【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
上下前次1-新
352: ブログ転載 2024/10/18(金)18:01 AAS
p238(四)清国と和を結ぶ
清国政府は連戦連敗、大いに恐れて米国政府に頼って、講話の議を開くつもりのことを求め、李鴻章を我が国に遣わして和を請わせた。我が国は内閣総理大臣伊藤博文・外務大臣陸奥宗光に命じて三月二十日から下関春帆樓上で会見し談判を始めた。
二十四日一凶漢が李鴻章を狙撃して軽傷を負わせたので、明治天皇は深く御心を悩ませなさり、特別に待医を御派遣になり、皇后もまた親製の包帯をお与えになった。天皇の命令により無条件で三十日間の休戦定約が成り、翌月一日談判に移ったが、議は容易に決せず、この時かねてから征清大総督に拝されなさった陸軍大将小松宮参謀長彰仁親王が、総督府を金州に進めなさるつもりのため三十以上の運送船に兵士を満載して宇品を出発して四月十四日下関海峡を通過された。これを見て李鴻章は大いに怖れ、ついに十五日に至って我が国の提案を許諾し、十七日これに調印した。これが下関条約で、十一ヶ条から成っている。その主なことは次の三点である。
(1)清国が朝鮮の独立を確認すること。
(2)遼東半島・台湾全島とその属島澎湖島を日本に割譲すること。
(3)庫平(ターピン)銀二億両(およそ三億円)を日本に支払うこと。
こうして東洋の平和は再び回復を見たのであった。
(五)戦役の結果
省2
353: 2024/10/18(金)18:03 AAS
上海といえば阿片王と言われ東洋のロスチャイルドとも異名を持つフリーメーソン東洋幹部デビット・サッスーンの本拠地
354: ブログ転載 2024/10/18(金)18:06 AAS
p239
開戦と共に、我が国から欧米諸国に連絡をした。するとイギリス・ドイツ・イタリー・アメリカ・オランダ・スペイン・ポルトガル・デンマルク・スウェーデン・ノルウェーは局外中立を声明し、ロシア・フランス・オーストリアは公然と中立を布告しなけれども、事実上これを守る意思であると返事をしたのであった。
今や我が国は清国と戦って大勝したので、諸外国の予想を裏切ることはおびただしいものがあった。
(2)遼東半島の還付
明治二十八年四月十七日下関条約が調印されると、その二十三日には、露・独・仏の三国政府は、各東京駐在の公使に命じて遼東半島の還付を勧告した。
この三国が干渉した原動力はロシアの南下政策にあることは言うまでもない。彼は朝鮮に至るまでも野心を抱いていたのであるから、今日本の勢力が朝鮮に確立し、遼東半島を日本が領有することになって東洋平和が成り立てば、ロシアの野心は完全に水泡に帰すわけであったから、彼はフランスと同盟していたのを幸いに、これと謀り、またしきりに支那に勢力を拡張する野心を持っていたドイツをも誘い、ついに三国干渉の挙に出たのである。
三国公使は形式上別々に我が国に勧告書を送ってきたのであるが、その説くところは全く同一の主旨で、文面の表では友誼上の好意的勧告ということであるが、事実上から見れば完全に威嚇したものであった。例えば「貴国は弱く我が国は強い、もし戦を交えるに至るなら貴国は必ず敗(やぶ)れるだろう」というような文句もあった。これは外務省の注意によって削除したと伝えられており、また例えばロシアはウラジオに陸兵を駐屯させ、海上からは太平洋艦隊をもって我が国に驚異を与えていた。
これは無論我が国の屈辱ではあったが、当時の形勢上、怨みを呑んで、三国の提議を受け容れ、五月五日をもって遼東半島を還付し、五月八日批准交換を終え、十日には明治天皇が義憤に燃える国民に対して次のような詔を下しなさった。
355: 2024/10/18(金)20:58 AAS
Googleの創業者の一人ユダヤ人のラリーペイジが創△学会員というWikipediaが削除されていたので探していたらトランプの親父も創△学会員だった。
外部リンク:ja.m.wikipedia.org創△学会USA
↑上のサイトのアーカイブ
外部リンク:web.archive.org
「フレッド・トランプ ドナルド・トランプの父親で事業家。池田大作の教えにより人種差別的な考えをやめ、資金支援と広告活動の協力を申し入れた。そしてまた、自身も創△学会USAの会員となったことで知られる[要出典]。」
