【阿曇・住吉・宗像】海人族 Part.8.1 (469レス)
上下前次1-新
370: 2024/09/20(金)21:23 AAS
>>360 >>342 > >298
海神(わたつみ)の豊旗雲>>298?
海神(わたつみ)の・綿津見(わたつみ)のは「豊旗雲」でなく
「深き心」・「そこ」にかかる枕詞ではないのか?
371: 2024/09/21(土)14:58 AAS
>>369
豊玉姫・玉依姫のうち豊玉姫が「日本人の母」?
【古代史ミステリー】日本人のルーツは「九州にいた海の民」だった? “日本人の母”とは何者なのか ★3
2chスレ:newsplus
372(2): 2024/09/23(月)22:09 AAS
> 吉武高木遺跡では、弥生時代,前期末(紀元前400年〜)頃より
「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を持った 王 が現れる。
吉武高木遺跡 | 文化財情報検索 | 福岡市の文化財
h□□画像リンク[jpg]:bunkazai.city.fukuoka.lg.jp
1984年度調査で弥生時代前期末〜中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より
銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した
早良平野にある、吉武高木遺跡は弥生時代前期の遺跡で,「三種の神器」を
イメージさせる鏡・玉・剣を副葬した「最古の王墓」(3号木棺墓)など,
数々の重要な発見がありました。遺跡群内には同様に多数の副葬品を有する
前期末〜中期後半(紀元前400年〜(歴博)放射性炭素年代測定による)
省4
373(1): 2024/09/23(月)22:10 AAS
>>372
h□□外部リンク:bunkazai.city.fukuoka.lg.jp
374: 2024/09/27(金)08:47 AAS
>>372 >>373
吉武高木遺跡>>344の検索結果を長々と転載されておられるがスレタイ「海人族」と
吉武高木遺跡との連関記事部分の転載は何故に省かれたのか?
> 吉武高木遺跡では、弥生時代,前期末(紀元前400年〜)頃より
「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を持った 王 が現れる。
上記>以降記事が上段に見当たらないのだが?アンカには引用レス番号を是非付記してもらえないか?
375: 2024/09/28(土)00:35 AAS
>>368
鮑や栄螺の潜水漁が得手だった恐らく中国大陸南部を源郷とする海洋民が
住み着いた日本列島各地には串○○という名の岬が多い?
376(1): 2024/09/29(日)01:17 AAS
日本神話に最初に登場する綿津見神は、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。
神産みの段で伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)・伊邪那美命(伊弉冉尊・いざなみ)
二神の間に生まれた。
伊邪那岐命が黄泉から帰って禊をした時に、三神が生まれ、
この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。
この時、住吉三神(住吉大神)も一緒に生まれている。
神名から海の主宰神と考えられているが、『記紀』においては伊邪那岐命は後に生まれた
三貴子の一柱須佐之男命(素戔嗚尊・すさのお)に海を治めるよう命じている。
377(1): 2024/09/29(日)01:24 AAS
山幸彦と海幸彦の段では、火照命または火須勢理命(海幸彦)の釣針をなくして困っていた
ニニギの子である火遠理命(山幸彦)が、塩土老翁の助言に従って綿津見大神(豊玉彦)
のもとを訪れ、綿津見大神の娘である豊玉毘売と結婚している。
二神の間の子である鵜葺草葺不合命は豊玉毘売の妹である玉依毘売に育てられ、
後に結婚して若御毛沼命(神倭伊波礼琵古命・かむやまといわれひこ)らを産んでいる。
378: 2024/10/03(木)15:46 AAS
>>376
>海の主宰神と考えられているが、『記紀』においては伊邪那岐命は後に生まれた
>三貴子の一柱須佐之男命(素戔嗚尊・すさのお)に海を治めるよう命じて・・・・
海の主宰神綿津見神と須佐之男命が異名同一神というのは『記』『紀』どちらの書の掲載説なの?
海の主宰神というのは海に対するどういう役目を担う神なの?
379: 2024/10/08(火)22:48 AAS
>>377
>塩土老翁の助言に従って綿津見大神(豊玉彦)
>のもとを訪れ、綿津見大神の娘である豊玉毘売と結婚・・・・
綿津見・豊玉姫親子が棲んでいた竜宮は実際は海底でなく
どの辺りにあったとの説なの?
