【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
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156: 09/26(木)21:28 AAS
>>81
高野長英はシーボルトの弟子
レポート提出させてシーボルトは日本文化を労せず手にする
外部リンク[html]:www.ndl.go.jp
「本書『日本』はシーボルトの日本研究の集大成。日本の地理、歴史、言語、宗教、美術、政治、経済など諸分野について、シーボルト自身による調査・収集資料と、日欧の既存の資料をまとめたもの。高野長英ら門人たちが提出したオランダ語論文も生かされている。ドイツ語で書かれ、一部はオランダ語、フランス語等に翻訳された。初版は1832年から1851年にかけて分冊形式で刊行され、その後も印刷されながら公刊されなかった部分がある。当館所蔵本には欠あり。」

渡辺崋山は尚歯会に出入りして高野長英らと海防の研究をする。

シーボルト親子については>>80-82
親父は地図泥棒で息子は開国後の不平等条約締結に奔走した。
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「アレクサンダー・ゲオルク・グスタフ・フォン・シーボルトは、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で、幕末に在日英国公使館の通訳を務めた後、明治政府にお雇い外国人として40年間雇用された。不平等条約の最たるものとして知られる日墺修好通商航海条約協力の功によりオーストリア=ハンガリー帝国の男爵となった」
157: 09/26(木)23:01 AAS
通商条約の起草も手がけたシーボルト父はただの医者ではなく開国を見据えて来日していたし、それはティチングが話していた田沼の開国計画失敗と関連があるのだろう。
開国に必要な条約締結は息子が完成させた。
日本を開国させたいシーボルトは弟子の高野長英たち日本人蘭学者にも開国論を吹き込んでいたと思う。だから真っ先に蘭学者が開国論をぶち上げた。
158: 09/26(木)23:57 AAS
p131
長英は陸中胆沢郡水沢藩主、伊達候の典医高野玄斎の養子で、蘭学を修め、江戸で医を開業し、蘭書の翻訳に従事していた。長英は崋山などと共に尚歯会を起こして、時事を談論したが、時の人はこれを蛮社と言っていた。無人島事件では獄に下ろされたが、関係がなかった。しかし彼の戊戌夢物語は早く世に流布され、幕府の忌諱にふれ、天保十年終身の禁固に処されて伝馬町の獄に下ろされた。弘化二年獄舎に火事が起こった。当時の法によれば、出火の際は三日を期限として囚徒を放つことを例としたから、長英も出たが、そのまま都下に潜伏し、顔面を硝石で焼いて容貌を変え東西に流浪し、再び江戸に下り名を偽って蘭学を講義し医を生業としたが、嘉永三年幕吏に囲まれ一人を斬り、一人を傷つけて自殺した。時に四十七であった。

(三)外国船打払の令をゆるめる

イギリス船が来るに違いないとの風説はあったが、ついに来なかった。それは天保八年に米船が一隻浦賀に来て追われ、鹿児島に至れば、ここでも追われ、空しく帰ったことがあるが、これが漂流民七名をもってやって来たイギリス船モリソン号だったのである。従って風説は事の後で起こっていたことになる。
しかし天保十一年には隣邦清国が阿片戦争といって英国と事を構え、寧波が陥落し和を結んだ報告などが伝わったので、水野忠邦が改革を行うのに当たり、外船が難破に逢って漂着した者には薪水食料を与えることなく、一円に打ち払うのは当を得ていないと言うので、天保十三年七月には「異国船を見受けますならば、得と様子を明らかにし、食料薪水が乏しく帰帆が難しく成る様子でありますならば、望みの品を相応に与え、帰帆致さなければならない旨を申し諭し、もっとも上陸はしてはいけないのであります」というような令を下した。これがいわゆる天保令の緩和である。
159: 09/27(金)13:24 AAS
p132
忠邦改令ののち三年、弘化元年オランダは国書及び宝物を持って長崎に来て、将軍家治の時天明二年<皇紀二四四二-西紀一七八二>イギリスのワットが蒸気機関を改良して成功し、家斉の時文化四年(皇紀二四六七-西紀一八〇七)フルトンが汽船を発明し、遠い国々へも自由に往来することができる、とうてい鎖国が行われない事情をねんごろに忠告した。
しかし幕府はなお「好意の程は感謝するが、祖宗歴世の法はたやすく変えることもできない」と答えてこれに従わず、いよいよ海防を厳にすることとした。

