平原女王墓が卑弥呼って聞いたけど?Part986 (751レス)
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608(1): 2024/11/20(水)00:27 AAS
>>607
『漢委奴國王=漢は東夷世界を奴国王に委ねる』
印字そのものに明記されている通り、
漢が独立支配を認めたんだよ。
このような印字文体の金印銀印は唯一無二『漢委奴國王』だけ。
その考古学的物証が中広形銅矛の出土範囲との一致だ。
独立するのは反逆だけじゃない。反逆した哀れな勢力ならその勢力の度量衡など認めない。
対等の立場として独立して、それが認められたのが、金印。
もちろん臣従してなどいないから、漢の年号も使用していない。
逆に魏の年号を使用した国産銅鏡はある意味問題だ、ということになるな。
609(1): 2024/11/20(水)06:35 AAS
>独自の度量衡を用いるってことは他に支配されない独立した勢力だってこと
ふむふむ。
>魏に対する反逆
なんで??
魏と親しくて、他に支配されない独立した勢力でもいいだろうに。
そもそも公孫氏の支配範囲は遼東と楽浪帯方郡であって、
その地域は短里が適用されていない。<地理的矛盾>
短里は後漢書にも記録されているから、
公孫氏以前から存在していた。<時間的矛盾>
結論:公孫氏と短里は無関係であり、短里など存在しなかった。
610(1): 2024/11/20(水)19:29 AAS
>>608
そもそも「漢委奴國王」は委奴國王を漢の家臣としての国璽
魏と倭は対等の立場ではなく、冊封された立場
>>609
>短里は後漢書にも記録されているから、
後漢書は三国志等を参考にして書かれたものだよ。
611: 2024/11/21(木)06:39 AAS
>>610
>そもそも「漢委奴國王」は委奴國王を漢の家臣としての国璽
>魏と倭は対等の立場ではなく、冊封された立場
用語の意味がわかっていないようだね。
>後漢書は三国志等を参考にして書かれたものだよ。
その程度の理解で論じているなら
君の解釈は大いに信用ならない。
それらしいデマをまき散らしているだけ。
612: 2024/11/22(金)23:52 AAS
畿内説が知能後退して議論回避サル踊りしてるの
マジ笑えるねw
結論が出るのを何とか先延ばしするためだけの
アホ言葉サル踊りしてウッキッキーwww
613: 2024/11/25(月)06:33 AAS
伊邪那岐・伊邪那美 いざなぎ・いざなみ
邪 呉音ジャ 漢音ヤ
中国南部の浙南石棚墓群つまり呉太伯末裔が前10世紀に長崎伊邪國に少数漂着渡来したから、
「邪(耶)=ざ」として漢字を宛てた。
伊邪國伊耶國いざ 伊佐国いさ 諫早いさはや
阿耶訶あざか 邪馬嘉國ざまか 大坂 栄 佐嘉 佐賀さが
邪馬壱國ざまい (佐馬壱) 雀居遺跡ささい
中国北部出身の張政が来倭して、倭やまとに宛てたのが邪馬台国で、
邪馬台国の「邪=や」だけ中国北部系。
614: 2024/11/25(月)06:34 AAS
いざ
伊邪國:長崎諫早(伊佐国)
已百支國:伊万里
末蘆國:唐津平野・菜畑遺跡(吾田)柏崎遺跡(笠沙岬)
伊都國(魏代):糸島平野(日向)井原鑓溝遺跡(吾平山上)潤地頭給遺跡(吾平津)
伊都國(漢代):早良平野(日本)吉武遺跡(高天原)
斯馬國:糸島半島(士摩)
奴國:那珂比恵遺跡〜須玖遺跡(葦原那珂津国)
不彌國:雀居遺跡(邪馬壱國)ざまい
豊国
省10
615(1): 2024/11/25(月)06:36 AAS
結局のところ、弥生時代最大都市は奴国弥生銀座二万戸がダントツ。
畿内説にしても邪馬台国七万戸なんて畿内全体をかき集めるしかない。
畿内説:日程の南を東に捏造して、畿内での広域邪馬台国
伊都説:里程と日程は文体が異なることから並列で、北部九州での広域邪馬台国
矛盾が無いのは伊都説だね。
首都が伊都。
卑弥呼墓は国宝平原女王墓。
616: 2024/11/25(月)17:31 AAS
首都が伊都で北部九州地域全域が邪馬台国は確定だな
何時までも意味の無い論争をしてる馬鹿が多いね。
617: 2024/11/26(火)01:29 AAS
>>615
おいおい、ふかすなよ
弥生時代の人口で2万戸っつったら、九州の大半を支配する超大国の総人口ぐらいやぞ
618: 2024/11/26(火)03:28 AAS
このスレ内に答えが書いてあるからよく嫁。
帯方郡から万二千里で至る奴国は女王卑彌呼の前任地なのだから、
先に統合整備されて二万戸レベルの最大地方自治体になっていたのだよ。
地方女王卑彌呼はその運営手腕を認められて倭国王に抜擢された。
後漢書にも書かれた宮殿は不彌國雀居遺跡にあった。
