【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
上下前次1-新
280: 10/09(水)22:59 AAS
鹿児島の高麗町出身の大久保利通が朝鮮征伐に反対した理由…祖先が朝鮮征伐で連れてこられた捕虜だからでは。
西郷隆盛も朝鮮征伐というよりは使節を送って解決したかった。
明治六年に朝鮮派遣が中止された。金銭的な理由か国際的な理由か、しかし、明治七年に台湾出兵はできるという矛盾。
張り切って出兵した西郷の弟は、朝鮮征伐は暴論と言い反対者の一人。
281: 10/09(水)22:59 AAS
//toyokeizai.net/articles/-/244522?page=4
西郷が太政大臣・三条実美に送った「朝鮮国御交際決定始末書」という意見書には、次のような内容が記されている。
「かの国(朝鮮)はわが国に対してしばしば無礼な行いをして、通商もうまくいかず、釜山に住む日本人も圧迫を受けています。とはいえ、こちらから兵士を派遣するのはよくありません。まずは一国を代表する使節を送るのが妥当だと思います。暴挙の可能性があるからといって、戦いの準備をして使節を送るのは礼儀に反します。そのため、わが国はあくまで友好親善に徹する必要がありますが、もしかの国が暴挙に及ぶのであれば、そのときはかの国の非道を訴え、罪に問うべきではないでしょうか」
282: 10/10(木)15:39 AAS
p192 学習参考
(1)挿絵解説
「岩倉大使ら欧米に派遣される」の絵は聖徳記念絵画館書題考証図五姓田芳卿筆によったもの。明治四年十月十二日岩倉大使一行五十四人が横浜を出る時の光景である。太平洋汽船会社の飛脚船アメリカ丸は国旗を掲げて海中で待っている。一行をのせたランチはアメリカ丸めざしてこいでいる。この日は駐日米公使デロングが同乗帰国するので、出港に際しては岩倉大使に対する十九発、米公使に対する十五発の祝砲を発したのである。
「天皇は京浜鉄道開業式に臨幸しなさる」絵は東京市史稿中にある英人シンドレー筆の絵画の写真によったもの。明治五年九月十二日京浜鉄道開通式を挙げられ、天皇は横浜停車場にて勅語があり、新橋停車場に還幸遊ばされた時の光景である。停車場前には大アーチが建てられ、御車寄の上には、今も鉄道で用いる工の字の旗が立っている。官吏が烏帽子直衣の服装で供奉しているのも、拝観者の中には結髪に大小を帯刀しているのも、よく当時の光景を表している。
蒸気力の応用として機関車の作成に成功したのは、英国人ジョージ・スチーブンソンで、これは西紀一八一四年のこと、汽車が初めて運転したのはリバプールとマンチェスター間で、それは一八三〇年のこと。日本ではじめて鉄道が開通したのはこれに遅れること四十二年、すなわち明治五年である。京浜間約十八哩の全通であったが、明治の末期に至れば全国の延長六千哩に垂れ下がろうとするまで発達した。
この図では当時における上下の努力と歓喜に想到し、学習者に新日本発展の喜びを共にさせなければならない。
※哩=マイル>>274も「京浜間約十八里開通以来」を十八哩(マイル)に訂正
283: ブログ転載 10/10(木)15:39 AAS
p194
(2)指導要領
この教材などは、古老に聞くと、よくその当時のことが分かり、学習の趣味を増し、確認感情を持たせることができる。
事物環境の他、読み物その他の形式環境を使う時は、委曲に当時のことを追想させることが可能である。
ここでは「明治新政府が外国と交際して我が国の発展をはかったのであるが、その態度はよかったかよくなかったか」ということを中心の問題として学習を進めるのがよい。
分けて考えれば、当時の外交はどうであったか、当時の社会ないし文化の行き方はどうであったのか、批判的学習をすればよいのである。