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
356: ブログ転載 2024/10/18(金)21:58 AAS
p241
さらに事件の発端を起こし、政局を悪く言い、治平の回復を遅滞させ、もって民政の疾苦を醸し、国運の進展をはばむことは、真に我が意ではない。
今において大局に顧み、度量大きく、もって事を処するとしても、帝国の光栄と威厳とには毀損する所があるのを見ない。
百僚臣庶、それらはよく朕の意を体現し、深く時勢の局を見て、些細なことでも慎重に行い、切り殺すことを諌め、邦家の大計を誤ることがないのを期せよ。
一語一語は慈父母の赤子におけるかのように、ただ恐懼の他はない。この時から我が国の臥薪嘗胆の外交時代がはじまるのであった。
(3)台湾の経営 以前に我が国の海軍が威海衛を陥落させ、次いで伊東司令官は支那南部の制海権を得ようとし、陸海混成支隊の比志島大佐を率いて、二十八年三月二十六日澎湖島を占領したが、いくばくもなく休戦の約束となり、講和が成立して、台湾全島及び澎湖島が我が国の所有に帰したので、我が国は海軍大将樺山資紀を台湾総督に任じて進発させたが、この時台湾では台湾巡撫唐景?ッ以下、割譲を憤慨される者は甚だ多く。景?ッを台湾民主総統に推して独立国であると称し、景?ッはもっぱら北部の防備に任じ、軍部総統劉永福は南部の防備につとめていたので、近衛師団長北白川宮能久親王が台湾征伐の命令を奉じられたので、樺山は親王の軍と琉球において合併し、共に進んで五月二十九日台湾三貂景角に上陸、六月三日基隆を占領して景?ッを厦門に追い、台北を収めてここに総督府を置いた。
我が軍はさらに南進、台南の劉永福の本拠をつこうとするや、台湾総督陸軍中将高島鞆之助は台湾の南端から上陸して台南を挟撃した。永福は密かに厦門へ逃れ去ったので、十月二十二日我が軍は台南に入った。ここにおいて台湾全島ことごとく平定し、完全に我が国の統治の下に置かれる事となったのである。親王はここの疫病を得て、左右は切に帰国保養を勧告したが聞き入れないで、軍を進められ十月二十八日台南において薨じなさった。
台湾はこの時から次第に皇化に俗し、産業も興って、文化もだんだん開いて行き、三十一年陸軍中将児玉源太郎が台湾総督となり、後藤新平がその下で民政長官となってもっぱら力を島民の懐柔に尽くし、治績は大に挙がり、土匪の乱もほとんど一掃され、財政のようなものもほとんど独立して、次第に国庫の補助を減じるに至った。
357: ブログ転載 2024/10/19(土)09:25 AAS
p242(4)韓国の成立 我が国と朝鮮とは明治二十七年八月二十六日攻守同盟を結んだことは前に述べた。その十月、内務大臣井上馨が特命全権公使として京城に駐在するに及び、施政綱領二十条を定め、諸般の改革を行わせ、朴永孝・徐光範などを内閣に入れ、邦人は多く各省の顧問となった。
こうして戦争は日本が勝ったので、朝鮮における我が国の勢力も強かったが、実はこの間に明治十八年以来露国公使ウェバーが、排日派の閔氏と通じて折りもあらば朴永孝らを倒そうと陰謀を巡らせていたのであるが、井上馨はそれとも知らず三浦梧楼と交代した。
時に我が国には三国干渉のことがあって、遼東を清国に還付するや、閔妃などはだんだん我が国を軽視していた。二十八年七月井上公使が帰朝の途につくや、閔氏一派はただちに韓帝を擁して内閣を更迭し、朴永孝は我が国に亡命した。しかも閔氏一派の陰謀はますます進むばかりであったから、親日党はこれに先んじて事をあげようとし、三浦公使を誘い、十月八日大院君を擁して訓練兵第二大隊を率い、王宮に闖入し、王妃を殺してしまった。ここにおいて我が国は、政務局長小村寿太郎を京城に派遣して善後策を講じさせ、三浦公使を免職させ、以下四十七人を罪し、井上馨を特派大使として韓廷を慰問させた。しかしこの事があってから朝鮮人が我が国を怨む者も多く、列国はまた我が国を批難し、我が国の朝鮮における威信はにわかに失堕する有り様となり、ロシアが朝鮮の内政に干渉する端を拓いた。
