【日本史】GHQに焚書された書籍 (532レス)
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13: 09/07(土)23:20 AAS
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建築ーー仏寺建築では方広寺・東寺があり、宮室建築は当代においてよく発達し、神社建築の方では権現造といって、北野神社で見るように書院造に進歩した手法と装飾を応用したものが出来、住宅建築としては書院造で例えば聚楽第それである。また城堡建築は大阪・伏見のような当代特有のものができている。
当時の遺構で有名なものは伏見城内にあった西本願寺書院鴻の間・西本願寺唐門・豊国神社唐門、聚楽第にあった西本願寺飛雲閣・大徳寺唐門があり、いずれも当代建築の模式的なものである。
この特色ある美術の時代を呼ぶと、後世伏見の地を桃山と呼ぶのにちなんで、この時代を桃山時代といっている。
秀吉の頃は伏見に伏見城があったのであるが、後この城をこわして、その後に桃樹を植えたから桃山と言うに至った。それは江戸時代中期後であろうと言われる。

学習参考

(1)挿絵解説

「豊後の洋学校」はローマ法王グレゴリオ十三世偉業聖蹟要略所載のものによったのである。豊後の府内(大分)に建てられたコレジオ(大学林)で、グレゴリオ十三世の寄付金で建てた。それは正親町天皇の天正十年である。三層の洋館でこの時代から西洋建築法も輸入されたことがわかる。
「京都西本願寺の書院」は写真によったもの。伏見城の大広間を徳川家光が移したので、間は上下二段に分かれ、上段の間は秀吉が着座するところ、下段の間は諸侯が集会するところ、上段の間の左方に上々段の玉座がついている。
またその上段の間の背後には、三間以上も大床がついていて、そこは狩野探幽の絵で飾られている。
床側には違棚もついている。天井は格天井で黒塗り、金具もついているし、格間には絵もかいてある。欄間には鴻の鳥の透し彫があって有名である。
書院は桁行百二十七尺以上、梁間九十五尺以上、単層入母屋である。この写真は上段の間の一部をとってある。
「狩野山楽の絵」は京都建仁寺の塔頭天珠院の襖絵によったもの、現物は金箔の地に極彩色でかいてある。
狩野派といえば、宗元派と倭絵の長所を取ってできたのであるが、ここに至って、その融合は独自のものとなっている事に注意せねばならぬ。
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