【日本史】GHQに焚書された書籍 (519レス)
【日本史】GHQに焚書された書籍 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/
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1: 日本@名無史さん [] 2024/09/07(土) 07:42:27.71 GHQに焚書された7000冊以上の書籍を確認できる目録。 書籍の没収は警察も手伝って行われた。 文部省社会教育局 編『連合国軍総司令部から没収を命ぜられた宣伝用刊行物総目録 : 五十音順』 文部省社会教育局[1949] 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1159482 「宣伝用刊行物の没収」とは、昭和21年3月17日付連合軍総司令部の覚え書きによって指令されたもので、その後、追加覚書は46回に及び7700以上の戦前及び戦時中の刊行物が没収を指令されている。 いま、この7700余り種の刊行物を速やかに没収するための便宜を図って、本書を編集発行した次第である。 現在本覚書の執行は、各都道府県教育委員会にお願いして、その管下の教育関係公吏員中から、「没収事務担当者」を決めて、実務に当たってもらっていることは、後出の「文部次官」通達の通りである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/1
2: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/07(土) 07:50:27.92 関連スレッド 【GHQに焚書された書籍】 https://itest.5ch.net/lavender/test/read.cgi/whis/1702385765 【シオンの議定書】 https://itest.5ch.net/lavender/test/read.cgi/whis/1693046112 『マソン結社の組織と秘密』 https://itest.5ch.net/mao/test/read.cgi/occult/1692608990/ J.トウールマンタン 著 ほか 政経書房,1939. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2387518 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/2
3: 日本@名無史さん [] 2024/09/07(土) 08:12:11.98 >>1 大松庄太郎 著『高等小学国史新指導書』下巻,東洋図書,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1447774 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/3
4: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/07(土) 08:12:33.73 目次 主題の四 「我が國近世」の學習/1 第三十三 國の統一/2 第三十四 邦人の海外發展と當時の文化/18 第三十五 江??幕府の創立/28 第三十六 外國との交通/43 第三十七 島原の亂と鎖國/55 第三十八 ??業・學問の發達 元祿時代の文藝/65 第三十九 江??幕府の中興/79 第四十 江??幕府の衰運/91 第四十一 尊王論と國學の勃興/103 第四十二 外國船の來航と海防/116 第四十三 洋學の發達と開港の始末/127 第四十四 大政奉還/143 主題の五 「我が國現代」の學習/162 第四十五 明治維新/163 第四十六 邊境の開發 隣國との修好/174 第四十七 外交の進??と社會の變遷/182 第四十八 立憲政體の確立/195 第四十九 文化の發達/208 第五十 條約の改正と法典の編纂/223 第五十一 朝鮮の事變と明治二十七八年戰役/230 第五十二 北?C事變と日英同盟/246 第五十三 明治三十七八年戰役/255 第五十四 韓國併合/271 第五十五 國運の進??/283 第五十六 明治天皇の崩御 大正天皇の即位/304 第五十七 歐洲の大戰と我が帝國の地位/313 第五十八 大正天皇の崩御 今上天皇の即位/333 第五十九 總括 國民の覺悟/343 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/4