二十九年二月十一日、国王は閔妃の残党に擁されて露国公使館に向かい、ここに政府をおくという状態になった。日露間の葛藤はこの時から次第に深刻な度を加えるのである。
ウェバーはこの時から国王を擁して辣腕をふるい、各種の利権も得た。しかし我が国は露国と衝突することはもとより欲しなかった。折しも露帝ニコラス二世の戴冠式がモスクワで挙げられたので、山縣有朋が特派大使となってこれに列し、次いで外務大臣ロバノフと協商し、京城においても議定するところをあるようにさせた。これが第一次日露協商で、国王の還宮・大臣の進退・日露の出兵は互いに公文書を書いて出して通知することなどが定まった。
358: ブログ転載 2024/10/19(土)16:40 AAS
しかしこれによって露国は、我が国と共に朝鮮の財政及び政治の助力勧告者となった。我が国は明治初年以来多大な犠牲を供して手に入れた所のものを、彼は座して容易に収めることができたのである。すでに明治三十年朝鮮国王は露国公使館を出て、王宮に還る。次いで元号を改めて光武とし、国号を大韓と改め、国王はさらに皇帝の位につきなさる。ここにおいてか独立国たるの体面を整えるに至った。
しかしこの時から次第に日露戦争に導かれることも記憶しなければならない。
学習参考
(1)挿絵解説
「広島大本営において日夜軍務を統べなさる」絵は聖徳記念絵画館書題考証図五姓田芳柳筆によったもの。明治二十七年九月十五日から二十八年四月二十七日まで大本営とされた第五師団司令部階上の六間に四間の一室におかせになられて、明治天皇が、冬の寒夜軍務にいそしみなさる図である。前にいるのは参謀次長川上操六で、側にいるのは岡沢侍従武官長である。ちなみにこの御室は御座所であり、御謁見所であり御寝所でもあった。この御址は、今も親しく拝観することができるのであるから、いかに御質素不自由のうちに御奨励遊ばせたかを想像することができる。
359: ブログ転載 2024/10/19(土)16:44 AAS
p244(2)指導要領
我が国と朝鮮及び清国との関係が教材となっているのであるから、こんな時に、清国史、朝鮮史の概念を与え、我が国と比較させておいた方がよい。
この史実は程近いことであるから、実際の体験談も聞けないことはないし、戦利品や奉公碑や従軍記章や勲章など各種の学習環境も整理しやすいであろう。
朝鮮や支那との関係は、常に現在及び将来のことを心において取り扱わなければならない。歴史はあくまで現在的なものだという人もいる。
例えば特に朝鮮は、日本の心臓を狙う短剣のように突出しているだけに、常に我が国につきまとって彼の国我が国共に幸福ではなかったことを悟らせ、今日の状態を肯定させねばならない。
支那の政策にはよく信をおけないことがある。これも今日と照応させ、彼らを矯正するのが我らの任務であることを会得させる。
ロシアの侵略策も批評しなければならない。
この間に立って我が国が難局を打開して雄々しく発展する、その事実と精神を力説する。
こうして国家と国際との一元生活、総合的文化発展の必要と戦争の不可避について考察させ、現在及び将来の覚悟を定めさせる。
地図などは要るが、教科書挿入の地図などは何にもならない。このくらいの地図ならば要れる必要もなかろう。要れるならば、二十七、八年戦局地図をやや詳しくしてその他をかき入れておいた方がよい。指導者はさらに他の地図を見せたり、かかせたりすることが必要であり、また絵画とか時表とかの形式環境も準備しなければならない。特に時表を作製させると、この教材などは、はっきりするであろう。
省1
360: 2024/10/19(土)16:47 AAS
>>269
『肥後藩国事資料第六』を図書館で借りてきたからしばらく脱線して荘村の手紙を転載したい。
361(1): 2024/10/20(日)11:20 AAS
荘村助右衛門(省三)の主な手紙
六巻に載っているものだけ転載予定
文久3年5月2日
本藩「肥後藩・熊本藩」荘村助右衛門・庄林曽太郎等、家老小笠原備前「長洪」を訪ひ、大砲鋳造の為め、増田弥曽六其属工を率ゐて下藩すべきことを語る。
元治元年3月23日
本藩「肥後藩・熊本藩」庄村助右衛門・河瀬典次等、勝麟太郎「海舟・義邦・安芳、軍艦奉行並」を長崎の旅館に訪ひ、横井平四郎「時存・小楠、肥後藩士・熊本藩士」託する所の海軍問答書を贈る
慶応元年5月2日