この教材では大体西洋文化の輸入ということと、そこに新旧思想の衝突があったことが強く響く。こうして明治の歴史は明治十年頃までは旧習一洗、明治二十年頃までは西洋心酔、二十七、八年頃までは国粋保存、三十七、八年頃までは国民自覚、末年までは道徳退廃、それ以後の建設ということになって、結局は西洋文明を自家薬籠中のものとして、やがて日本独自の文明をもって世界に貢献しようとするのである。この道程を歩き始めているのがこの教材であることに注意する。
こうして外来文化を摂取して自国文化をいかに建設するのが、もっとも適当なことかを展望させねばならない。従って現在ならびに将来を常に考慮に入れて学習させる。
この発展過程のモーテウィションとなる関係人物についても短評を加えていく。
284: ブログ転載 10/10(木)19:23 AAS
大政奉還を提唱した一人。中野方蔵。
江藤新平のWikipedia
「安政5年(1858年)に京都に遊学していた同藩の副島種臣が公家・大原重徳に王政復古を建言し、万延元年(1860年)に大橋訥庵の塾と江戸の昌平黌で学ぶ中野方蔵が江藤と大木に手紙で大政奉還を唱える等、幕末の尊王攘夷運動が活発となり文久2年(1862年)1月に坂下門事件で中野が獄中死すると、同年6月27日に同志の大木喬任が脱藩の旅費を工面し、京都へ脱藩[7]。長州藩邸で桂小五郎(後の木戸孝允)を訪ね、姉小路公知らの知遇を得た。」
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
285: ブログ転載 10/10(木)19:45 AAS
p195 第四十八 立憲政体の確立
学習目的
明治天皇はあまねく人材を挙げ、世論をとる大方針を御誓文に示しなさり、以来内治が整うにつれて、一般の政治思想も次第に進んだので、帝国憲法・皇室典範は発布され、帝国議会も開かれて短日月の間に立憲政体の擁立を見るに至った次第をわからせ、政治的発展を中心として学習をする。
学習事項
(一)公議世論の採用
省5
286: ブログ転載 10/10(木)19:47 AAS
p196
こうして明治元年各藩から徴士・貢士を召して公議所の議員に任じ、明治二年二月十四日太政官を東京に移し、公議所を開き、各藩から公議人を出させ、時務を論じる者は公議所に建言させ、万機ここで議定することとし、三月七日以後毎月二・七の日をもって会された。
明治二年三月十二日には待詔局を置き、草莽に至るまで建言することができるようになった。
同年七月には公議所を廃止し集議院を設け、待詔局を待詔院とし集議院に合併した。
しかしアメリカ・フランスなどの民権思想、例えば明治五年にその初篇を出した福沢諭吉の「学問のすすめ」の巻頭に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言った通り、それらの思想がだんだん社会に広まるに及び、征韓論に破れて野に下った四参議すなわち副島・後藤・板垣・江藤らは愛国公党を組織し、明治七年一月十八日四氏の他に由利公正・小室信夫・岡本健三郎・古沢滋の八人が連署して、民選議院を設けて天下の公議をつくすつもりのことを建白した。
ところが宮内省出仕の加藤弘之は国民の政治思想はいまだ進まないのをもって、時なお早しとしてこれに反対し、外国の例をひいて建議の本文を批評し、まず府県内に小議院を設けて、効果があるかないかを試してみるがよいと論じた。福地源一郎(櫻痴)末松謙澄の徒も匿名をもってなお早論を唱え、これよりしばらくの間は、可否の論は喧囂を極めたものである。
287: ブログ転載 10/10(木)19:51 AAS
※都督府=近衛師団の前身
※巡察使=地方監察官
※貢士=明治維新当初、諸藩主の推挙により藩論を代表して公議に参与した議事官
288: ブログ転載 10/10(木)20:23 AAS
※難去者は去りがたい者?