5: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/07(土) 12:58:33.35 興味があるのが宣教師来日からなので 第三十四 邦人の海外發展と當時の文化/18 第三十六 外國との交通/43 第三十七 島原の亂と鎖國/55 のみランダムに転載 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/5
6: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/07(土) 13:02:03.54 p18 第三十四 邦人の海外発展と当時の文化 学習目的 安土桃山時代における我が国と外国との関係から、邦人の海外発展の意気と事実を知らしめ、当代における宗教・学芸・経済・芸術などの文化的発展につき認知威得をなし、生の発展に資させるのである。 学習事項 (一)キリスト教広まる 信長の頃は時代が時代なだけに、仏教界においては各宗の間に宗論はしばしば行われ、はては叡山・高野などの僧兵は乱離に乗じて武力を弄し、特に例えば一向宗・法華経は寺門の信徒が、徒党を組んで一揆となり、信長を悩ませたことは一再に止まらず、中でも例えば比叡は、近江の浅井長政、越前の朝倉義景らを助けて信長に反抗したので、信長は怒って不意にこれを襲い、火を満山に放って全て焼き払った。 これは元亀二年九月十二日の事であった。また本願寺光佐が大阪石山城に拠って以来十一年、その間しばしば信長と対抗して苦しめたので、ついにこれをうち平らげたのは天正八年の事であった。 信長は、僧侶がともすれば仏学を修めないで、かえって兵戈を学び、まま豪奢で乱行であるのを憎んだ際、たまたま天文十八年フランス・ザビエルが薩摩に来て、十九年入京、それ以来宣教師は相次いで来朝し、その中の一人でルイス・フロイスは、永禄十二年信長に謁見した。 引見してその教えを聞くと、説くところは高尚ではなく日用道徳に適切であるのを喜び、かねて仏教の抑圧に利用しようとするため、京都に南蛮寺、安土に大成寺を建て、勅許を願って自由に布教する事を許した。天正九年には安土に神学校を建設して、貴族の師弟に文学哲学を教えた。こうして安土は日本三管区の一つとなった。 三管区は肥前天草と豊後と安土である。肥前有馬にはセミナリオ(学林)豊後臼杵にはカサブロフコッサ(訓練所)豊後府内にはコレジオ(大学林)安土にはセミナリオを設けたのである。この内の豊後のコレジオが挿し絵に出ているから解説において詳述する。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/6
7: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/07(土) 13:11:22.02 >>6参考 しかし図なし 増沢淑 著『新高等小学国史插画解説』,明治図書,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1457317 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/7
8: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/07(土) 13:18:21.02 ここにおいてポルトガルスペインの宣教師が渡来して、熱心に布教したので、九州の各地はもちろん、機内では京都・大阪・伏見・堺、中国では山口・広島、南海では和歌山、東は関東から仙台・会津、北は金沢に及んで数多の信者を出すに至った。信長の頃には宣教師の数五十九、寺院数二〇〇、信徒十五万というのである。 中でも九州豊後の大友義鎭(ヨシシゲ・宗麟)、肥後の有馬晴信・肥前の大村純忠三侯のような者は、信仰のあまり遠く使いをヨーロッパに遣わすこととなった。 使いとなったのは日向の伊東の子で宗麟の遠い親戚に当たる伊藤義賢(ドン・マンショーー満所)晴信と従兄弟である千々岩清左衛門などであるが、いずれも十五六の少年であった。 一行十四人がポルトガル船イニャースリマ号に搭乗して、宣教師ソリニャーニと一緒に天正十年正月長崎を出発し、マカオ・マラッカ・ゴアを経て、アフリカの南端を回って、天正十二年八月ポルトガルのリスボンに着き、さらにスペインのマドリードに赴いて国王に謁見し、イタリアのローマに入って法王グレゴリー十三世に謁見して信書を呈し、滞在中法王が没したから次の法王セックスタス五世の即位式に臨み、その後イタリアの北方を巡って再びスペインに入り、天正十四年四月リスボンを出航、十八年六月地図・地球儀・時計などの珍奇な什器を携えて帰朝した。 この時よくこれらの少年が使節の対面を保ち、いたるところ歓迎を受けた。実にこの邦人がヨーロッパの地を踏んだ始めである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/8
