「邪馬臺国(ヤマトコク)」は阿波だった!? IIIβ (595レス)
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193: 2024/06/22(土)12:25 AAS
地名の響き:倭国と繋がる山々と島々

魏志倭人伝には、邪馬台国周辺にある国の地名が記されています。徳島県周辺には、阿讃山脈や紀伊半島など、魏志倭人伝に記された地名と一致する地名が複数存在します。これらの地名が、倭国と徳島県との密接な関係を物語っているかのようです。
194: 2024/06/22(土)12:27 AAS
邪馬台国の所在地は、四国山上説が有力である。
195: 2024/06/22(土)12:37 AAS
魏志倭人伝の記述から読み解く

魏志倭人伝によれば、邪馬台国から南に水行20日で投馬国に着くことが記されています。

投馬国は、現在の愛媛県愛南町から高知県宿毛市、四万十市にかけての一帯にあったと考えられています。

この地域は、縄文時代後期から弥生時代にかけての遺跡が多数出土しており、当時、かなりの人が暮らしていたことが推測されます。

また、愛南町から高知県宿毛市にかけての一帯は、古くから交通の要衝として栄えてきました。
省1
196: 2024/06/22(土)12:38 AAS
考古学的調査から得られた成果

近年、愛媛県南予地域を中心に、考古学的調査が活発化しています。

その結果、弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡や祭祀遺跡が多数発見されています。

これらの遺跡は、当時の社会体制や文化を知る上で重要な資料となっています。

また、愛媛県南予地域からは、大陸から伝わったとされる銅鏡や銅矛などの青銅器が数多く出土しています。
省1
197: 2024/06/22(土)12:38 AAS
地名や民俗伝承から読み解く

愛媛県南予地域には、邪馬台国に関連すると思われる地名や民俗伝承が残されています。

例えば、愛南町には「城辺」や「御荘」といった、古代の豪族の居城跡を思わせる地名があります。

また、四万十市には、卑弥呼を祀ったとされる神社が存在します。

これらの地名や民俗伝承は、邪馬台国が愛媛県南予地域にあったことを裏付けるものと言えるでしょう。
198: 2024/06/22(土)12:42 AAS
魏志倭人伝における「水路十日、陸路一月」という表現は、邪馬台国までの道のりを示すものとして、長らく議論の的となってきました。

一般的には、「水路で10日間進んだ後、陸路に切り替えて1ヶ月かけて進む」と解釈されています。しかし、この解釈にはいくつかの疑問点が残ります。

まず、この解釈が正しいならば、上陸地点となる港の名前が記されていない点が不自然です。邪馬台国への玄関港であれば、相当な規模の港を有した都市国家が存在するはずと考えられますが、魏志倭人伝にはその名前が見当たりません。

さらに、水路で10日間もあれば、九州北部から畿内南部まで十分到達可能です。しかし、邪馬台国が畿内南部にあったと推定する説は、考古学的根拠に乏しい状況です。

これらの疑問点を踏まえ、私は「水路十日、陸路一月」という表現を別の視点から解釈してみることにしました。
省5
199
(3): 2024/06/22(土)16:22 AAS
今だけです
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
200
(1): 2024/06/22(土)19:11 AAS
>>199
これ気になるなあ
201: 伊太のに居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2024/06/22(土)19:19 AAS
>>199
>>200
セットで宣伝お疲れ様です、こんなんに引っかかる人がいるとは思えませんが。
202: 伊太のに居たの ◆oRNQXnZmlfa1 2024/06/24(月)23:45 AAS
阿波説ダラダラスレの後継スレがたちませんな。
203: 2024/06/25(火)00:26 AAS
魏志倭人伝の邪馬壹と違う国で、畿内と関係のあった国ならば、名称は知らないが、あっただろうと思うが、
204: 2024/06/25(火)01:25 AAS
>>199
こういうの見逃せないよな
205: 2024/06/26(水)12:10 AAS
騙されました。
206: 2024/06/26(水)21:19 AAS
奈良県桜井市にある巻向遺跡。ここは、考古学ファンにとってまさに聖地とも呼べる場所だ。大和朝廷誕生の地と目されるこの遺跡は、近年、目覚ましい成果を次々と生み出しており、古代王権の息吹を鮮やかに蘇らせている。