289: ブログ転載 10/10(木)22:20 AAS
p197(二)いっぱんの政治思想進む
民選議院設立の建白書は採用するに至らなかったけれども、漸次その方向に展開していったことは事実である。
すなわち明治八年四月十四日には立憲政体を立てるという詔が出た。
朕は今誓文の意を拡充し、ここに元老院を設け立法の源を広め、大審員を置き審判の権をかたくし、また地方官を召集してもって民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、なんじ多くの一般人と共にその慶びに頼ろうと欲する。なんじ多くの一般人はある者は旧にとどこおり、ゆえに慣れることなく、またある者は進むのに軽く、行うのに急なことはなく、そのよく朕の旨を心にとどめて守り翼賛するところあれ。
これには立法・司法・行政の三権分立を述べ、立憲政体という言葉が出ている。元老院はいわば一院制度の議院という観のものであった。これは国会開設まで続いたものである。
こうして明治八年には第一回地方官会議を東京に開いてこれを公開し、また、明治九年には天皇が元老院議長有栖川宮熾仁親王を宮中に召されて次のような詔を下された。
朕はここに建国の体に基づき広く海外各国の成法を斟酌し、もって国憲を定めようとする。なんじらはほどよくこれの草案を起草し聞かせよ。朕は後に選ぶとしよう。
省4
290: ブログ転載 10/10(木)22:20 AAS
明治十二年には東京府会が初めて開かれたが、千葉県などは明治六年から開かれていた。府県会は民間から選べる議院に命じて府県の経費を相談させたのである。こうして次第に立憲の政体を立てるつもりのことを期したが、西南の役後は、政府と意見を異にした者も、もっぱら言論によって、その主張を貫こうとし、各地に政談演説会を開いて世論を喚起し、またしきりに新聞・雑誌で時事を論じて気勢を高めたが、板垣退助は十一年九月から十三年三月まで、四回大阪で会議を開き、ついに八万七千人が連署して国会開設の請願を出し、十三年十一月東京に会してまた同様の請願をするに至った。
291: ブログ転載 10/11(金)12:16 AAS
p199(三)議会開設の勅を下しなさる
こうしていっぱんの政治思想が進んだことにより、国会開設の準備は次第に急がれた。
すなわち明治十三年十二月元老院は憲法草案を仕上げて天皇に奉呈した。しかしこれは多少英国流になり過ぎているというので、伊藤博文が極力排斥したので物にならなかった。
また十四年十月十一日には勅を下して、来る二十三年を期して国会を開くべき旨を宣言しなさった。今その勅を抄録しておく。
漸次基をはじめ、ついでにしたがって歩を進めるという道に由来しないことはない。
なんじ国民よまた朕の心をまこととしよう。
まさに明治二十三年を期し、議員を召し国会を開きそれによって朕の初志を実行しようとする。
これによって民論ははじめて定まり、板垣退助は明治十四年十月二十九日自由党を組織し、その盟約を次のように発表した。
第一章 わが党は自由を拡充し権利を保全し幸福を増進し社会の改良を図らなければならない。
第二章 わが党は善美な立憲政体を確立することに尽力しなければならない。
省9
292: [age] 10/11(金)19:09 AAS
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2chスレ:newsplus
293: ブログ転載 10/11(金)20:10 AAS
AA省
294: ブログ転載 10/11(金)22:18 AAS
p202(五)地方自治の制度が備わる
中央の官制はすでに定まったので、政府は地方共同の利益をすすめて、国民の幸福を増すつもりのために、二十一年四月市町村制を発布して二十二年四月から実施された。すなわち人口二万五千以上の都会を市として郡より独立させ、市町村を自治体とし、公選された議院により市町村会を組織して部内の予算を議させ、公選された市町村長これが行政に当たった。ただし東京・大阪・京都は特別取扱いとして市長の職は知事、助役の職は書記官これに当たることになっていたが三十九年九月改正された。
また廃藩置県以来、府県の分合はたびたび行われ、二十二年今の三府四十三県となり、二十三年府県制・郡制が発布され、府県も郡も自治体となった。ただし郡長や府県知事は公選ではなくて官吏ということになった。
