[過去ログ] 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参拾 (1002レス)
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700: 06/29(土)11:08 AAS
弥生後期、三世紀後半までの遺跡・遺物において、北九州地方の圧倒的な存在感は否めません。近畿地方、特に奈良県とは比較にならないほど充実しているのです。奈良県で有名な弥生遺跡といえば「唐古鍵遺跡」や「坪井・大福遺跡」くらいでしょうか。しかし、内容もやや物足りないと感じてしまいます。

私は中学生の頃から地元奈良県の遺跡に触れてきました。同時に、九州各地の遺跡巡りも重ねてきた経験があります。その経験から、奈良と北九州を比較するたびに、邪馬台国は北部九州にあったと確信を深めています。
701: 06/29(土)11:20 AAS
弥生後期、三世紀後半までの遺跡・遺物において、全国に類を見ない特異遺跡が乱立する「阿波」の圧倒的な存在感は否めません。   @阿波
702: 06/29(土)11:40 AAS
最近は、三世紀中葉ないし中葉すぎに碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い近畿の寒村大和の地が、
『魏志』倭人伝にいう「邪馬台国」ではないと考える考古学的研究者が圧倒的に多くなっている。   @阿波
703
(1): 06/29(土)11:44 AAS
日本建国は武則天のおかげだという気がする
唐に混乱がなければ日本はなかったろう
おそらく日本の恩人であり
リスペクトして作ったのが神功皇后であり
推古天皇であり持統天皇では?
704
(1): [age] 06/29(土)12:29 AAS
>>698
張政 
倭人船の寄港地名間と徒歩の里程
循海岸水行と渡海 の使い分け
至と到の使い分け
戸数は有で記録
伊都から百里の奴国不彌国は国境まで
見えた隣国の記録の可能性が高い。
行程合計は10500里

梯儁
省15
705: 06/29(土)13:12 AAS
>>703
則天武后の天武と天武天皇の天武、同じ時代に隣国のトップの名前がどちらも天武とついているのは偶然でしょうか?
706: 06/29(土)16:04 AAS
何故か結構似てるよねー
朝鮮の文武王なんて文武天皇と同じ
蘇我善徳と善徳女王とか
神武天皇と天武天皇を同一視したくなるくらい
名前似てるし
707
(1): 06/29(土)16:49 AAS
>>704
あなたは其で分けたのですね。
レスありがとう
708
(1): [age] 06/29(土)19:00 AAS
>>707
其、ですけど・・・
倭人伝を正しく読む為には

漢文一般で、之や此や其
指示代名詞が、何を指すか?
主語の術後が なにか?
文節段落の存在を見落とさないこと。
動詞があれば主語の存在が必要な事。

陳寿が魏時二回の報告書の引用と言う
筆法を使用している事を理解すれば、
省5
709: 06/29(土)19:58 AAS
倭人伝は、卑弥呼共立前夜の180年頃から、臺与朝貢/張政帰国の265年頃まで、
約80年くらいの、倭国の歴史をかいつまんで述べている。
楽浪郡、帯方郡の木簡の記録がベースにあったことは疑いない。
710: 06/29(土)20:05 AAS
>>708
こんな場末までAI荒らしかよ。
711: 06/30(日)07:12 AAS
tomuさんのブログ 倭人伝の伊都国 2011/06

「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」。唐津市から「東南」の方向は、
松浦川に沿った国道203号線、佐賀市に抜ける唐津線が通るルートしかない。

唐津市から松浦川沿いに約25キロメートル程度で厳木(きゅうらぎ)町に着く。
松浦川沿いの道はピッタリである。
厳木町から200メートルの峠を登り、峠を下った所が多久市、
そこから10キロメートルで、小城市に入る。(以下略)
712
(2): 06/30(日)07:31 AAS
ブログ 理系脳でひも解く日本の古代史 2021/02

まずは中田勉氏の『日本古代史を科学する』です。
邪馬台国への道を辿る通説は、実際の地図の上では末蘆国から東北東へ進んで伊都国、
そこからほぼ東に進んで奴国、不弥国となるので、『魏志倭人伝』が記す方角とはかなり異なります。

これに対し中田氏は、『魏志倭人伝』の記述通り、末蘆国から東南に進んで伊都国、
そこから東南で奴国、そこから東に進んだ場所を不弥国としています。

具体的には、伊都国は唐津街道沿いの多久付近、奴国は小城付近、不弥国は佐賀市付近ということになり、いずれも佐賀平野にあったというのです。
713: 06/30(日)07:37 AAS
>>712
>伊都国は唐津街道沿いの多久付近、奴国は小城付近、不弥国は佐賀市付近ということになり

裏付けとなる集落遺跡群が無く、単に、地図上で配置しただけ。   @阿波
714: 06/30(日)08:02 AAS
>>712
まだそんなスタート地点で迷ってるのですか?
正解おいておきますね。

2chスレ:archeology
715
(1): 06/30(日)08:04 AAS
ブログ カクヨム

 というわけで魏朝御一行様は、唐津湾末廬国に上陸し、陸路、松浦川や厳木きゅうらぎ川伝いを通過。
そして多久市、小城市を経て、有明海に面する佐賀平野伊都国に到達したのです。
まず間違いなく、それが真実です。

当地の研究者達は、「肥前国府……つまり長崎自動車道佐賀大和IC付近こそが、
弥生時代における吉野ヶ里遺跡以上の拠点ではないか」 と考えているそうです。
716: 06/30(日)08:06 AAS
>>715
裏付けとなる集落遺跡群が無く、単に、地図上で配置しただけ。   @阿波
717
(1): 06/30(日)08:18 AAS
沖縄の民俗方位は風向きに従って時計回りで45度ほどズレているという
九州北部の民俗方位の基準は夏至の日の出か風向きか
どちらにしても反時計回りに45度ほど傾いていると思われる
それで対馬の南に一支がある謎が解ける
718: 06/30(日)08:28 AAS
>>717
沖縄でも主に夏に移動したからだろうね。
719
(1): 06/30(日)10:09 AAS
そもそもの出発点で方角を間違うと、
台湾でも、フィリピンでも、ジャワにでも行ってしまう。
人生大事にしなくてはならぬ、常に原点に立ち戻って、方角・道里を確認せよ
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