在長崎荘村助右衛門「肥後藩士・熊本藩士」、英人グラバを訪ひ、薩藩英国留学生の消息を得たり。
慶応元年5月3日
米人宇利也牟斯「ウリヤムンス」、将軍進発につき援兵を英仏に借らんとするの議ある由を荘村助右衛門「肥後藩士・熊本藩士」に告ぐ。
省6
362: 2024/10/20(日)11:20 AAS
慶応2年6月11日
在長崎荘村助右衛門「肥後藩士・熊本藩士」、英国公使パークスの行動に関するフルベツキ「宣教師」の談話を奉行道家角左衛門「同藩士」に報告す。
慶応2年8月3日
在長崎荘村助右衛門「肥後藩士・熊本藩士」は、閣老小笠原長行「老中・唐津藩世子」の動静、諸藩兵の小倉撤退及本藩「肥後藩・熊本藩」の銃器弾薬購入等に関する報告をなす。
慶応2年8月6日
在長崎荘村助右衛門「肥後藩士・熊本藩士」は、幕府軍艦の集合、閣老小笠原長行「壱岐守・唐津藩世子」の長崎退去、小倉戦争当時幕府軍艦逡巡の状況等を奉行田中八郎兵衛「肥後藩士・熊本藩士」等に報告す。
慶応3年5月14日
我藩「肥後藩・熊本藩」荘村助右衛門、長崎より書を坂本彦兵衛「同藩士」に贈り、土佐藩坂本龍馬「直柔」と談合の顛末を報じ且つ其所見を陳ぶ。
明治元年閏4月21日
本藩「肥後藩・熊本藩」庄村助右衛門、京摂間に於ける内外の異聞を在藩機局吏坂本彦兵衛に詳報す。
363: 2024/10/23(水)15:50 AAS
時系列としては、1866年に家茂と孝明天皇が相次いで病死し、1867年5月に慶喜の尽力により兵庫開港と長州藩の処分が軽くなる勅許が出る。
明治天皇は元服前の14才で践祚したから明治天皇の勅許だけど、兵庫開港問題は朝議の末に慶喜が後押しした、という感じ?
364: 2024/10/23(水)17:39 AAS
孝明帝条約の批准に同意してから死んだのだった。
9月16日夷船兵庫港到着
9月23日幕府が交渉
10月7日幕府は孝明帝が条約の批准に同意したと回答
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
365(1): ブログ転載 2024/10/23(水)17:55 AAS
肥後藩国事資料六巻p308
十月二十六日、在長崎の荘村助右衛門は、越前藩士瓜生三寅が三国軍艦の摂海入津、外国条約勅許などに関し、英国船将と問答した要領を藩政府に報告す
〔元治元年から慶応元年まで 探求書、尊攘録探索書〕
荘村助右衛門の書状の写し
寸紙に記録し差し上げます。時下は次第に風霜が募りますところ、ますます御安雅になりなさるべく、御勤仕をお慶び申し上げます。ところで、越前藩の瓜生三寅は再度二、三日前に浦を出発いたしました。昨二十五日、港内碇泊の英国軍艦に参上し、船将に面会いたし承り取りました。概略は福井で申し述べ致します。書状の草稿は極密に、そしてひらき見いたしました。要用の数件を写し取り御覧に入れ申し上げます。
省5
366: ブログ転載 2024/10/23(水)18:37 AAS
>>365
常時長崎港内に来舶いたしておりましたので、に訂正
367: ブログ転載 2024/10/24(木)06:34 AAS
この度幸い英国アドミラル(官名)〔※提督〕がアジア洲中で交代いたしましたので、ついでなので龍敦政府にて評議を立て、あらかじめ長州償金三百万元の事柄は、幕府から御渡しになられます内容で御約定ゆえ、即刻御渡し方これありたく、もしただ今御弁償になられ難くありますならば、もはやこちらには願い申しませんので、その替わり一千八百六十八年(卯年霜月)正月元日、開港が実行されるはずの兵庫港を、今年から開港の御免許をいただき申したくあります。
かつ、これまで日本国中様々な擾乱が起こりました。始まりは皆公武御合体、これが無いゆえの事でございますので、この度は是非、 朝廷から条約御免許の 勅書を幕府に御受け取りになられ、その内容をあまねく天下の列藩その他山民までも御布告になり、国中一同、仲良く親しみ合いの上、互いに永く親睦を結び申したくあります。
かつまたこの度はこれまで税則が不規則の件々を改正致したくあります。
