富雄丸山古墳にまつわる10の謎 (332レス)
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28: 06/08(土)19:27 AAS
めまぐるしい王朝交代の嵐
29
(2): 06/08(土)19:40 AAS
>>26
河内王朝の人々が暮らしていた遺跡はどれ?
30
(1): 06/08(土)19:51 AAS
>>29
詳しくは無いけど陵墓の大半が河内にあり難波高津宮が造られその後飛鳥と入れ替わったりしている

この理由を推察するに、そもそも大和は瀬戸内航路を使った交易を念頭に東国との関係性を深めるために建設され、そのために必要な難波、河内の水運土木が必要だった時代の遺物だと推察される
これが北陸航路側の交易路を推す人々との軋轢を生んだ結果、その干渉地である生駒一帯(矢田丘陵近辺)において緊張関係がもたらされたことは想像できるね
31
(1): 06/08(土)19:57 AAS
>>30
だから陵墓だけだと、被征服人民が国力低下のために巨大陵墓を作らされた可能性があるのよ

栄えていたのなら、
栄えていた人々が暮らしていた遺跡が伴う筈だろ?

それはどの遺跡?
32
(1): 06/08(土)20:23 AAS
>>31
どの遺跡?ってw
栄えていたはずだというあなたの推論になぜ私が答えないといけないのか
自分で調べて持論を展開したら?
33
(1): 06/08(土)20:40 AAS
>>32
はあ?

河内王朝が存在したという推論の根拠を示す責任があるのはそちらでしょ?
34
(1): 06/08(土)21:12 AAS
>>33
何が気に入らんか知らんが
詳しくは無いと言っている
面倒だからもう絡まないでおくれ
35: 06/09(日)10:37 AAS
盾型銅鏡と蛇行剣
単純に考えると、呪術的に最も攻撃的な蛇行剣と呪術的に最も防御力の高い盾型銅鏡をあえてワンオフで制作
恐らく形式的祭祀とは別に送り出した者が独自に発案し作らせた可能性が高い

鉄剣、銅鏡の製作技術集団はヤマト王権で管理されていたはずなので、造り出しの割竹形木棺の被葬者は間違いなくヤマト王権内の関係者だろう

配置の角度的に、この富雄丸山古墳中央の主葬者から造り出しの人物を守護するような意図を感じる
36
(1): 06/09(日)22:46 AAS
日本最大の円墳だってことを最近知った
37
(1): 06/09(日)23:48 AAS
⑥その他出土品について
盾と言えば桜井巻向の茅原大墓古墳が思い浮かぶ
ほぼ同時期の4世紀末頃築造で帆立貝式古墳であり形状が類似しており比較検討の意義があるだろう

この古墳で特筆されるのは最初期の盾持ち埴輪の存在
盾の線刻円筒埴輪が出土している富雄丸山古墳同様、ここでも盾関連の埴輪が多量に出土している
同時代であり地理的に離れているこの2つの古墳は技術者集団を管理する一族が違うような印象があり、比較すると一種の素材別技術を競っているような、または祭祀のあり方を模索しているような印象がある

このように考えると埴輪の起源とも言える垂仁天皇の殉葬禁止令が関係しているような気がしている
38
(1): 06/10(月)21:11 AAS
祭祀用の銅剣とか七支刀とか柄が着いてない(着けない)イメージだけど蛇行剣は着いてるよね
振るつもりだったのかな?
39: 06/10(月)22:33 AAS
>>38
鞘まで残ってたらしいですから驚きですよね
卑弥呼の時代から100年しか経ってないのにこのクオリティは凄い
有名な古刀の刀匠がレプリカを作るらしいですが製作方法に頭を捻ってる模様
そらそうだ
40: 06/11(火)21:24 AAS
長髄彦言いたいのは解るけど時代が違いすぎて解釈捻じ曲げないと無理か
それともここに真実へのヒントがあるのか
41
(1): 06/13(木)13:49 AAS
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
もうすぐ終了です
42: 06/13(木)14:09 AAS
>>41
コスパ良いな
43
(1): 06/15(土)11:18 AAS
長髄彦が倒されても、一族郎党皆殺しにされたわけではなく
一定の勢力を保った可能性はあるよね

大化の改新後も蘇我氏がずっと残って
初期の藤原氏は蘇我氏との婚姻で箔をつけたみたいな感じで
44
(1): 06/15(土)11:41 AAS
忍熊皇子関連の可能性もある
日本武尊の孫であり王朝関係者なのに誉田御子に滅ぼされた
彼は剱皇子と呼ばれたがなぜそう呼ばれたかは謎だったらしい
蛇行剣がそれだとしたら
45: 06/15(土)18:03 AAS
忍熊皇子は磯城王朝最後の御子富雄丸山古墳は支配地の押熊、佐紀古墳群方角を見下ろす立地
それに忍熊皇子は確定した陵墓が無く社に墓のみ
それに逆賊扱いだから前方後円墳を許されなかったという理由も存在しているね
盛大な祭祀を禁止されたため供物は豪華に、と言ったところか

あと5世紀の応神朝から見られる甲冑類が出土しないところもピンポイントに合致する
木棺の被葬者は五十狭茅宿禰かその縁者もしれないな
46
(1): 06/15(土)21:45 AAS
>>43
登美って後裔氏族が不明なのに地元民はやたらと長髄彦を語りたがるんだよな
あれ不思議
47: 06/16(日)01:12 AAS
面白い
忍熊皇子として考えてみよう

①大王系譜ながら逆賊のため円墳とされた。時代的に最大級のため立場に相応しいと言える

②忍熊皇子は4世紀後半の人物であり合致

③忍熊皇子本人が主葬者。造り出し埋葬は妻または腹心の家来。この古墳を築造出来る程度に支配地に影響力が残っていたと想定される

④九州征伐(熊襲征伐)の祖父ヤマトタケル記念の剱を製作し納めた可能性あり「剱の御子」別名の由来?
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