こうして地方自治の制度がだんだん備わって来た。
(六)帝国憲法発布さる
明治十六年八月帰朝した伊藤は金子堅太郎・井上毅・伊東己代治を秘書として十七年三月から憲法の起草にかかり、十九年・二十年は専心これに従事した。根本の方針は日本の国体・歴史を基礎とし、実際の運用は欧米の学理実際から適当なものをとるということで、金子は主として衆議院議員選挙法と貴族院令、井上は主として憲法と皇室典範、伊東は主として議院法を起草し、互いに意見を交えて起草することとした。この間民間からもいろいろな注文があり、伊東も大分困ったが、しかし伊東は一生の御奉公と考えて猛進した。
この憲法草案が天皇に奉呈されたのは明治二十一年の春であった。ここにおいて二十一年四月二十八日枢密院が設けられ、伊藤博文は議長となり、大木喬任・川村純義・福岡孝悌・佐々木高行・寺島宗則・副島種臣・佐野常民・東久世通禧・吉井友実・品川弥二郎・勝安芳・河野敏謙ら顧問官となり、明治天皇の親臨を仰ぎ、二十年の五月八日から十二月十七日まで、憲法会議をつづけてだんだん成案を得た。天皇は暑さも寒さも少しも御厭いなく終始御励精になったことは一同が全く恐懼
したところであった。
295: 10/12(土)06:45 AAS
p203
明治二十二年二月十一日の紀元節の良い日柄をもって、いよいよ大日本帝国憲法は発布された。式場は新皇居(明治六年炎上後の新造営)の宮中正殿に設けられ、式場の装飾、内外使臣の参列、華麗にして荘厳、午前八時三十分陛下には古代の御服を召されて賢所に祭り、皇霊に告げなさって後、午前十時大元師の御軍服をお召しになられ、皇后陛下は錦地洋風の礼服をお召しなさり、侍従は剣璽・玉璽を捧げ、君が代奏楽中に正殿に臨み、王座におつきになり、すぐに三條内大臣が恭しく憲法発布の勅語を奉ると、天皇は玉音朗らかにこれをよみなさる。
勅が終わると伊藤枢密院議長は帝国憲法を捧げる。内閣総理大臣黒田清隆は次に御前に進み、御台の上に上ること一段、天皇は御自ら憲法を授けなさると、ひざまずいてこれを拝受した。この時百一発の祝砲が殿外にとどろき、演奏者は再び君が代を奏し、余韻が殿外に響く間に陛下は入御しなさった。
大日本帝国憲法というのは七章七十六条からなり、国家統治の根本的大法で、万世一系の天皇が帝国を統べなさることを明記し、わが国家の組織、帝国臣民の権利・義務の大綱を定めたもの、他国にあっては、多くは国民が君主に迫って、血によってその発布を見たものであるが、我が国においてはこれと異なり、天皇がひたすら国家の繁栄と臣民の幸福とを進めようとの大御心から、親しく聖断をもって定めなさったいわゆる欽定憲法であって、国民はその内容も知らず、ただ天皇を信じ奉ることだけがあって、発布に先だって御恩沢にうるおうのを楽しみ、上下歓呼の内に発布を見たものである。
何でも発布の前日から都会田舎いたるところ祝意を表す催しは、広大壮麗を極め、発布の翌日は東京府民の願いを受け容れ、両陛下は上野公園に臨行、府民にあまねく風輦>>223を拝させなさる。歓声は市中に溢れ、万歳の声が湧く通りであった。
296: 10/12(土)07:34 AAS
p204(七)皇室典範制定される
憲法と同時に制定されたものには、皇室典範がある。また議院法、衆議院議員選挙法、会計法、貴族院令などがある。皇室典範は「皇位継承」「践祚即位」「成年・立后・皇太子」「敬称」「摂政」「太伝」「皇族」「世伝御料」「皇室経費」「皇族訴訟及び懲戒」「皇族会議」「補則」の十二章・六十二条からなり、皇室に関する根本的な大法である。これの制定はわが建国以来の遺制に基づき、これを成文化されたもので、国家は磐石の固いを加えたものである。
(八)帝国議会開かる
帝国憲法の第三章には帝国議会のことが規定されている。この規定によって明治二十三年七月一日衆議院議員総選挙が施行された。その結果は次のようであった。
大同派……五五
愛国派……三五
自由派……十七
改進党……四六
九州改進……二一
中立派……六七
省7
297: ブログ転載 10/12(土)11:20 AAS
p206 学習参考
(1)挿絵解説