380: 2024/10/08(火)23:13 AAS
北宋第五皇帝の英宗の詔によって司馬光が編纂した資治通鑑には、
「周の元王三年(紀元前 473 年)に越が呉を滅ぼしたので、
その支庶が海に逃れて倭となった」と書かれている。
ウィキペディアによれば、資治通鑑が成立したのは1068年であるが、
その内容は正史に記載されていない野史や家伝、瑣説などの 322 種にのぼる
豊富な資料に基づいて記載されていて、その資料価値は高く評価されている。
また、魏略によれば、倭人は呉の太伯の後裔を自称していた。
従って、紀元前 470 年頃に倭人が渡ってきたことによって
弥生時代が始まったと考えられる。
381: 2024/10/08(火)23:24 AAS
倭人も中国南部の長江の近くに居住していたと考えられる。
また、魚豢が編纂した魏略には、
「その(倭人の)過去の話を聞くと、自ら太伯の後と言う」と書かれている。
太伯は周の古公壇父の長男であるが、弟の季歴に周王を譲って、蛮地に呉を興した。
呉は現在の江蘇省辺りにあった。従って、日本列島の倭人は江蘇省辺りから
遷ってきたことになる。
さらに、1976年、安徽省亳県の元宝坑村1号墳から発見された磚に
「有倭人以時盟否(倭人、時を以て盟することありやなしや)」とある。
安徽省は江蘇省に隣接し、清朝が分割するまでは江蘇省の一部であった。
382: 2024/10/08(火)23:32 AAS
倭人は後漢書鮮卑伝にも登場し、檀石槐という英雄が食料の不足を補うために、
網で魚を捕らえるのが上手いと評判の倭人国を撃ち、
千余家を捕らえて秦水のほとりに移し、魚を捕らえさせて食糧の助けとしたと記される。
この倭人国は、魏志鮮卑伝では汗国となっている。
春秋時代に、現在の江蘇省淮安市に邗という諸侯国があり、呉によって滅ぼされた。
呉王は邗江に城を築き、長江と淮河を結ぶ運河(邗溝)を掘った。
このため、干(カン)は呉の別名となり、呉越は干越とも表現される。
つまり、檀石槐が撃った倭人国は江蘇省にあったのである。
このように、全ての資料は、倭人は江蘇省にいたことを示す。
また、後漢書鮮卑伝には倭人国と記されていることが注目される。
省1
383: 2024/10/08(火)23:34 AAS
一方、紀元前4世紀〜3世紀に成立した山海経には、
「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」と記されている。
燕は戦国七雄の一つで、河北省北部、現在の北京を中心とし、
最盛期には朝鮮半島をも支配した。中国大陸には燕の南に斉があったことから、
蓋国は朝鮮半島にあったものと推察される。
従って、倭は朝鮮半島の南部にいたことになる。
また、後漢書東夷伝韓の条(後漢書韓伝)と魏志東夷伝韓の条(魏志韓伝)は、
ともに倭は朝鮮半島の南部に居住していると記している。
このように、資料上では倭人は江蘇省のみに、倭は朝鮮半島にのみ認められる。
384(3): 2024/10/11(金)16:21 AAS
倭人ってね、現在でいう水運・海運業を生業とする集団で
合間に食料確保のために漁労や農作業もする家族単位で船上生活してたんだろな
昔、広島地域にいた家船(えぶね)の住民みたいなイメージかな。
元々倭人たちは長江あたりで荷運びや時には海兵として暮らしてたんだろ
そして遭難や敗残兵時には沖へ沖へと流され、朝鮮南部や九州北部にたどりついた
西風と対馬海流とで自然と対馬海峡へと流れ着く、そう言った状態が何千年と続いたとさ。
385(1): 2024/10/13(日)20:30 AAS
江戸時代、
アリューシャン列島には何組もの日本人船員などが漂着してた記録があるな。
386: 2024/10/14(月)05:09 AAS
外部リンク:ja.everybodywiki.com
Twitterでデマを流す不正受給ナマポ
歴史についてのデマもひどい
論破ツッコミdisり頼む
またコイツは輸入薬をTwitterで売買
役所に通報済み
387: 2024/10/15(火)03:11 AAS
>>384
>倭人ってね、現在でいう水運・海運業を生業とする集団で
>合間に食料確保のために漁労や農作業もする家族単位で船上生活・・・・
合間でなく普段は漁業・農業に従事して合間に水運業・商業ではないのか?
船上生活の根拠は何?
388: 2024/10/16(水)17:08 AAS
縄文時代前期ころの東アジアで玦状耳飾り、管玉、赤漆塗り櫛、宝貝など
アクセサリー品が広範囲に流通してて、縄文人にも交易商人が居たと思うぞ。
沖縄から東北まで行き来があるんだから、黄海、東シナ海など楽勝だろな。
389: 2024/10/16(水)17:12 AAS
中国南部には水上生活者「蛋民」と云われる人達がいて
日本人は無類の「生卵」好き、船上でも人間の残飯で鶏は飼える。
生魚が好きなど「蛋民」と共通する。
「蛋」とは
?たまご。鳥のたまご。「蛋白」 類 卵
?中国南方の海岸に住む種族。えびす。 類 蜑(タン)
?あま(海人)。漁夫。
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