女王が住まう首都は貴種のみが立ち入りを許された高級住宅地であり
それもまた不彌國千家から魏代伊都國千戸と移動したわけだ。
伊都説では全て矛盾なく説明がついている。
619(1): 2024/11/26(火)10:36 AAS
帯方郡から女王国までが12000里
女王国から倭種までが1000里
詰まり帯方郡から倭種までは13000里
(博多湾岸の)女王国から渡海(関門海峡)して1000里(80km)の場所は山口県付近
北部九州地域が邪馬台国なんだ
620: 2024/11/26(火)12:21 AAS
>>619
単に海上の距離の測定をマトモに行ってない(測定の技術はあったが、辺境すぎて技術者をつれていけなかったとかかも?)だけで、つまり距離を把握できてなかっただけやろ
621: 2024/11/26(火)13:16 AAS
海上の距離の測定は無理だったので
平行する陸地があり唯一測定可能だった(博多湾岸の)女王国から渡海(関門海峡)して1000里(80km)で倭種(山口県付近)の距離を
他の3つの海峡の距離にも流用したんだ。
622(2): 2024/11/27(水)06:56 AAS
>海上の距離の測定は無理だったので
結局のところ、方角と同じで、
距離も間違いとか無理とか言い出す時点で自説に矛盾があると認めたことになる。
・漢委奴國王「金印」=独自の度量衡支配を認可
・後漢書にも東夷伝里=後漢代以前からあった
・「地図」ではなく「行程」の記載
これらを理解すれば、綺麗に説明がつく。
・渡海千里の最後は、壱岐→東松浦半島東岸から唐津湾は沿岸航海→末蘆國東端の筑前深江に上陸で至る
・伊都五百里は、夏の日の出方角基準に、筑前深江から金印ロード(県道49号線)→日向峠越えの道なり距離五百里→漢代伊都中心だった吉武高木宮殿に到着
(楽浪土器集中出土の三雲大使館を経由するから)
省1
623: 2024/11/27(水)08:39 AAS
>>622
邪馬台国は中国からみて東ではなく南東にあると誤認して書かれているんだから、表記通りに進んだら到着できない、できるはずがない
というのが基本で、方角だけがおかしいわけではないよ
624: 2024/11/27(水)09:03 AAS
>>622
陸上は歩測やヒモを使って測れるけど何もない海上は測れないから測れた所の距離を流用するしかなかった
陸上の距離はほぼ正解に測られている
東松浦半島への上陸地点は呼子付近で、そこから500里(約40km)で伊都国(伊都G.C.付近の丘陵)に丁度着く
伊都G.C.付近の丘陵から先が伊都国で,そこから100里(8km)で糸島峠付近
糸島峠付近から先が奴国、そこから室見川沿いに100里(8km)進むと不弥国
不弥国は室見川河口付近で博多湾岸の国、そこから1000里(約80km)で倭種
方角は北部九州地域の海岸線を東西方向としており、実際の方向とは20〜30度ずれているな
不弥国は早良区北部付近で
奴国は早良区南部だけでなく那珂川市、春日市、大野城市等を含む地域であろう。
625: 2024/11/27(水)12:31 AAS
邪馬台国は卑弥呼を共立した北部九州地域の諸国の連合体の名称
邪馬台国の中に対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、傍国20か国が在ったんだ
その中で卑弥呼の住んでいた場所は伊都国なんだ
魏使は北部九州地域までしか来ておらず、伊都国で女王卑弥呼と対面してる
魏志倭人伝に書かれていない伊都国の王が卑弥呼なんだ
626: ネトウヨ撲滅隊! 2024/11/28(木)09:35 AAS
倭国大乱前の筑紫平野とその周辺が一個の政治勢力としてまとまっていたという考察は正しいと思う
倭国大乱後の畿内が纏向を中心に一つの政治勢力としてまとまっていたのと同じく、政治都市の伊都国と経済都市の奴国が中心となって筑紫平野とその周辺を領域国家的にまとめていたのだろう
これが漢委奴国王時代の古い時代の狭義の倭国
その伊都国奴国の王権が倭国大乱後に消滅、畿内に興った新しい王権が日本列島西半分を支配した
ここからが邪馬台国=ヤマト王権時代の広義の倭国だろう
省4
627(1): 2024/11/29(金)02:48 AAS
いざ
伊邪國:長崎諫早(伊佐国)
已百支國:伊万里
末蘆國:唐津平野・菜畑遺跡(吾田)柏崎遺跡(笠沙岬)
伊都國(魏代):糸島平野(日向)井原鑓溝遺跡(吾平山上)潤地頭給遺跡(吾平津)
伊都國(漢代):早良平野(日本)吉武遺跡(高天原)
斯馬國:糸島半島(士摩)
奴國:那珂比恵遺跡〜須玖遺跡(葦原那珂津国)
不彌國:雀居遺跡(邪馬壱國)ざまい
豊国
省10
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