右の三ヶ条をもってアドミラール〔※提督〕が神奈川に参りましたところ、ミニストル(官名)〔※公使〕パークスは、その時函館におりましたので、早速函館に参り右の内容を申し述べましたところ、ミニストル〔※公使〕は直ちに横浜に帰り、すぐさま各国のミニストル〔※公使〕に相談が有り、幕府の官吏に掛け合いに及ばせましたところ、将軍様はじめ御老中総じて御留守中でありましたので、万事左右の返答を致し難い旨につき、すぐさま摂海に廻り幕吏と応接いたしましたところ、三百万元の償金は一度には渡し難い、先に半金を御渡しになられるつもり、兵庫の事柄は明後年の期限でありますので、その時に開き申すはずのわけでありましたので、それならば残金はいつ頃御渡しなられますかと尋ねましたところ、いつとも定め難くあります旨、かつ万事 朝廷の御聞(開イ)これがないのでは困り入ります件を告げ知らされましたので、こちらも何とも致し方ない。
それならばこちらから朝廷に奏聞いたすつもりだと申し述べ、即刻京都に連書を差し上げましたところ、朝廷から御返書の内容では、条約などの事柄に関しては 朝廷は万事御承知はなく、御免許遊ばされた覚えもこれはない。
368(1): ブログ転載 2024/10/24(木)07:08 AAS
既にそのような事柄もあるので、それならば篤と幕府に御詰問遊ばされることがよい旨につき、とりあえずあらかじめ和解がなっております条約書一冊を京都に差し出し、細かく詳しいことはこの通りの事柄でございますので、とくと御勘考の上よろしく御さし図遊ばされたくとの旨の内容を申し上げ置きました。
ところが十月七日この日に至り京都からは関白殿下一人、幕府からは松平伯耆守英が軍艦に乗船になられ、償金の事柄は来る西洋十二月第一日残さず渡し申すつもり、兵庫は千八百六十八年までは開港致し難くあります。
さてまた条約 勅許の事柄はすぐに 勅書を拝受致しますので、その写しを渡します。すなわちミニストル〔※公使〕所持の本書からすぐさま模写致します。書付に曰く。
(中略、この書付は十月七日幕府外国条約勅許の旨を達する条にあるのをもってここにこれを略す※)
かつまた税則改正の事柄の場合には、横浜幕府から相談致すつもりとの事につき、ミニストル〔※公使〕は初めて大満足、無限退帆致します事であります。
ただしこの事柄は大秘密、ことさらに幕府からは堅く沙汰を致さないようとの内容で、御訳もこれはある事なので、他人には写さないで知るように致したくありますとの事
右の内容は極密に夷人が告げ知らせますのでとりあえず申し述べ奉ります。
十月二十六日
瓜生三寅
※十月七日幕府外国条約勅許の旨を達する条
省5
369: ブログ転載 2024/10/24(木)16:33 AAS
p564
四月二十八日、在長崎の本藩士、荘村助右衛門は、天草動揺に関する事情を在国の坂本彦兵衛に報す
〔慶応二丙寅年尊攘録探索書〕
慶応二、四月二十八日、長崎発の荘村の来信、五月三日着天草の事
密啓
この度、天草島中に少々動揺のきざし、これがあります様子はそれぞれ御聴きに達します通りで、万一浮浪の輩がその間に遊説いたし、島中の人心を煽動致しますような成り行きを、申すことがよいのかも推測し難い。
またはその大元の薩長などが闊歩致します筋では、あるまじきかこの事柄をできるだけ探索いたしますよう内々で諭してございますので、この一件を坂本良馬に面会致しますならば、浮浪の輩の暴動は事情が明了にわかりますはずかと見込みましたので、このたび差し急ぎ長崎に出発致しましたところ、既に七、八日程以前に火船に乗り組み摂海へ参ります件を承り、非常に便宜を失っておりますところ、去る二十六日、僕は天草にて銃隊を稽古教導致しました。
大谷朝三(町山口)松崎蕃(宮地嶽)新井藤之助(崎津)この仲間へ途中で邂逅致しましたので、僕は旅舎へ招きこの時の事情をできるだけうかがい糺しましたところ、この仲間の申し出を左にしたためます。
鈴木任三は極密の内話が大同小異にございます。大谷曰く、我輩はしょうじき事情は心得ません。この時の三人は吉田伝三郎という仲間は島中の人物でございます。しかし近日、島中の流聞ではほとんど死に、とりわけ申さなければなりません勢いで噂され、冤罪はおるべきところなく、訴えは誠にもって遺憾果てしないのです。どのように速く救出申したく朝暮懇願に堪えません。
委細はこの時、富岡の官吏鈴木任三が一昨日長崎に出発致して、明早日に参りますので、同人にすぐにと御聴合になりますならば、必ず事情は分明に心得ておりますはずと、考えます件を告げお知らせします。
