【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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(1): 2024/09/23(月)12:59 AAS
p109(四)国学勃興と尊皇思想

このように、天下に率先して尊皇の大義を唱えた者は、たちまち罪にされるに及んで、公に幕府の不義を唱える者は衰えたが、この思想はおさえられるはずもなく、かえって国学の勃興と共に根強く尊皇の思想が培われ出した。
さきに水戸光國が国史の勉強をはじめた頃に僧契沖がいた。契沖は寛永十七年摂津尼ケ崎の藩士下川元全の子として生まれ、十一歳で出家し、諸所を周遊したが、博学にして特に古語に詳しかった。
契沖が大阪近くの今里妙法寺にいる頃、水戸光國は万葉集の善註がないのを恨み、下河辺長流に命じ註釈のことにかからせていたが、長流はその業を終えないで卒したので、光國は、契沖が長流の親友であり、かつ学徳ともに高いのを慕ってこの人を招聘しようとしたが、契沖は辞退して行かなかった。
しかし契沖は密かに光国の志に感じ、万葉集代匠記二十巻、総訳二巻をつくってこれを光圀に献上すると、光圀は大いに喜び、白金一千両、絹三十疋を贈ってその志に報いた。すでに契沖は大阪高津に、よい土地を占って移り住み、室を円珠庵と名づけ、俗客を絶って清修自適し、元禄十四年六十二年で寂した。
この万葉代匠記は万葉註釈書のうちでも特に傑出したもので、著者の自筆本が今日に残っているから、直接契沖の学説を伺うこともできる。
この時から国学の研究が盛んになり、享保八年には荷田春満が伏見稲荷山の祠官の家に生まれ、もっぱら国史国典によって国体の真髄とそれに付随した神道とを明らかにしようとすることを主張し、国学の学校を京都に建てることにしていたが果たさずに死んだ。元文元年六十九であった。春満は国史・律令にくわしく、神代巻・万葉集に創見あり、加茂真淵はその門人である。

ふみ分けよ 大和にはあらぬ唐島の
あとを見るのみ 人の道かは   ー春満ー

※日本人なら朱子学だけじゃなく日本の書籍を読もうよ!みたいな歌
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