5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (761レス)
1-

413: 04/30(火)16:44 AAS
なると
414
(1): 04/30(火)22:15 AAS
ハプログループO (Y染色体)「M175」。ハプログループNOの子型。
 ↓
ハプログループO1 (Y染色体)。 O2・O-M122 主に漢族型の兄弟。
「F265/M1354, CTS2866, F75/M1297, F429/M1415, F465/M1422」
 ↓
ハプログループO1b。 O1a・O-M119 台湾型と兄弟。
「M268, L463, F167/L690, P31」の変異で定義づけられる系統である。
 ↓ 発生時期、上限は33,181〜31,108(95% CI 22,844-34,893)年前分岐。
 ↓
ハプログループO1b2・O-M176 (P49)。 O1b1・O-F2320 長江型の兄弟。
省4
415: 05/01(水)00:04 AAS
かスクリプト対策
416: 05/01(水)03:43 AAS
dスクリプト対策
417: 05/01(水)18:20 AAS
柱ははしら
418: 05/01(水)23:53 AAS
>>414
が全て満たされる場所は長江周辺しかあり得ない
その中からDNA上3代目子孫がO1b2a1a (F1204,F3356,K10)が日本列島へ
当時、黄海、東シナ海、は陸地化してて湿地帯だったんだろう。
419: 05/06(月)01:46 AAS
魏志馬韓伝、にある国々で下の8か国はすでに卑弥呼時代(3世紀)には、
邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。

これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を(卑離)と記録者が省略化したのだと思う。
卑離(ヒリ)国
占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる)
監奚卑離(カンケイヒリ)国
内卑離(ダイヒリ)国
辟卑離(ヘキヒリ)国
牟盧卑離(ボウロヒリ)国
如来卑離(ジョライヒリ)国
省1
420
(2): 05/06(月)01:47 AAS
ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、

3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国の国境を守備する軍事的長の名称。
後に地名、駅名、神社名等に残る。
またヒナモリの「モリ (守) 肥後守ひごのかみ」などカバネとしても使われた。

邪馬台国時代の軍事的長。
『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、
および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。

これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、
外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えらる。
421: 05/06(月)01:48 AAS
4世紀は高句麗によって楽浪郡を滅ぼされ(313年)中原の支配から解放され
伯済國は百済へと斯盧國は新羅へと纏まって建国して行ったんだろう。

南部の倭人地域は混乱したが卑奴母離(ヒナモリ)などの
一定の軍事力は保持してただろうが、北部から高句麗勢の軍事力をバックに

南下政策をとった過程で倭国の勢力地域も侵され高句麗、百済、新羅、倭国の
四ツ巴、戦闘状態の天地が引っくり返る様な状態な時
422: 05/06(月)01:50 AAS
そこで、登場したのが「神功皇后」で息長氏の先祖が新羅王アメノヒボコ。
おいっ、待てよ、新羅は我が先祖の領地だぞよと、
昔の三韓の領地を還せと、返還しないなら征伐だと、その過程が例の下の好太王碑文。

百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。
ところが、倭が辛卯の年(391年)以来、海をこえて襲来し、
百済や新羅などを破り、臣民とした。百済とは七支刀を送り同盟関係が出来てた。

そこで好太王は、396年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。
423: 05/06(月)01:51 AAS
この過程を表したのが例の、倭王武の上表文。

478年,中国南朝の宋に倭王武(雄略天皇)が送った上表文。
「宋書」倭国伝にみえる。武は上表で、東は毛人(えみし)55国を、
西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一、

さらに海北の朝鮮半島南部95国を平定したと誇示したうえで、
475年に百済(くだら)の21代蓋鹵(がいろ)王を殺した高句麗に対抗するため、

「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、
安東大将軍、倭国王」の称号を求めた。
が、すでに宋に朝貢している百済を除いた称号は認められた。
424: 05/06(月)01:52 AAS
七支刀。
日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが
記述されているが、この七支刀献上に関して、
日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ
「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。