9: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/07(土) 16:34:29.76 p21 (二)西洋の学芸伝わる 建築法ならびに室内装飾などにも欧風が入り込んだことは言うまでもなく、天文・地理・物理などの科学も輸入された。スペイン・ポルトガル・ラテン語も伝わって今に残るものも少なくない。これは上巻においても述べた。 現存している信者の手紙や印章や刀の鐔(つば)などにもローマを用いたのである。また、書籍の編纂や翻訳なども行われ、天草には印刷所を設け、活字で刊行するに至り、今に残るものも少なくない。文禄旧訳「伊曾保物語」など有名である。 なお宣教師らは教育を起こし、病院・保育院などを設けて慈善事業を行い、外科の術も伝わって我が国の文化を促進することが多かった。 ※文禄旧訳天草本伊曽保物語(イソップ物語) 新村出 校註『天草本伊曽保物語 : 文禄旧訳』,改造社,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1178205 (三)邦人しきりに海外へ出る 秀吉は南蛮寺の梅庵が、秀吉の大工頭の母を信者として、それを頼りに事を秀吉に申し込もうとしたのを大いに怒ったこともあり、また島津征伐の際、天正四年に長崎領主大村純忠が、隣領の龍造寺隆信と戦って敗れ、軍費に窮した結果、キリスト教宣教師に百貫文を借り、長崎付近の年貢を担保とした。 その結果、長崎付近の土地がポルトガル宣教師の手に入るとか、九州各地において宣教師が、次第に暴慢で神社仏閣を破壊し、信徒が祖先の位牌を河に流し火で焼くなど、国風に合わないことがあるのを聞いた。 キリスト教はヨーロッパでも、新教に押されて激烈となり、流血の惨事を演じたローマ正教(旧教)で、ローマ法王から解散を命じられた程危険性があったので、不快の念を抱かせたのと、外国人が人心を収めて、我が領土を奪おうとする手段ではないかと危ぶまれたので、秀吉は天正十五年六月十九日、凱旋の帰途箱崎八幡宮の社前において、突然外教禁令を発し、やがて京都の南蛮寺も破壊されて、長崎の方へ駆逐され、かつ二十日以内に宣教師は外国に退去すべきことを命令した。 しかし貿易はなおこれを奨励し、文禄元年からは、願い出る者には朱印を押した免許状を与えて外国との交通を許した。それゆえ長崎・博多・堺・京都などの商人がこれを受けて、朝鮮・支那・インド・フィリピン群島に渡航し、盛んに通商を営んだ。世にその船を御朱印船という。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/9
10: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/07(土) 17:33:49.87 (四)秀吉の雄大な計画 秀吉はすでに国内を平らげるに及び、秀吉の豪放な天性は、時代の趨勢と相まって、海外発展を策するに至り、空前の雄大な計画を抱き、朝鮮や民と交を修めるのは言うまでもなく、次いでインド・フィリピン・台湾にも及ぼそうとした。 我が元中九年(二〇五二)後亀山天皇が、後小松天皇に神器をお授けになった年に高麗が滅んだ。高麗は元寇の際に元軍を助け、財力を失った上に、我が倭冦にも沿岸を荒らされて勢いが振るわない間に、李成桂は自立して国号を朝鮮と改めたのである。 その後朝鮮は、対馬の宗氏と交流することは久しい間に及んでいたから、秀吉は天正十八年五月宗義智をつかって、「明主、好を修めれば良しと認める。もしそうではないならば、道を朝鮮に借り、大挙、明に入るのに朝鮮をつかって道案内としよう」ことを朝鮮第十五代の王李昭に告げさせた。 王李昭は大いに笑い「秀吉は取るに足りない身で明国をうかがうのは、蠡(にな・巻貝)をもって巨海を測り、蜂が亀甲に入り込むかのようだ」と言ったという。 ここにおいて秀吉は怒り、まず朝鮮を定めて、そうしてから明に入ろうと決心し、秀吉は朝鮮・大明をして我が「いろは」を用いさせるだけだと、天正二十年三月(文禄元年)京都を出発し、四月備前の名護屋に赴き、諸軍を指図し、将士は順次渡海した。 四月十二日釜山に上陸してから、僅かに三ヶ月で、ほとんど朝鮮全国を従えてしまった。 明は大いに驚き、大軍をもって朝鮮を救わせたが、これも碧蹄館において大敗した。 これにおいて文禄二年三月京城において、明が和を請わさせた。とうとう休戦を約束して、四月二十一日我が軍は京城から退いた。 それなのに明は講和の条約を履行せず、かつ、秀吉が慶長元年九月、明使を大阪城で引見して、もたらすところの国書を見ると、「封爾為日本国王」の文章がある、秀吉はその不信と無礼とを責めて、慶長二年正月から再征の軍を出して戦っているうち、慶長三年五月、秀吉は伏見にいて病にかかり、八月十八日ついに薨去した。享年六十三。 秀吉の遺令によって喪を秘し、こっそり征韓の軍を還すこととなった。前後七年にわたった外征も、ここに終わりを告げたが、修好の目的はついに達することができなかった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/10
