き改められている。
依って此文は、中津〜宇佐あたりから見た本州・四国・近畿だね。
中津〜宇佐あたりから近畿までは4000里、船行1年は小笠原と見てよい。

倭国が四国まで含んでいたの阿波説や、近畿まで含んでいた畿内説では当然別の解釈になる。
207: 2024/02/15(木)10:36 AAS
>>206
>倭国が四国まで含んでいたの阿波説

違う。
「卑彌呼」・「壹與」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+東部讃岐+南部淡路島 程度だろう。   @阿波
208
(1): 2024/02/15(木)10:44 AAS
神湊〜中津〜阿波説は、私が少年時代に熱を上げた説ですが、
今は佐賀〜高千穂説になりました。
まだ阿波氏もお若いようですが、年を取れば、それなりに陳寿の文章の裏側が読めるようになります。
しっかり勉強を続けてくださいね。
209: 2024/02/15(木)10:47 AAS
>>208
>今は佐賀~高千穂説になりました。

落ちるとこまで落ちたな。   @阿波
210
(1): 2024/02/15(木)11:21 AAS
そうですね、
もうこれ以上落ちる心配はないので、一安心していますよ。

それにしても卑弥呼ちゃんは素晴らしいロケーションに住まいしていたのですね。
北は祖母山に守られ、東・西と南は、五ヶ瀬川が刻み込んだ最大深さ150m、
延長25?もの断崖渓谷で守られています。
三輪山を含む桜井市とほぼ同じ面積の天然の大要塞ですよ。こんな楽園に都を構えていたのですね!
211: 2024/02/15(木)11:33 AAS
>>210
海の恵みを一切得られない、そんな山奥が発展する要素が皆無な所によくぞ、落ちたな。   @阿波
212: 2024/02/15(木)12:17 AAS
邪馬台国は女王共立国で21国だが、
国の形としては市町村のような面ではなく
点の集落を想定している。

参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
奴国の2万戸のようなのはこの 或連 で、集合体なのだろう。
現代地名で比定を試みたことも有るが…

吉武高木 平原 三雲南小路 板付 野方 須玖岡本 今宿五郎江 吉野ヶ里
のような、21国だったであろうと想像する。

周旋可 五千餘里 として、糸島博多福岡筑紫平野で
瀬戸内海方面、小倉〜中津〜宇佐、
省11
213
(2): 2024/02/15(木)12:25 AAS
九州島のほぼど真ん中ですね。
土地が肥え、川の恵み、山の恵みもありました。
又、廣志には、山に憑き、海を負い、馬臺を鎮め、国を建てる・・、とあります。
有明海沿岸も領地で、ワカメも貝も塩も、必要なだけ手に入ったのでしょう。
214: 2024/02/15(木)12:31 AAS
>>213
海や大河のない地所に一大文明が興ったためしがない。   @阿波
215
(1): 2024/02/15(木)13:16 AAS
南海トラフ大地震の津波に飲み込まれる地所に、一大文明が興ったためしがありませんね。
216: 2024/02/15(木)13:20 AAS
>>213
廣志曰
倭國 東南 陸行 五百里 到 伊都國 又 南 至 邪馬嘉国
百女国 以北 其 戸數 道里 可得 略載

廣志で、参照したのは
邪馬嘉国 臺は引用元の梯儁が報告書で使用したが
魏では曹操の高楼を意味し公開文書では使用しなかった。
陳寿は邪馬 壹 にしたが、郭義恭の 嘉 でも
良かったのだろう、というところw

百女国 は、小国の女王を貶めて使ったかもしれない。
省7
217: 2024/02/15(木)13:32 AAS
書き忘れちゃったけど、重要なんで…

>廣志で、参照したのは
邪馬嘉国 臺は引用元の梯儁が報告書で使用したが
魏では曹操の高楼を意味し公開文書では使用しなかった。
陳寿は邪馬 壹 にしたが、郭義恭の 嘉 でも
良かったのだろう、というところw

つまり、
邪馬台国は和音の国名を漢字化したのではなく
梯儁が和音を漢字にした、邪馬国に 卑弥呼の臺 を見た。
それを表意文字で、女王国=邪馬臺国 と仮称した、という事。
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