[過去ログ] 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参拾 (1002レス)
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518: 2024/06/07(金)20:59 AAS
自郡より女王国に至る万二千里(約5000km、魏里435m計算)
九州説、阿波説 → 短里説(1里73m)
畿内説 → 観念的数字説、呉を牽制、過大表記説
常陸説 → 魏里説(距離、方角、日数、正確表記)
519: 2024/06/11(火)00:33 AAS
邪馬台国は安房!
520: 2024/06/13(木)05:15 AAS
漢代の印持ってる奴国に行く前に
別の貢ぎ物してきた倭国王スイショウが
末羅国の何代か前の王だとしたら
そっちに先に寄って話したのかもしれない
末羅国って女王国でもないし
伊都国、奴国、不弥国は貿易船でもない舟は
ナワバリに入ってきたら沈めるって
壱岐対馬に通達してそう
521: [age] 2024/06/13(木)05:28 AAS
>>516
帯方郡は沿海州から西域まで移動可能だなw
522: 2024/06/13(木)13:01 AAS
>箸墓古墳についての記録。どうも箸墓は前方後円墳じゃなく「円形墳墓」だった。
「卑弥呼以って死す。冢つかを大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人」
<魏>一歩(六尺)1.447m。径百余歩とは、諸説ありますが約150m位だろうと。
ちなみに、箸墓古墳、後円部は直径 約150メートルです。
「令義解」 833年(天長10年)に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」
河村秀根の『書紀集解』(1785年)には、
嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。相伝曰箸墓。
嘗(かつ)テ大和国于(に)至リ、柳本村ヲ経、箸中村ヲ過グ。道ノ右ニ円形之丘有リ。
相ヒ伝ヘテ曰ク箸墓ト。長樹無ク、荊楚(両字ともイバラ)ノ林ヲ成ス耳ノミ)
江戸時代の画・文、いずれにも箸墓が「円形」として描かれている。
省3
523(2): 2024/06/13(木)13:16 AAS
卑弥呼の葬儀で「 徇葬者奴婢百餘人 」を、「殉死者奴婢 100余人」と
読み替える人々に驚く。そんなことをするわけが無いでしょ、と卑弥呼の怒りを感じる。
魏志倭人伝の、『 徇葬する者、奴婢百余人 』「徇葬」の解釈が、
ネット上では「 殉死者100余人 」ばかり、原文では「殉死」など何処にも書いて無い。
「徇葬」とは「 葬儀を付き添い行う (参列者) 100余人 」が見当たらない。
524: 2024/06/13(木)13:23 AAS
「徇葬」と「殉葬」の混同が見受けられます。
「徇葬」は、王の死後、民衆に喪服を着せ、哭声を上げさせた古代中国の習慣です。
一方、「殉葬」は、王侯貴族の死後、生きたまま臣下や妻妾を陪葬する残酷な風習です。
525: 2024/06/13(木)13:29 AAS
>そう陳寿は「徇葬」でも殺人を伴うものは「殺人徇葬」と
批判気味にハッキリ書いてある。本来の「徇葬」に殺人、殉死は無いのだと。
陳寿「三国志」東夷伝扶余伝の「殺人徇葬」用例を根拠として。
殺人徇葬多者百数 厚葬有槨無棺
「人を殺して徇葬するが、多いものは百の数である。
手厚く葬り、槨はあるが棺はない。」
『三国志』の東夷伝扶余の項に見える、「徇葬者百名」の記事です。
陳寿は「扶余の大人の葬儀では百人もの人を殺して徇葬者としている」と、
国王ではないが、大人〈たいじん〉の葬儀では依然として殉死を命じて
「徇葬」とごまかしていると報告しているのです。
526: 2024/06/13(木)13:31 AAS
だから陳寿が倭人伝では「 徇葬する者、奴婢百余人」
と殺人を伴なわないから「殺人徇葬」とは書かず普通の「徇葬」と書いた。
「徇」は、付き添い進むことをいい、殉死の「殺された」という意味はない。
?徇える(とな−える)
?徇う(したが−う)。ついていく。
?めぐる。ひと回りする。
527: 2024/06/13(木)14:33 AAS
「中国河南省安陽市の安陽殷墟」
紀元前1600年〜紀元前1046年まで続いた殷王朝では、
身分の高い主人の葬儀の際に使用人が切腹したり、
生き埋めになることを自ら志願する風習が一般的にありました。
ペンシルベニア州立大学(PSU・米)の先行研究によると、殷王朝では、
大規模で組織的な人身御供が政治的・宗教的に重要な見世物として機能していたという。
殷の遺跡から出土した甲骨文には、
特に人間の生け贄に関する文字を含むものがとても多いです。
また、これらの遺跡から多数の生け贄のための墓が発見されていることも、
この記録を裏付けています。
528: 2024/06/13(木)14:35 AAS
秦の穆公39年(紀元前621年)、薨去。この時に家臣177名が殉死した。
主立った家臣たちが数多く殉死したことにより、秦の国力は大きく低下し、
一時期、表舞台から遠ざかることとなる。
『詩経』・国風の秦風にある「黄鳥」の詩は子車奄息(えんそく)・子車仲行
・子車鍼虎(かんこ)の三兄弟が穆公のため殉死させられたことを謡ったという。
529: 2024/06/13(木)16:01 AAS
古典での「殉葬」例文。「殉葬」とは殉死を伴う葬儀。
孟子に対する趙岐の古注 。。謂秦穆公以三良殉葬
周朝秘史 。。驅良殉葬心何忍
呉書第十、陳武伝 。。權命以其愛妾殉葬
530: 2024/06/13(木)16:13 AAS
殉葬の跡が出現期の古墳等に見えないとして、
倭人伝の記事そのものを否定する学者もいるが、これは全く疑問な文献取扱いである。
例えば、白石太一郎氏は、卑弥呼冢の形状の文章に続いて、殉葬の記事があるが、
「最近の考古学的な調査・研究の進展の結果からも、
三世紀中葉にあたる弥生時代終末期から古墳出現期に、
殉葬が広範に行われていたという積極的な証拠はほとんど発見されていない」
531: 2024/06/13(木)16:29 AAS
つまり殉葬100人は嘘
また同様の表現である径100歩、銅鏡100枚も嘘である可能性が爆上げ
532: [age] 2024/06/13(木)16:42 AAS
徇葬百人は倭人から聞いた話。
なにか勘違いする説明があったかも?
平原で参列者の高位の女給が
墓に入って泣いて鏡を割ったとか?
533: 2024/06/13(木)16:43 AAS
>意味は全く違うんだけどな。「殉葬」は生き埋め、殺人、を含む。
『三国志』の倭人伝原文「徇葬」を「殉葬・殉死」と改竄した翻訳・執筆者。
『小南一郎氏は、「奴婢百人以上が殉葬された」と書いている」
『石原道博氏は、「殉死する者は奴婢百余人」
『藤堂明保氏は、「殉葬した男女の奴隷は、百余人であった」
534: 2024/06/13(木)17:12 AAS
今はもう卑弥呼の墓=殉死百余人が定説になってるからな
535(1): 2024/06/13(木)17:16 AAS
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
省7
536: 2024/06/13(木)17:46 AAS
>>535
寂しいのか?w
537: 2024/06/13(木)17:58 AAS
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