11: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/07(土) 17:35:28.39 秀吉はまた天正十九年七月二十五日付をもってオランダ領インドに書を送り、天正十九年秋十九日付をもってフィリピン群島に書を送り、文禄二歳星集癸巳十一月初五日付をもって、台湾に書を送って、各々交通をはかったが要領を得る二至らず、一世の雄大な計画はついに成らずして終わった。秀吉の辞世で曰く、 露と落ち 露と消えぬるわが身かな なにわの事は 夢のまた夢 とある。波瀾重畳、往時を回顧して、感慨限りなかったようである。 ※茲特封爾為日本国王賜之誥命(ここに特に爾を封じて日本国王に誥命賜う)…ここに特におまえを封じて日本国王に天子が命じる言葉を賜る http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/11
12: 日本@名無史さん [] 2024/09/07(土) 20:57:17.54 p24 (五)桃山時代の芸術 秀吉の大業は不幸にも中途で終わったが、その豪壮な気象は一世を動かし、その風はおのずから当時の芸術の上にあらわれている。あるいはこの逆に、ルネッサンス的時代の趨勢が、秀吉を動かしたものかもしれない。 ともかくもこうした時代の事であるから、芸術の方面では粉飾燦爛(さんらん)・趣致壮麗・規模広大、いわば豪放華麗なものとなって、意匠斬新という事はできるが、少々通俗的傾向を持っていたとも言える。 絵画ー秀吉が大阪・伏見の二城、聚楽第など雄大な構えをつくり、諸将はまた暇を得て安慰を要求し、天下の書家が畢生の技量を発揮するようになり、書家としては狩野派に元信の孫永徳が出ている。 永徳は当代の代表的書家で、その筆は雄健をもって聞こえ、安土城にその霊筆をふるい、秀吉の聚楽・大阪城においては金壁に書いている。 従って求める者は多く、盛んに大書を作成したから、大書の妙に至っては古今独歩と言われる門下に妙手は少なくないが、山楽最もあらわれ、狩野の正伝を継承した。 山楽は近江蒲生郡の人、幼児秀吉の近待となり、ある普請場の巡視に随行した時、たずさえていた杖で、巧みに砂上に馬を書いたので、秀吉はこれを見て大いに感じ、命じて永徳に学ばせた。 のち彩色、書に長じ、聚楽第や伏見城の金殿を飾った。今日京都の寺院にはその遺作が多く残っている。長谷川等伯もこの時代の大家であり、狩野派から出て雪舟派つまり宗元書派に変じ、狩野派に対抗した。 彫刻ーこの時代には仏像彫刻に見るべきものはない。ただ方広寺の五丈八尺五寸の大仏をあげねばならぬが、これは寛文六年の震災で、今は見ることができない。 特色ある彫刻は、建築装飾としての彫刻で、西本願寺鴻の間(伏見城遺構)の牡丹に唐獅子、雲に麒麟、豊国神社唐門(伏見城遺構)の丸彫の鶴、皆当代独自の妙技をあらわす名作である。 彫刻家として有名な左甚五郎は、当代の末から江戸の初期にかけていた人、京都伏見に住んだ木工頭であったという。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/12
13: 日本@名無史さん [] 2024/09/07(土) 23:20:31.58 p25 建築ーー仏寺建築では方広寺・東寺があり、宮室建築は当代においてよく発達し、神社建築の方では権現造といって、北野神社で見るように書院造に進歩した手法と装飾を応用したものが出来、住宅建築としては書院造で例えば聚楽第それである。また城堡建築は大阪・伏見のような当代特有のものができている。 当時の遺構で有名なものは伏見城内にあった西本願寺書院鴻の間・西本願寺唐門・豊国神社唐門、聚楽第にあった西本願寺飛雲閣・大徳寺唐門があり、いずれも当代建築の模式的なものである。 この特色ある美術の時代を呼ぶと、後世伏見の地を桃山と呼ぶのにちなんで、この時代を桃山時代といっている。 秀吉の頃は伏見に伏見城があったのであるが、後この城をこわして、その後に桃樹を植えたから桃山と言うに至った。それは江戸時代中期後であろうと言われる。 学習参考 (1)挿絵解説 「豊後の洋学校」はローマ法王グレゴリオ十三世偉業聖蹟要略所載のものによったのである。