「憲法発布の大典を挙げなさる」絵は東京市史稿所蔵のものによったのである。明治二十二年二月十一日新営の宮中正殿において、皇族・外国の使臣・文武の大官などを召されて、空前絶後の大典である憲法発布の御式を挙げさせなさった午前十時の儀式光景である。枢密院議長伊藤博文は帝国憲法を捧げ、天皇は親しくこれを内閣総理大臣黒田清隆に授けられる。玉座の左右には内大臣・宮内大臣が控え、前方には内閣の諸大臣が一列に並んでいる。皇后陛下も女官を率いて出御されている。まことに輝かしい発展の光景である。
「東京宮城」は御造営の際宮内省が調製した鳥瞰図による。図中右方の門は坂下門で、これから入って右に進めば宮内省である。図の右方に西洋造りが見えるのは、宮内省で、そこから高廊下があって宮城に通じている。坂を上って東御車寄、その西の東西に長い御殿は豊明殿で、その西に少し南に張り出して見えるのは千種の間、豊明殿・千種の間の東西に二殿あり、東は東溜の間、西は西溜の間である。豊明殿の南御庭を隔てて宮中正殿があり、その南御庭を隔てて南御車寄があり、その南方に二重橋が見える。この橋とならんで東の方に石の眼鏡橋がある。これはもと西の丸大手橋といって木の橋であった。
遥か向こうに宮中三殿が見え、中央は賢所で、東は神殿で西は皇霊殿、三殿の西は神嘉殿である。
重大な儀式例えば践祚式、軍旗授与式が行われるのは宮中正殿で、憲法発布式もここで行われた。この図によって表御殿だけは大体わかるが、奥御殿はわからない。奥御殿は両陛下の御常御殿である。
(2)指導要領
当時アメリカやフランスの思想を取り込んだにしても、よく日本化して、我が国独自の国体・政治を建設していったところを発見させ、先人の態度を味あわせたい。
また外国の国体と我が国の国体とを比較しておくべきところである。
今日の立憲政治と照応して取り扱うべく、従って今日の政治現象を環境として、学習させるがよい。同時に将来の立憲政体を展望させるのである。
省1
298: ブログ転載 10/12(土)21:03 AAS
p208
第四十九 文化の発達
学習目的
維新以来の経済界・宗教界・教育界・芸術界の進歩発展の次第をわからせ、洋風輸入と国粋保存の関係的変遷につき会得させ、日本独自文化の建設について暗示を与えるのである。
学習事項
省4
299: ブログ転載 10/12(土)21:22 AAS
p209
維新のはじめ国費が不足をつげたので、明治元年四月十九日、太政官札(金札)というものを官札発行と称して、全国に布告し、明治元年四月から二年五月までの間に四千八百万両、さらに明治二年九月十七日に小貨幣の欠乏を補うべく民部省札なるものを発行してこれを明治三年十月までに七百五十万両を発行した。
紙幣の濫発は紙幣の価を下落させ、物価が騰貴することは当然であった。ここにおいて政府は明治四年に新貨幣法を制定し、大阪造幣局鋳造の新貨幣を流通させて、金札を新貨幣と交換することとし、金札の流通を円滑にさせた。このとき鋳造の貨幣は金貨本位で一円・五円・十円・二十円の金貨と、銀貨銅貨の補助貨幣であった。ところが当時東洋貿易では、メキシコ銀貨が通用していたので、これと等大の一円銀をつくり、はじめは開港場のみ通用を許したが、明治十一年五月から一般に通用を許したから、ここで我が国は金銀複本位制となり、明治三十年三月二十九日公布された貨幣法によって金貨本位となったのである。
太政官札が、明治四年の新貨幣鋳造によって流通円滑、信用もようやく増加しかけた場合に、再び流通を困難にさせる事件が起こった。それは贋造がしきりに行われたことである。当時太政官札の贋造は内地ばかりでなく、支那においても行われた。そのためにまた信用を損じて流通を困難にさせたから、政府は明治四年十二月の布告をもって、九種(百円・五十円・十円・五円・二円・一円・半円・二十銭・十銭)の新紙幣をドイツに託して製造発行してこれと交換した。こうして政府の紙幣は一種に統一されたのであるが、その性質はいよいよ不換紙幣となってしまった。
そのうちに西南役の軍費に充てるために、新紙幣二千七百万円を発行したために、明治十二年には新紙幣の発行総高は一億二千万円に達し、この時からますます貨幣価値の下落、物価の?ミ上をきたして、経済界は不安に陥ったから、明治十五年六月二十七日太政官布告をもって日本銀行条例を公布し、兌換銀行券発行の権を与え、明治十八年五月、日本銀行がはじめて兌換銀行券を発行した。これより漸次発行額を増やし、従来の紙幣の兌換を行わせた。こうして経済界は大いに安定することになった。
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