(四)アメリカ合衆国及びロシアの使節来朝す

その後、英・米・仏などの外国船の出没はいよいよ頻繁を加え、海防攘夷の論はいよいよ盛んとなり、幕府は嘉永三年五月に、奇説を唱え人心を動かすような言論を慎まなければならないと命令している。
それにもかかわらず弘仁元年と四年とに開国の事を忠告したオランダ人は弘化五年三度英・米諸国に通商の許可を迫ろうとするたくらみがある事を報告し、同五年八月にはカピタンからも国王の意を伝えて「アメリカから近々使者に命じて通商互市を願うところがあるはずだ。もしこれを拒むならば必ず騒乱を生じるだろう」と告げ、また別に、米国が欧州に放った「日本に命じて鎖国の法を解かせよ」との通牒も上がった。果たして孝明天皇の嘉永六年米使ペリーの来朝となって来た。
米国が日本の開国を促そうとする理由はおおよそ二つの重大な理由があった。その一は米国が西紀一八八四年つまり弘化元年に米清条約を締結したので、その途中において石炭補給などの必要が起こった事で、他の一つは太平洋方面の捕鯨が発達したために避難港が欲しかったことである。
ここにおいて米国政府は弘化三年提督ビットルを我が国に派遣したが、拒むところとなり、次いで漂民受領のために長崎に来ていたグリン中佐が帰国するや、盛んに日本開国の説を唱え、かつ兵力を動かせば容易に成功するはずの事を論じた。

※カピタン=オランダ商館長
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(1): 09/27(金)15:44 AAS
p133
ここにおいて嘉永五年メキシコ戦争に驍名を馳せたペリー提督に十二隻から成る大艦隊を授け、武力の後援により日本を強要してその目的を達成させようとした。
ペリー提督はいまだ必ずしも日本に向かって禍心を包蔵するものではなかったが、いかにもやむを得ないので兵力に訴えてもその目的を致すつもりの決心であった。言い換えればその使命は平和的であったが徹頭徹尾平和的ではなかった。当初から喧嘩腰ではなかったが、時と場合とによっては、そうすることも辞せない覚悟であった。
十二隻の艦隊ではあったが、実際我が国に姿を現したのは前後九隻で、最初に浦賀に来たのは四隻であった。
ミシシッピー号は旗艦である。一千七百トン・三本帆柱・外輪汽船・速力七、八ノット・石炭を1週間分積載することができるもの、順風の時には帆を利用して石炭を倹約する。
サスケハナ号は途中旗艦とした外輪汽船、プリマウス号は帆船で浦賀に来た時はミシシッピーにひかれてきた。サラトガ号はやはり帆船でサスケハナにひかれて来た。時は嘉永六年六月三日午後五時頃であった。
ペリー提督は米国の強烈な希望を背負って来た。大統領フィルモアを始め、国務長官・海軍長官その他内閣諸長官は多大な希望をこの遠征隊に託していた。
だから当時の日本人が彼ペリー提督の来航を見て慌てて狼狽、これを敵視し、これを仇敵視したのは間違った見解であり観察でもあったが、だからといって後の人がペリーを日本の恩人視するのも見当違いである。
ともあれ幕府も大いに驚き、老中阿部正弘は浦賀奉行戸田氏栄及び井戸弘道に命じて浦賀の西北九里が浜で応接させ、通商のことについては明くる年オランダのカピタンを使って報告させよと言ってペリーをかえらせようとした。
ペリーは日本が二百年来の旧習を打破するには、その評議のために多少の日数を要さなければならないことを思い、まずは幕府に進呈すべき贈り物を搭載した運送船の未着と、支那長髪族の乱に伴い、同地在留の米人を保護する必要もあったので、彼は来春また来るつもりのことを約束して、六月十二日浦賀を去った。去るにのぞんで、幕府の制止をしりぞけ、強いて艦隊を率い、深く江戸湾に侵入するなど、態度はすでに日本を圧するという様子があった。
161: 09/27(金)18:05 AAS
石炭や捕鯨の善良な開国要求理由は建前で、日本の金銀を狙った商売と布教が開国の目的だったと思う…
亜米一(あめいち)のウォルシュ商会のウォルシュはフルベッキと共に日本に来て、ハリスに頼まれて長崎領事館長を兼任しているので仲間内で分担して商売や布教してた。