豊後の府内(大分)に建てられたコレジオ(大学林)で、グレゴリオ十三世の寄付金で建てた。それは正親町天皇の天正十年である。三層の洋館でこの時代から西洋建築法も輸入されたことがわかる。 「京都西本願寺の書院」は写真によったもの。伏見城の大広間を徳川家光が移したので、間は上下二段に分かれ、上段の間は秀吉が着座するところ、下段の間は諸侯が集会するところ、上段の間の左方に上々段の玉座がついている。 またその上段の間の背後には、三間以上も大床がついていて、そこは狩野探幽の絵で飾られている。 床側には違棚もついている。天井は格天井で黒塗り、金具もついているし、格間には絵もかいてある。欄間には鴻の鳥の透し彫があって有名である。 書院は桁行百二十七尺以上、梁間九十五尺以上、単層入母屋である。この写真は上段の間の一部をとってある。 「狩野山楽の絵」は京都建仁寺の塔頭天珠院の襖絵によったもの、現物は金箔の地に極彩色でかいてある。 狩野派といえば、宗元派と倭絵の長所を取ってできたのであるが、ここに至って、その融合は独自のものとなっている事に注意せねばならぬ。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/13
14: 日本@名無史さん [] 2024/09/08(日) 00:16:06.72 (2)指導要領 「安土桃山時代の発展的な気分はどうして生じたものか。そしてどんなところへ表れているか。」このような事がこの教材の中心問題となるだろう。 発展の認識が中心となる教材だから、歴史性の豊富な教材である。 どうしてかというと歴史は「発展」の認識をおいて他にないからである。 海外発展は我が国現下の重要な問題であるから、考現的学習をするように注意せねばならない。 秀吉の対外方針によって、侵略心を養うのではなくて、愛国心を養うのである。愛国心はウブな罪なさにかえる時に正しいものである。愛国的なものは同時に国際的でなければならぬことを考察させたい。 本課は宗教のこと、学問のこと、経済のこと、芸術のことなど、多くの文化学習に触れるのであるが、よく吟味して理想はどこに置くべきかを常に考えさせなければならない。 できるだけ文化学習に適当な環境を整理することと、労作的に学習させることは特に必要である。 また前代の絵画と当代のそれと比較するとか、彫刻の比較をするとか、おおよそ比較法を多く採用するがよい。 特に前代の乱世と当代の文化的治世とを比較して、文化生活への憧憬、文化的奮闘心の養成をなすべきである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/14
15: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/08(日) 11:50:40.88 p28 第三十五 江戸幕府の創立 学習目的 家康・秀忠・家光の間において、幕府の組織が全部整うのに至る次第をしらしめ、政治的・経済的に中央集権的封建制度を現出し、太平の基を定め、美術その他文化が発達しようとする事情を学習させるのである。 学習事項 (一)家康江戸にうつる 秀吉の後を受けて、さらにその統一を固くし、太平の基を定めたのは徳川家康である。家康は小牧山の戦いにおいて信雄を助けて秀吉に対抗したことは、一面においては義気をあらわし、一面においては容易に秀吉に屈従すべき者でないことをも示している。 その戦は全局から見る時は、いずれを勝ちとしいずれを負けとすることはできないが、例えば長久手の戦いは、明らかに秀吉の武将池田信輝戦は死して、秀吉方が敗れて秀吉は容易に勝ち難いのを知っていたところへ、大阪城が危険にさらされる傾向が出てきたので、和睦してかえったが、その後といっても、決して家康を軽視することはできなかった。 従って秀吉は和睦の結果、家康の庶長子秀康を養って子とする名義をとった。 やがて天正十三年秀吉が関白となり、家康を上洛させようとしたがうなずかなかったので、佐渡日向守に嫁いでいた異父妹朝日姫を無理に引き取って、これを家康に嫁がせた。 家康はまた秀吉と争うことの不利を知っていたので、天正十四年十月大阪に至って秀吉に会見した。 家康はこの時正三位に叙せられて帰国し、その後慶長元年正月には正二位内大臣となり、天正十八年秀吉に従って小田原を征伐し、功によって、関東二百五十万石に封じられて、武蔵の江戸にうつった。この転封命令は、家康をして駿・遠・三・甲・信、特に駿・遠・三の郷里の離れがたさを感じさせると共に、前途に対して大望をも持たないではなかった。 天正十八年八月一日、江戸城に移った日を八朔といって、江戸時代の間、幕府の大切な記念日としたのも理由のあることであった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/15