特に注目すべきは、2010年に発掘された「被葬者副葬品」である。精巧な金冠や青銅製の器皿、そして中国製の鏡など、当時の権力者たちがいかに豊かな文化を享受していたかが窺い知れる。これらの副葬品は、単なる装飾品ではなく、大陸との交流や政治的な影響力を示す重要な手がかりとなるのだ。

巻向遺跡の発掘は、邪馬台国大和説にも新たな視点を提供している。これまで邪馬台国は九州北部にあると考えられてきたが、巻向遺跡の発見によって、大和地域が有力な候補地として浮上してきたのだ。

では、なぜ大和の地が古代王権の拠点として選ばれたのか。その理由は、地理的な優位性にあると考えられる。大和盆地は豊かな水資源と肥沃な土地に恵まれ、周辺地域を統治する上で戦略的に重要な位置にあった。さらに、海へのアクセスも容易で、大陸との交流にも適していた。

このように、巻向遺跡は、大和朝廷誕生の謎を解き明かす上で重要な役割を果たしている。
207: 2024/06/26(水)21:23 AAS
なんにもない寒村纏向。   @阿波
208: 2024/06/26(水)22:00 AAS
徳島を舞台とする邪馬台国新説が、古代史に新たな風穴を開けようとしています。卑弥呼の宮殿が徳島にあったという仮説は、地域の歴史に光を当て、多くの注目を集めています。

この説の根拠となるのは、徳島県内に存在する古墳や神社の数々です。これらの遺跡から出土した遺物や地理的な配置は、「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の特徴と一致し、徳島が卑弥呼の宮廷所在地であった可能性を示唆しています。

地元研究者たちは、文献調査と現地調査を組み合わせた綿密な研究を進めています。また、徳島に伝わる伝説や口承文化も、重要な手がかりとなっています。

卑弥呼と徳島の繋がりは、単なる地理的な関係を超え、文化や精神的な繋がりをもたらします。この新説は、卑弥呼像に新たな側面を加え、女性リーダーとしての役割にも光を当てています。

地域住民にとっても、邪馬台国と卑弥呼への関心が高まっています。徳島が歴史の舞台として脚光を浴びることで、地域活性化にも繋がるでしょう。
209: 2024/06/26(水)22:07 AAS
徳島県阿南市にある若杉山辰砂鉱山遺跡の発掘により、弥生時代後期から古墳時代初めの時期に、日本産の辰砂が西日本各地に流通していたことが明らかになりました。

これは、『魏志倭人伝』の倭人に関する記述にある「其山有丹(そのやまにたんあり)」という記載を裏付けるものであり、卑弥呼が魏に献上した「丹」もまた、若杉山産の辰砂であったことを示唆しています。
210
(2): 2024/06/26(水)22:10 AAS
三国志倭人伝によれば、3世紀の倭人は顔や体を真っ赤に染めた入れ墨を施していたと記されています。

一方、古事記や日本書紀では、入れ墨をした人々は「天孫族」によってことごとく殺戮されていく蛮族として描かれています。

例外として、「天孫族」と入れ墨族の間に生まれたイワレビコが、入れ墨族の小邑を支配下に置いたという記述はありますが、そのイワレビコの配下の入れ墨族もまた、他の入れ墨族を殺戮していくという矛盾が生じています。
211
(1): 2024/06/26(水)22:25 AAS
>>210
嘘コケ

天孫族のほうが入れ墨族で、求婚時に入れ墨を驚かれてるだろうが
212
(1): 2024/06/26(水)23:00 AAS
AIのバカ文章にツッコミしても・・・
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