5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (761レス)
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168: 03/03(日)16:53 AAS
『日本書紀』の「斉明天皇紀」の五年(659)七月の条に、つぎのような文がある。
「伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書によると、この天皇(斉明天皇)の御世に、
この記事で注目されるのは、九月十四日の午前四時ごろに大海に乗りだし、
十六日の夜半には、中国の江南の会稽県についていることである。
二日(二昼夜)と八時間ほどで東シナ海を渡っていることになる。
縄文、弥生時代と、七・八世紀ごろとでは、船の構造の違いもあるとみられるが、
参考になると思われるので、以下に紹介してみよう。
169: 03/03(日)17:55 AAS
原始和弓の起源 2015年『日本考古学』
外部リンク:fieldnote.info
原始和弓が属する丸木弓系単一素材弓は,太平洋・インド洋沿岸の湿潤な樹林帯に多い。
とくに,太平洋周辺の長大な弓の分布は,オーストロネシア語族の拡散域と
非常によく重なるので,その拡散には彼らが強く関与していたとみられる。
源郷とされる中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡からは,初期のイネやブタ,
丸木舟とともに,世界最古の漆塗りの丸木弓が出土しており,
原始和弓も含めた太平洋型長大弓の共通の祖形ではないかと考えられる。
東シナ海、杭州湾を臨む浙江省跨湖橋遺跡から,新石器時代(紀元前5000〜6000年頃)
のI類漆塗り丸木弓が出土している(図4–26・浙江省文物考古研究所2004)。
省2
170(1): 03/03(日)18:16 AAS
さらにこの地域の先住民例を見ると,台湾のアミ族やタイヤル族,海南島のリ族が,
140〜150cm台の比較的長い丸木ないし竹製のI類弓を使用している。
フィリピン〜南太平洋島嶼群のI類弓
さらに南下すると,フィリピンからタヒチまで,
太平洋の島嶼伝いにはるか東へとのびる,I類弓の広大な分布域を認めることができる。
この地域では,180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達するような,
長大なI類弓が主体である。フィリピンのネグリート族は,原始和弓と同じ弓幹に
樋と巻を施した長弓と,三叉族を付した長大な矢で,漁労に使用する(Krieger1926)。
171: 03/03(日)18:19 AAS
後藤守一は、弓幹の長さと形態によって弓を分類した(後藤 1928)。
弓のうち「長さ2m 位のもの」を長弓、「長さ1m 内外のもの」を短弓と称し、
弦をはずした時に弓幹がほぼまっすぐで、弦を張るとほぼ同じ曲率で曲がるものを直弓、
弓幹の中央が弦に向かって逆に反った弓字形になるものを彎弓と称した。
そして、多くの場合に長弓は直弓、彎弓は短弓であるとの見方を示している。
朝鮮半島南部では紀元前1世紀に,跨湖橋遺跡の弓に類似した漆塗り長大弓が出現する。
朝鮮半島南端部では,日本の弥生時代に相当する原三国時代に,
原始和弓に匹敵する長大なI類弓が確認されている。
紀元前1世紀中頃の慶尚南道昌原市茶戸里1号木棺墓(国立中央博物館2012),
2世紀前半頃の金海良洞里21号木槨墓(図4–25・国立金海博物館2012)出土例である。
172: 03/03(日)18:23 AAS
>>170 続き。
インド洋沿岸のI類弓
フィリピンから東へ向かっては,分布の希薄なインドシナ半島を跨ぐようにして,
インド洋東岸へI類弓の分布が広がる。インドネシアのメンタワイ族,
スリランカのヴェッダ族などの弓が代表的なものである。南太平洋の島嶼群と同様,
180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達する長大なI類弓が主体である。
なお,アンダマン諸島のグレート・アンダマン族は,彼らの身長をはるかに越える,
180cm以上の長大な木製の弓を用いることで知られる(Brown1906)。
173: 03/03(日)20:15 AAS
縄文時代の弓に長弓と短弓があることは、近年の発掘で明らかになってきた。
長弓の例として、莉内遺跡・寿能遺跡などの例があり、短弓の例として、
埼玉県伊奈氏屋敷跡遺跡例などがある。
さらに小型弓と呼んでいる、発火弓、穿孔弓と考えられる木製品を確認されているが、
これは、仕掛け弓としても用いられたのかもしれない。
弓の全体形は上長下短で、握りの部分は弓幹の下よりにくるものが多い。
縄文時代の丸木弓は、長弓が多い。しかし、北海道忍路土場遺跡では、 1m 以下の
短弓が大量に残っており、縄文の弓は時期や地域毎に異なった姿があったらしい。
174: 03/03(日)20:32 AAS
「縄文時代と弥生時代の木製容器」
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縄文時代の深鉢形土器・弥生時代の甕形土器は、煮炊きする容器であり、
弥生時代の壷形土器は貯蔵する容器となる。それに比べ木製の容器は、軽量であり、
衝撃に対する強さもある。作業皿・浅鉢・椀・掬い具などが中心器種となっている。
縄文時代の木製容器は、鉢・浅鉢・注ぎ具・皿・壷.杓子・椀があり、
時期・地域によって形を変化させている。鉢・浅鉢には、文様を彫刻することがあり、
土器のモチーフと類似したものとなっている。