16: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/08(日) 13:57:22.91 江戸城はもと扇谷定正の重臣太田持資(道灌)が築いた所であるが、当時は北条氏の家臣遠山景政という一万石くらいの小名が、城代としていた所であるから、その城は小さく、居館の玄関は船板を張ってあって、城下には農家・漁家が点々と散在し、西北は武蔵野に連なり、東南は内海に臨んで蘆の茂った寂しい一漁村にすぎなかったが、家康はまず城郭を改築し、城下の海岸を埋め立てて町を開き、次第に繁栄におもむき、今日の東京都の起源をなしている。 (二)江戸幕府成立 秀吉は天正十三年関白に任じ、天下の財務を行うに当たり、前田玄以・長東正家・浅野長政・増田長盛・石田三成を五奉行と称して政務を分掌させたが、後さらに天正十九年には、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝(初小早川隆景)の大五老、生駒親正・中村一氏・梶尾吉晴の三老中などを置いて大事を会議させた。 慶長三年八月秀吉が伏見城で薨去した時、当時六歳であった秀頼には、前田利家に補佐役が命じられ、家康は遺命によって、伏見にいて政務を見たが、翌慶長四年閏三月に至って、利家は薨去したので、家康の勢いはこの時からひとり盛んとなった。 石田三成は豊公恩顧の士で、近江佐和山二十二万石を得、五奉行の首席として大小政務を処理していたが、豊臣氏のために家康を除こうとし、他の大老つまり毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝と結び、慶長五年(紀元二二六〇ーー世紀一六六〇)ついに関ケ原の決戦を惹起した。 草も木も東へなびく関ケ原 ーー木宮泰彦詠史狂句集ーー いわゆる天下分け目の戦で大勝を得た家康は、結局政権獲得の鍵を三成に捧げてもらった形になった。 ここにおいて家康は自由に天下の賞罰を行い、かつ諸大名の配置を断行した。今まで豊臣氏に従った者で、関ケ原役の前後、家康に服従した大名を外様大名といい、旧来の家臣で大名となった者を譜代大名といったが、外様大名は、多くを僻遠の地に置き、親藩(一門の大名)及び譜代大名は、要地に置くこととした。 従って東海・東山の二道及び機内の要地にはほとんど外様大名を置かず、また越前では庶子秀康をおいて加賀の前田に備えるとか、越後には庶子忠輝を置いて北陸・陸奥の帰路を断たせるとか、あるいは一地方に何人かの大名を置いて、互いに牽制させ合うとかした。詳しくは大名配置図を見るがよい。この図中白い所は大名領・幕府領交錯地である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/16
17: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/08(日) 13:59:39.13 この配置は家康の在世中にも、またその後にも、数度の遷代があったけれども、その大綱においては変じることなく、中世以来おいおい発達しきった封建制度は、これによって中央集権的に、秩序組織の完全なものとなった。 ここにおいて内府(内大臣)家康は、慶長八年(二二六三)二月右大臣征夷大将軍に任じられ、淳和奨学両院の別当、源氏の長者となり、幕府を江戸に開き、天下の政治をすべるに至った。 家康は将軍職を子秀忠に譲ったのは慶長十年であるから、将軍職にあることは足かけ三年であったけれども、退職後駿府にあってなお大事を決定し、薨去したのは元和二年(二二七六)であるから、秀忠の在職年限は足かけ十九年中、初めの十二年間は家康によって事件が解決していたものとして見てよい。従って慶長十九年の大阪夏の陣も、皆家康において責任を認めるのである。 また元和元年豊臣氏が滅亡すると共に、江戸幕府の基を固めようとするために、貞永式目などにならって、武家・公家などの諸法度を出したのも家康に功過を帰するのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/17
