5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (761レス)
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(4): 02/08(木)16:19 AAS
ヒナモリ(夷守)がいた場所は魏志倭人伝によると
対馬国・一支国・奴国・不弥国
他には各地に地名として残るヒナモリ(鄙守)がいたと思われる場所は
小林市・妙高市・上越市・岐阜市茜部本郷など
尚2023/11/下旬にScript攻撃に遭い前スレがDat落ちしたので立て
直しました。その際過長Errorに応じスレタイ文字数を短縮しました

前スレ
5世紀頃までの国境とそれを守備する軍事的長のヒナモリについて語るスレ [無断転載禁止]c2ch.net
2chスレ:history
2: 02/08(木)16:22 AAS
>>1
関連スレ
初期大和王権スレ [無断転載禁止]©2ch.net
2chスレ:history
【阿曇・住吉・宗像】海人族 Part.8
2chスレ:history
【阿曇・住吉・宗像】海人族 Part.8
2chスレ:history
3
(5): 02/08(木)16:38 AAS
AA省
4
(2): 02/08(木)16:46 AAS
AA省
5: ネトウヨボクメツ隊! 02/09(金)12:11 AAS
伊都国の爾支(ニキ)というのは、ニニキやニキハヤヒのニキと関連がありそうだな

弥生時代に九州の倭王がいたと思われる伊都国だけで使用されている名前だから、高貴な血統を持つ家系つまり記紀でいう天孫の王統に連なる王だけが名乗れる称号だったのだろう

イワレヒコとニキハヤヒがお互いに天孫の子と名乗ったというからな
6: 02/10(土)04:04 AAS
宇美町じゃなくて海岸沿いなんだろ
水先案内人とか
言語がそこそこ堪能で入国審査できるやつ

都の邪馬台国からしたら
海流に乗ってこないように
同じ女王国内の北部九州人に
海賊とスパイの排除やってもらいたい
壱岐対馬が干上がらないように
物資の調達もさせないといけない

正規の貿易船は伊都国か不弥国に直接入らせる
省4
7: 02/12(月)21:13 AAS
>>3

56 :日本@名無史さん :2024/01/21(日) 22:23:40.22
魏志倭人伝の各国を見ると長官の官職名には統一性が無いのに
副官は卑奴母離で統一されていたりする

おそらく卑奴母離とは伊都国の一大率が派遣した目付役の官職名なのだろう
だから伊都国自身には卑奴母離がいないし、主家である邪馬台国や
一大率の管轄外である南方の投馬国にも卑奴母離はいない
8: 02/13(火)21:33 AAS
後漢書韓伝、にある国々で下の八か国はすでに卑弥呼時代(2^3世紀)には、
邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。

これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を記録者が省略化したのだと思う。

卑離(ヒリ)国
占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる)
監奚卑離(カンケイヒリ)国
内卑離(ダイヒリ)国
辟卑離(ヘキヒリ)国
牟盧卑離(ボウロヒリ)国
如来卑離(ジョライヒリ)国
省1
9: 02/18(日)20:28 AAS
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾漆
2chスレ:history

九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!

九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。

議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!

前スレ
省2
10: 02/18(日)20:29 AAS
魏志鮮卑伝の裴松之注には、魏書曰くとして「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水まで行った所、
数百里にわたって水が停滞していて、中に魚がいるのに取ることができなかった。

汗人が魚を捕るのがうまい(善捕魚)と聞き、東の汗国を撃って千余家を手に入れ、
烏侯秦水へ移し置いて魚を捕らえさせ、食料の補助とした。
今に至るまで、烏侯秦水のほとりに汗人数百戸がある。」という記述がありますが、
後漢書では「汗人が倭人」に置き換えられています。

北魏、酈道元(れきどうげん)の『水経注』には、
遼西を流れる白狼水の支流に??平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭地。人これに移る。」
.
省3
11: 02/18(日)20:30 AAS
>曹操軍と倭人たちは直接戦った?可能性がある。

北魏、酈道元(れきどうげん)の『水経注』には、
遼西を流れる白狼水の支流に??平川水というのがあり、
「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。 蓋し倭地。人これに移る。」 とある

白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)は、中国後漢末期の207年に、
曹操(魏の基礎を作った)と中国北部の異民族烏桓(烏丸)との間で行われた戦い。
白狼山の側を流れるのが白狼水で倭人の居住地や倭城があったと云われる。
曹操軍は、袁尚・袁煕と同盟を結んだ烏桓(烏丸)を打ち破り、
この戦いで烏桓勢力は大幅に弱体化し、後に魏や鮮卑の部族に吸収されることとなる。

京都の烏丸(からすま)通りには烏丸川が流れてたらしいから気になる。
省5
12: 02/18(日)20:32 AAS
倭人の倭が何を意味するのかは判らないのだが、
倭人が自分の出自を倭から来たと言った可能性は高い。

中国人にとって、倭人は東臨大海から来た人であり、
倭人は、古代より、海の神をワダツミ、陸の神をヤマツミと言った。

この倭人の海のワ・ワタが、漢字の倭なのではないかと思うが、どうだろう?