赤あるいは黒の漆が塗られていることが多い縄文時代の木製容器と違い、
弥生時代のそれは木肌そのままの仕上りが基本形になっている。
175: 03/03(日)20:35 AAS
縄文時代の木製容器の用途を考えてみるに、
これ迄に発見されていた漆器の多くは調理に関わる道具であった。
福井県鳥浜遺跡や石川県真脇遺跡、山形県押出遺跡例などの大型皿・浅鉢のたぐいは、
•海の幸、山の幸を盛りつける。
•そうした食料資源を調理する(堅果類の粉をねる、イモをすったものを扱う、
獣肉や魚肉を調理する)。などの作業鉢や調理具として用いられたと考えられる。
176: 03/03(日)21:54 AAS
魏志倭人伝の世界は南方的だ
外部リンク:blog.goo.ne.jp
「倭人は長弓を用いていた」
倭人伝は「木弓は下を短くし上を長くし【これは長弓を表す】、
竹箭は或は鉄鏃、或いは骨鏃なり、有無する所は、儋耳朱崖(海南島)と同じ。」
と記している。つまり海南島は長弓で倭人が用いる長弓と同じであると云っている。
下の写真は、奈良・唐子鍵遺跡(倭人伝と同時代)出土の弥生時代の長弓で、
復元推定長さ2.0〜2.3mと云われている。
このような長弓の分布は江南の呉越からインドシナ半島東部、フィリピン諸島、
インドネシア諸島に分布している。
省3
177: 03/03(日)23:06 AAS
>出るわ出るわ縄文時代の漆塗り丸木弓、全国から出土。
重要文化財に指定された、東村山市内の下宅部(しもやけべ)遺跡から出土した
漆塗りの丸木弓から、縄文時代の狩猟儀礼を考える内容。
秋田県立博物館 中山遺跡出土の漆塗り丸木弓(縄文時代晩期)
縄文晩期、青森県是川遺跡・奈良県橿原公苑遺跡に漆塗りの長弓がある。
弥生時代 唐古遺跡、登呂遺跡、の出土例では、長短2種の丸木弓がみられる。
埼玉県大木戸遺跡 縄文時代後期の黒漆塗りと赤漆塗り飾り弓が出土しました。
長弓の中には桜皮を巻いて漆を塗装したものなどの製作技術の違いがわかっている。
省2
178(1): 03/03(日)23:23 AAS
>>4
淡路島の榎列掃守鎮座の掃守(かもり)神社の御祭神の
天忍人命とは何者?
179(1): 03/03(日)23:33 AAS
韓国語で イネ は ピョ。コメ は サル だ。
まったく語源が違う。コメは南中国語に近い。
よってコメは朝鮮から来ていないし、朝鮮語と日本語は無関係。
これは日本語まったく解釈不可能だ。
イネが朝鮮から伝来したのなら、名称が似ているはずだ。
ぴょ、ぴょ と言われても、鳥の鳴き声を真似ているとしか日本人は理解しない。
反対に 馬 ウマ は古代インド=ヨーロッパ語の馬の名称である マー が入っている。
これは百済語のマールか、中国語のマーから日本語に入ってきたことがわかる。
180: 03/03(日)23:57 AAS
そう、
アジアにおける漆塗り丸木弓・長弓の起源に関する考察として、
太平洋周辺の長大な弓の分布はオーストロネシア語族の拡散域と重なり、
また中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡から世界最古の漆塗り丸木弓が出土しており、
この浙江省にある良渚・河姆渡遺跡そば跨湖橋遺跡が漆塗り丸木弓の発祥地と云われる。
原始和弓を含めた太平洋型長大弓の共通祖形とも考えられている。
181: 03/04(月)00:33 AAS
Admixture研究で、古代南朝鮮人は縄文人と遼東人の混血という結果が出ている。
>だから、それは山口の土井ヶ浜弥生人限定、他の集団とは類似性はなかった。
そうしたら弥生人は山東省の古集団で決定だ。
弥生人と朝鮮人に遺伝子的な類似性があったという報告はない。
182: 03/04(月)00:50 AAS
外部リンク:kaken.nii.ac.jp
遼東半島では本格的な水田遺跡は見つかっていない。可能性があると言ってるだけ。
183: 03/04(月)02:05 AAS
ヒナモリではない
ヒノボリ(火登り)である。
184: 03/05(火)22:18 AAS
【殷の甲骨文字】
次に殷墟から出土した甲骨文字について見ていきます。
言語学者のガブリエル・マンデル氏は「幻のインダス文明」という書籍の中で、
殷中期の原エラム文字とインダス文字の比較研究を論述しています。
また、オーストリアの考古学者ハイネ・ゲルデルン氏も
殷の原エラム文字がインダス文字の一種であることを考証しています。
185: 03/05(火)22:21 AAS
甲骨文字とインダス文字に共通する特徴として象形文字と表音文字という
二つのグループから合成されていることを解説しています。
また、インダス文字が原エラム文字と非常によく似ていることは広く識られています。
甲骨文字の他に殷の青銅器銘文の大部分は図象によって占められています。
186: 03/05(火)23:08 AAS
AA省
187: 03/05(火)23:11 AAS
>結局、殷商王朝はシュメールやペルシャ・インダスからの交易商人が集う活動拠点だった。
漢字はいつ生まれたか?
殷王朝の時代(BC1,700〜BC1,100年)、
紀元前1,300年頃に生まれた(漢字のルーツ甲骨文字・インダス文字・原エラム文字)
外部リンク:blog.goo.ne.jp
上の写真は漢字の変化を纏めた資料
殷時代 BC1,700〜BC1,100年 甲骨文字
周時代 BC1,100〜BC256年 金文
秦時代 BC221〜BC207年 篆書
漢時代 BC202〜AD220 隷書、楷書、行書、草書
省1
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