18: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/08(日) 15:34:38.55 p32※原文は漢文 武家諸法度 一、文武弓馬の道 ひたすら相たしなむべき事。 一、群飲佚遊(酒に溺れ遊び呆ける)を制すべき事。 一、法度を背く輩は、国々に隠して置いてはならない事。 一、国々の大名、小名ならびに諸給人は、各々相抱える士卒に、反逆や殺人をなすという申し出が有るならば、速やかに追い出さなければならない事。 一、今後以後、国人の外は、他国の者と交わってはならない事。 一、諸国の居城は、修補をするといっても、必ず言上しなければならない。まして新しい装いの家屋を構え事業を営むことを堅く停止させる事。 一、隣国において家屋を構え事業を営むくわだてや徒党を結ぶ者、これらの者がいるならば、早く言上しなければならない事。 一、私事で婚姻を締んではならない事。 一、諸大名参勤作法の事。 一、衣装の品は、混雑させてはならない事。(身分秩序を衣服差で識別) 一、身分の低い者は、ほしいままに輿に乗ってはならない事。 一、諸国の諸侍は、倹約を用いなければならない事。 一、国主は政務において優れた才能のある人を選ばなければならない事。 右、この旨を相守るべき者である。 慶長二十年卯七月 日 この発令は七月七日で十三日に元和と改元されたからこれを元和令という。各条全て註が入っているが今は略した。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/18
19: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/08(日) 15:35:22.43 禁中ならびに公家中御法度 一、天子諸芸能の事、第一は学問である。 以下全部で十七条 この旨を相守られなければならない者である。 慶長二十乙卯年七月 日 これは七月十七日に出たが、二十三日になると、五山十刹ならびに大徳・妙心・永平・高野山・浄土宗本寺に法度を出した。 いずれも簡明直戴の実際主義に立脚し、武家法制の特徴をあらわしている。後に福島正則が、言上に及ばずに、広島城を修復したというので、元和五年信州川中島に流されたのも、寛永八年加藤清正の子忠広は、国政が正しくないとして、肥後熊本城主から出羽庄内に流されたのも、皆法度にふれたからである。前者は第六条に、後者は第十三条にふれたらしい。こうして厳しく法度を適用して政権を確立したのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/19
20: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/09(月) 07:37:54.14 p34 (三)幕府の組織整う 大徳院秀忠は家康第三の子、慶長十年七月二十八日将軍の宣旨を蒙る。以来十九年の在職中、はじめの十二年間は万事父家康意思によって幕制をとる。その後といっても同様で、亡き父の意に違うようなことをする人ではなかった。 秀忠は篤志、謙遜の徳が備わり、孝心に類いなく、万事において、みな大御所のお教えを受け、少しも自分の心にまかすことはなかったと徳川実紀はほめている。 また秀忠は恭倹慈和・天性示孝・寛厚謹厳であったと野史はいっている。これによって大方その人物は察せられるが、この人格をもって彼は遺憾なく守成の功を全うしたから、徳川幕府の基礎はいよいよ固まったと見ることができる。 家光は慶長九年七月十七日、西の丸において、秀忠に子の長子として生まれ、女丈夫の名のある乳母春日局の心をこめた育成によった上で、天性英明の人であった。 かつて天海が「神祖(家康)は万事に通達おありになってよく人情世態におわたりになられたので、何事を申し上げるにも安らかで滞るところがなかった。台徳院(秀忠)殿にも御資質温柔でありましたので、同じようにあったが、当代は極めて聡明英武でおありになったからであろうか、何となく申し上げにくい」と言い、人見友玄宜卿は「いかにもおそろく見上げ奉った」と言っているのを見ても、聡明英武にうたれるような人であったらしい。 彼は元和九年七月二十七日将軍となったが、これを補佐するのに名臣をうち揃え、中でも土井利勝・阿部忠秋・松平信綱の三人が最も名高いものである。 利勝はその政事を議するや、今までは必ず狭い部屋において密議を凝らすのを例としていたが、利勝は大広間の中央に席を設け、四方の襖を明け広げて議したという思慮深い人、忠秋は性鶉を愛していた。 麹町に鶉を飼う者があり、その声は甚だよい。忠秋は欲しいけれども、値が高くて買うことができなかった。ある人は、忠秋の意を推察して、この鶉を買って忠秋に贈った。他日忠秋は「我仮にも重任を帯びる身が、このような玩具をなすべきではない」と言って、家来を使ってことごとく鶉を放たせ、よって賄賂の道を絶ったという廉直の人、信綱は機智に富み、知恵伊豆と言われたひとである。 しかも家光はもっぱら心を政治にとどめたので、家康の事業はここに完成され、幕府の組織も大いに整った。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/20
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