370(1): ブログ転載 2024/10/24(木)19:50 AAS
よってこの夜に入り天草の用をたし、円城寺友次郎へ参りますところ、芸妓数輩が参っており杯盤狼藉かつ来客もありましたので、いずれにしてもしばらく別室を借り受け控えており、ようやく午後八時、来客は散帰致しました。
後で面会を申し入れましたところ、早速参って対面いたしました。鈴木の極密の内話の大意は左のように。
任三は言う。この時の一件はその要点をとって御話しいたしましょう。大元の起こりは誠に僅かな事で、このような筋で成り行きましたはずの理由ではありません。
昨年肥後公子が天草島中の南海岸筋を御巡島遊ばされました時、島中の庄屋どもが御礼申し上げました事柄があり、その後、吉田伝三郎・木山為彦・藤田五一郎の仲間がしきりに天草郡はこれから後、肥後様の御支配になりますようお願い申したく、島中にて折々協議いたしましたところ、御国をおっしゃります仲間と薩州をおっしゃります者と、以前島中の議論が肥・薩の両端に分かれ混雑致します事柄、これがあります。
その趣旨は前将軍家が長州御追討官軍進発については天草島中で予定外の課金・諸懸物などおびただしく、かつ炮修築についても、大きな出金をくだしつけられました。これらは総じて島民の膏血から出ました事である。吉田・藤田の仲間の考えは、肥後の御支配を受けます日には決してこのような課金などに苦しみます事は、これはあるまじきかとの考えから起こりました。真心であって他に異心を挟みます筋ではありません。
しかし、治部右衛門の支配を離れ、今後肥後の御支配を受け申したくとの趣旨を申し立てましたのでは、どうあっても島中の政令は従来ではなく、調子の厳しさは論じ申しません。それならば島中にて協議の目的を表さないものであります。
※杯盤狼藉=酒宴で辺り一面に杯や皿が散らかっていること。
※公子=肥後候の子供
※懸物=江戸時代、口米・高懸三役・国役金・諸入用金など土地や人に課した諸費用料。
※炮??=中国語で簡易な砲台。
省1
371: ブログ転載 2024/10/25(金)17:09 AAS
そのようにありますならば、つまり、治部右衛門の一身の不行き届きと申しますものに落着致します形勢になってゆき、かつ結局は中傷はその間に行われますようこの内情も推測し難く。
いかにも同人(御郡代)は御熟知の通り、飄悍第一の気性でございますので、公領の民を使って他邦の支配を望み、あれこれ徒党を招き協議致しますのは、完全に国を売るという賊となり、満足されませんものと聞きます。
鈴木は言う。中西亀勇太は決して悪巧みのある者ではなく、無二の治部右衛門仲間でございます。郡代の為には身命をも惜しみ申しません様子を言い張り、既に小倉出張の折、天草の庄屋どもはことさらの他、嫌い避けました。兵糧方をも務め、その時二千五百両程莫大な出金なども差し出します者でございますと言う。
任三も同様に中西を引き抜きます者でございます事、永い往復も致しますけれども、余計な言葉は省き申します。中西は疑いようがない。奸佞に相違なくこれを見込み申します。中西は一途に公領の民であろう事を懇願致し、しきりに吉田という仲間を論じ、そのように勢いに激しくなります様子に噂されます事。
僕は言う。小山清四郎と申します者は、一同日田〔※大分県〕に連行されます様子にお話しをうかがいます。吉田・藤田の輩は同士でございましょうか。
鈴木は言う。完全に吉田の輩とは別事です。
旧年天草にて小寺幸兵衛へ酒宴の席で、誰とは名指し申しませんけれども、郡中にてどうあっても三、二人は天誅を加えません。それならば叶い難い人物がいます。我輩は微力につき小寺の輩の力を借りません。それならば行うのは難しいなど雑談致しますとの事。
この事柄は小寺幸兵衛は中西亀勇太に参上し、福連木御林の樫山は今回は御払いになりますようにお聞きします。これによって薩州で一山ことごとく皆買い入れます事柄は行われがたい。しかし都合に応じて残らず買い入れますことが良いかもまた、推測し難くあります。
薩州国用槍柄にいたします件で意見を述べます。
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