【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
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113: 09/21(土)08:12 AAS
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家斉は時に年十四であったから、田安宋武の第三子で奥州白川松平氏を継いでいる定信をあげて老中上座とし、大いに前代の弊政を改めようとした。
その頃は三都や国々で「打ちこわし」が盛んに行われた時である。定信が老中に就任するに当たっては、大いなる決心が必要であった。定信の決心は天明八年正月二日、江戸本所吉祥院の歓喜天に奉納した願文によっても知ることができる。
その願文には「越中守、一命はもちろんのこと、妻子の一命も奉納いたします。そして必死に奉心願います事柄は、右の一つ一つの箇条が相調わず下々は困窮しており、御威信御人徳が細部まで行き届かず、人々が崩壊いたしましてございますならば、ただ今のうちに私が死去いたしますように申し上げ願います」と言っている。
従って定信老中七年間というものは身をもって範を垂れる主義で政治を行った。
幕府の費用は一般には十分の五を節約し、大奥の費用は三分の二を減じ、大名にも三年間特別な倹約を令して、老中の招請・手紙・贈答などを禁じ、人民にも勤倹をすすめることが次第に厳しく、私の贈り物を禁じ、衣服調度の新製を停め、嫁娶、造営修繕はもっぱら倹約を旨とし、果ては櫛・かんざし・煙草入・羽子板の類いにまで干渉して華美に流れるのをとめた。
前代のインフレ政策に対する定信の緊縮政策だと言われる。このために定信は在職中に三十三万八千両という大金を余らせたという。従って定信は諸大名に対して、支那の常平倉の制にならって、備荒貯蓄をすすめ、寛政二年に令して今後五ヶ年収穫一万石ごとに、籾五十石づつを蓄えさせた。五ヶ年計画はここでも実施されている。
翌三年には江戸市中に令し、七分金といって町内費を節約して七分を積み立てさせ、貧民救済に充てさせた。この金が積もり積もって明治七年には一百七十万両となっていたので、東京都の共有金となって働いているという。
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