【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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144: [sage] 2024/09/25(水) 14:35:27.35 p120 間宮林蔵、名は倫宋、常陸筑波郡の人。享和元年北地探検の幕吏に従って松前に行った。文化五年には幕命を受け、松田伝十郎と共に樺太探検に上ったが、途中風波に襲われて一旦中止し、今度は林蔵単身樺太に渡り、西海岸を探検して樺太が島であることを発見した。今でも間宮海峡といってそれを記念している。間宮はさらに黒龍江の下流をさかのぼり、シベリアに入り、デレンに至り、土人の人情風俗を調べてかえった。 しかし昭和三年の御大典に際して、国家的功労者として贈位を申請した中に、新潟県中頸城郡米山村字鉢崎生まれの松田伝十郎という者がいる。この人によると間宮は松田伝十郎の下僚で、松田が調査したものを間宮が宣伝したものにすぎないから、松田海峡とせねばならないと言っている。 伊能忠敬は下総の人。晩学をもって有名である。五十歳の時から学を修め、天文・暦学に詳しく、特に測量の術については国内で並ぶ者なく、幕府に願って寛政十二年蝦夷地を測量して地図をつくり、翌年、伊豆・相模・常陸・房総から陸奥を測量し、次いで全国に及ぼし、前後十七年を費やして日本興地実測図を制作した。文化十四年には江戸府内図をもつくって幕府に進呈している。これら伊能の地図の正確なことは驚くべきもので、近年に至るまで本邦地図の基本となっていた。 (四)外国船打ち払いの令を下す このような間にロシアは再び使節を遣わした。つまりラックスマンが去って十二年の後、文化元年十月九日ロシア国の使節レザノフが長崎に来て例の信牌を示して通商のことを願った。幕府は翌年三月まで待たせておいて、そうしてから、結局は「国法が禁じるところであるから」という理由でこれらを帰らせた。レザノフは素早く長崎を去り、文化三年から四年にかけて、露米商会員フホスト及びダビドフの二青年士官を使って、盛んに我が国の北辺に寇すこととした。火つけ、略奪、あらゆる恐嚇をたくましくした。 これに関して非常に国内の世論は沸騰し、ついに蒲生君平・柴野栗山などがロシアに対する主戦論となり、憂国の志士によって血涙をそそがせたのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/144
間宮林蔵名は倫宋常陸筑波郡の人享和元年北地探検の幕吏に従って松前に行った文化五年には幕命を受け松田伝十郎と共に樺太探検に上ったが途中風波に襲われて一旦中止し今度は林蔵単身樺太に渡り西海岸を探検して樺太が島であることを発見した今でも間宮海峡といってそれを記念している間宮はさらに黒龍江の下流をさかのぼりシベリアに入りデレンに至り土人の人情風俗を調べてかえった しかし昭和三年の御大典に際して国家的功労者として贈位を申請した中に新潟県中城郡米山村字鉢崎生まれの松田伝十郎という者がいるこの人によると間宮は松田伝十郎の下僚で松田が調査したものを間宮が宣伝したものにすぎないから松田海峡とせねばならないと言っている 伊能忠敬は下総の人晩学をもって有名である五十歳の時から学を修め天文暦学に詳しく特に測量の術については国内で並ぶ者なく幕府に願って寛政十二年蝦夷地を測量して地図をつくり翌年伊豆相模常陸房総から陸奥を測量し次いで全国に及ぼし前後十七年を費やして日本興地実測図を制作した文化十四年には江戸府内図をもつくって幕府に進呈しているこれら伊能の地図の正確なことは驚くべきもので近年に至るまで本邦地図の基本となっていた 四外国船打ち払いの令を下す このような間にロシアは再び使節を遣わしたつまりラックスマンが去って十二年の後文化元年十月九日ロシア国の使節レザノフが長崎に来て例の信牌を示して通商のことを願った幕府は翌年三月まで待たせておいてそうしてから結局は国法が禁じるところであるからという理由でこれらを帰らせたレザノフは素早く長崎を去り文化三年から四年にかけて露米商会員フホスト及びダビドフの二青年士官を使って盛んに我が国の北辺にすこととした火つけ略奪あらゆる恐嚇をたくましくした これに関して非常に国内の世論は沸騰しついに蒲生君平柴野栗山などがロシアに対する主戦論となり憂国の志士によって血涙をそそがせたのである
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