>倭人と云われる人達は自分の事を
「わし・われ・わたし・わたい・わが・あ」とか「わ」をよく使うので
「倭」と付けられたのでは説がある。
13: 02/18(日)20:34 AAS
>これは、700年前後の記紀より200年程前の目に触れない墓誌からの史実だけど、
 三者の記録がピッタリ一致するのは、別に原資料が有ったと思われる。
 よって、記紀なども決してデタラメを記録したもので無い事が証明される。

『日本書紀』継体紀 「(継体)十七年(癸卯=五二三)夏五月、百済王武寧薨」

『三国史記』百済本紀「(武寧)二十三年(癸卯=五二三)夏五月、王薨、諡曰武寧」

[武寧王墓誌銘] 「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戎朔七日壬辰崩」
14: 02/18(日)20:35 AAS
崇神天皇は長浜説で241年崩御が...古事記だと258年...318年説も根強い
垂仁天皇の崩年干支「辛未」発見で。崇神崩年干支「戊寅」を318年から258年が妥当か

垂仁天皇の崩年干支「辛未」...311年 『住吉大社神代記』崩年干支「辛未」
景行天皇の崩年干支 古事記記載なし だいたい中間とって333年ころか?

成務天皇は長浜説で350年崩御が...古事記だと355年
仲哀天皇は長浜説で355年崩御が...古事記だと362年

神功皇后の崩年干支 住吉大社本では大体370〜380年ごろの崩御だろうと推定
応神天皇は長浜説で410年崩御が...古事記だと394年

仁徳天皇は長浜説で428年崩御が...古事記だと427年
15: 02/18(日)20:36 AAS
魏志馬韓伝、にある国々で下の8か国はすでに卑弥呼時代(3世紀)には、
邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。

これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を(卑離)と記録者が簡略化したのだと思う。
卑離(ヒリ)国
占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる)
監奚卑離(カンケイヒリ)国
内卑離(ダイヒリ)国
辟卑離(ヘキヒリ)国
牟盧卑離(ボウロヒリ)国
如来卑離(ジョライヒリ)国
省1
16: 02/18(日)20:37 AAS
ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、

3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国の国境を守備する軍事的長の名称。
後に地名、駅名、神社名等に残る。
またヒナモリの「モリ (守) 肥後守ひごのかみ」などカバネとしても使われた。

邪馬台国時代の軍事的長。
『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、
および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。

これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、
外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えらる。
17: 02/18(日)20:37 AAS
4世紀は高句麗によって楽浪郡を滅ぼされ(313年)中原の支配から解放され
伯済國は百済へと斯盧國は新羅へと纏まって建国して行ったんだろう。

南部の倭人地域は混乱したが卑奴母離(ヒナモリ)などの
一定の軍事力は保持してただろうが、北部から高句麗勢の軍事力をバックに

南下政策をとった過程で倭国の勢力地域も侵され高句麗、百済、新羅、倭国の
四ツ巴、戦闘状態の天地が引っくり返る様な状態な時
18: 02/18(日)20:40 AAS
そこで、登場したのが「神功皇后」で息長氏の先祖が新羅王アメノヒボコ。
おいっ、待てよ、新羅は我が先祖の領地だぞよと、
昔の三韓の領地を還せと、返還しないなら征伐だと、その過程が例の下の好太王碑文。

百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。
ところが、倭が辛卯の年(391年)以来、海をこえて襲来し、
百済や新羅などを破り、臣民とした。百済とは七支刀を送り同盟関係が出来てた。

そこで好太王は、396年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。
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(1): 02/18(日)20:41 AAS
この過程を表したのが例の、倭王武の上表文。

478年,中国南朝の宋に倭王武(雄略天皇)が送った上表文。
「宋書」倭国伝にみえる。武は上表で、東は毛人(えみし)55国を、
西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一、

さらに海北の朝鮮半島南部95国を平定したと誇示したうえで、
475年に百済(くだら)の21代蓋鹵(がいろ)王を殺した高句麗に対抗するため、

「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、
安東大将軍、倭国王」の称号を求めた。
が、すでに宋に朝貢している百済を除いた称号は認められた。
20: 02/18(日)20:41 AAS
七支刀。
日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが
記述されているが、この七支刀献上に関して、
日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ
「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。

紀年論によるとこの年が372年にあたり、
年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。
銘文の冒頭には「泰□四年」の文字が確認でき、「泰」は「太」と音通するため。
東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、吉田晶、浜田耕策ら)。
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