紀年論によるとこの年が372年にあたり、
年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。
銘文の冒頭には「泰□四年」の文字が確認でき、「泰」は「太」と音通するため。
東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、吉田晶、浜田耕策ら)。
425: 05/06(月)01:54 AAS
>謎の4世紀とは、こんなもんか??
邪馬台国の女王卑弥呼が(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年)ころ亡くなって
倭国騒動で女王豊トヨが共立され、
時期は10代崇神〜11代垂仁天皇(伊支馬イクメ・イリヒコ)(260年頃から〜)

(310年頃から?)
4世紀、この頃、高句麗と楽浪郡との攻防で半島は大混乱期
倭国は卑弥呼時代からの九州熊襲討伐、12代景行、ヤマトタケルで奮戦中。
西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一を目指し中。

(360年頃かな?)
そして14代天皇仲哀天皇9年2月の崩御、遺志を継ぎ、
省3
426: 警備員[Lv.11][苗] 05/10(金)03:41 AAS
てす
427: ネトウヨボクメツ隊! 05/11(土)19:28 AAS
日本神話は印欧神話と偶然とはいえないレベルの類似点を示すことが分かっている
これが意味するところは日琉民族の神々の起源が大陸にあったという事である

ネトウヨは縄文文明などというが、実は日本人の神概念は縄文由来ではなく印欧系民族やウラル系民族との接触で培われたものなのである。
実は日琉のアイデンティティは遼河文明の偏堡文化人→韓半島の無文土器文化人→日本列島の弥生人→ヤマト王権の倭人→現代の日琉人という流れで繋がっているのである

日本人は縄文の精神文化を受け継いでいるのはアイヌの方々であると素直に認めなければならない
428
(1): 05/25(土)13:00 AAS
魏志倭人伝に記載されている「ヒナモリ(夷守)」って、実は対馬国、一支国、奴国、不弥国以外にもいた可能性があるんだって! 教科書には載ってないから、私もつい最近知ったんだけど、各地に「ヒナモリ」って地名が残ってる場所があるんだよ。例えば、宮崎県小林市や新潟県妙高市、上越市、岐阜市茜部本郷なんかがそうらしい。

もしかしたら、ヒナモリって単にひとつの場所じゃなくて、辺境を守る砦みたいな役割を担った場所の総称だったのかも? まだまだ謎が多いんだけど、古代日本の歴史って奥深いよね!いつかもっと詳しく調べてみたいな。
429
(2): 05/25(土)16:06 AAS
ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、
3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国、ヤマト王権の国境を守備する軍事的長の名称。

後に地名、駅名、神社名等に残る。
またヒナモリの「モリ (守)」はカバネとしても使われた[1]。
「肥後の守 ひごのかみ」「越前の守 えちぜんのかみ」などの「守 かみ」など。
魏志倭人伝の卑奴母離は、奈良時代以後の夷守(ヒナモリ)と同じ言葉と見られる。

[1] 歴史学の大家、太田亮『日本上代における社会組織の研究』1921年の中で。
430
(1): 06/04(火)14:00 AAS
AA省
431: 06/04(火)14:13 AAS
>>429
おいおいWiki記事を丸写し転載して
一体何を伝えたいんだよ?
432
(1): 06/04(火)21:50 AAS
>>428
>各地に「ヒナモリ」って地名が残ってる場所があるんだよ。例えば、
>宮崎県小林市や新潟県妙高市、上越市、岐阜市茜部本郷・・・・・
倭人とは言語・習俗など文化の異なる(敵対するかもしれぬ)種族の日本列島の盤踞地との
境界地に置かれた守備・監視施設の名残りなのだろうか?
小林市は対熊襲・隼人族、妙高市・上越市>>1はAD640年代にヤマト王権が設けた「沼垂柵」同様に
北の対蝦夷と推測できるが濃尾平野只中の岐阜市付近に棲息していた異種族って何族なのだろう?
古代のある時期まで東隣の尾張西部or北隣の美濃北部にも蝦夷が盤踞していたのか?
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