「2 アメリカ・プロテスタント諸教会による拡大宣教活動

 幕末の軍事・政治(外交)・キリスト教伝道の三位一体の展開は,「ペリー提督の軍事による日本の開国,アメリカ総領事ハリスの外交による日米通商の開始,ヘボン(長老派)・フルベッキ(オランダ改革派)等による知識の開窓」として要約できるであろう。
 ペリーの日本開国の動機は,日本との通商,難破した捕鯨船員の扱いの改善,カリフォルニア・チャイナ間の太平洋航路の寄港地等である。しかしながら,これまで主目的については研究者間で意見の相違があったが,近年では,「明白な神意(Manifest Destiny)」の信念も有力な考え
方になっている(三谷(2003)。すなわち,アメリカは,19世紀中葉のオレゴン紛争の解決,テキサス併合,カリフォルニア編入等により,太平洋に長大な海岸線をもつ国家となった。
アメリカの急速な領土の拡大・膨張は,「明白な神意」の結果であり,さらに,太平洋を越えチャ
イナに進む信念にもなったのである。日本は,チャイナへの道の経由地(とくに石炭補給地)であった。ペリー自身も,アメリカ聖公会(監督派教会)に属し,「信仰厚く,航海中も毎日聖書を読むのを欠かさず,日本開国の命をもって,日本宣教の門戸を開く機会となる光栄ある使命」として受け取っていたのである。」(続く)
162: 09/27(金)18:06 AAS
「これにより,「宣教の拡大活動」,すなわち,医療・英語教育・社会教育を通じて,居留地に出入りする日本人とキリスト教との関わりができるのである。この視点から,ハリスは,上海の聖公会宣教師に対して
「日本宣教の将来の成功は派遣される初代宣教師の性行,態度,人格によるものである。・・・学校を興し,英語を教え,貧民に施療することなどが有益である。従って日米通商条約は貿易の開始ばかりでなく,キリスト教の開教第一歩である」
と書簡を送っているのである。
 日米修好通商条約が調印された2か月後の9月,長崎に碇泊中のアメリカ商船ミネソタ号に,日
本来航時のペリー艦隊の首席通訳官をつとめたS.W.ウィリアムズ,上海・水兵館付き司祭の「ア
メリカ聖公会(監督派教会)」のE.W.サイル,アメリカ海軍(ポーハタン号)従軍牧師の「オラ
ンダ改革派」のH.C.ウッドが集まり,日本宣教問題を論じた結果,3人の連署で,アメリカ聖公会,アメリカ長老教会,アメリカのオランダ改革派教会の外国伝道局に対して宣教師の日本への派遣要請するに至った。S.W.ウィリアムズは,「アメリカン・ボード」から清国に派遣された宣教師(日本漂流民を乗せたモリソン号乗船や通訳として2度にわたるペリー艦隊乗船の経験をもつ宣教師)であったが,本来は,「長老派」の宣教師であった(すでに述べたように,長老派やオランダ改革派は,アメリカン・ボードに加わりながら,1830年代初めに,それぞれの外国伝道局も設置しているのである)。
 これに応じて,アメリカ聖公会は,1859年5月に清国派遣宣教師J.リギンスを,さらに,6月に
は清国派遣宣教師C.M. ウィリアムズを長崎に送った19)。この1859年は,アメリカ聖公会にとっては,10年来の懸案事項(イギリス聖公会との間の清国ミッションの管轄権)も,イギリス国教会(聖公会)が浙江省,アメリカ聖公会が江蘇(上海を含む)で決着した年でもあった。同年10月には,長老派のヘボンが宣教医として夫人とともに横浜に到着し,11月には,オランダ改革派のブラウン夫妻とシモンズ夫妻が横浜に,新婚のフルベッキ夫妻が長崎に到着した。 (続く)
163: 09/27(金)18:06 AAS
Cary(1909)の評価では,彼らは「日本におけるプロテスタント宣教師団の活動開始の栄誉を担う6名の宣教師」であった。さらに,翌1860年4月にはアメリカバブテスト自由伝道協会からゴーブル夫妻も横浜に到着する。中国では,外交で列強を制したイギリスがキリスト教宣教でも主導権を握ったが,このように日本では,対日外交で主導権を握るアメリカが宣教をもリードした
のである。」
富田鐵之助「幕末維新のアメリカ留学と富田鐵之助―「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助(5)―」『東北学院大学経済学論集』第186号、東北学院大学学術研究会、2016年3月、1-91頁、ISSN1880-3431。
164
(1): 09/27(金)21:33 AAS
p135
(五)和親条約を結ぶ

こうして外交のことは事態がすこぶる重大となったで、ペリーが来るや、幕府は京都所司代に命じて、直ちに朝廷に奏上させ、次いで国書を訳してこれを諸藩に示し、大名有司に意見を述べさせたが、攘夷開港いづれとも定まらず、この時から世の中は、もの騒がしくなって来た。たまたま将軍家慶は六月二十二日薨じ、七月に家定が将軍となるも、幕府はいまだ対外の方針を示すことができなかった。
この月ロシアのプーチャンチンがまた来て、軍艦四隻を率いて長崎で通商その他の要求をして、半年もいたが目的を達せずして帰った。
幕府はこの時「ぶらかし策」をとって嘉永六年十月オランダのカピタンに命じて、米国へ「将軍の喪中であるから返答は延期する」と通達させた。
また来年までと言ったのであるから、米国まで行ってくるとすればここ数年は安心だと考えていた。
それなのに去ったペリーは六月二十日琉球那覇に到着し、八月一日香港に向かって去った。彼は香港・マカオの間の港湾に集合していると、フランス国軍艦やロシア国軍艦が東航するのが目に入った。これは確かに日本に向かうものに違いないと確信し、せっかくの苦心も他国に先んじられては不利益だと思って、一挙日本に向かって再航した。そのために安政元年正月十六日には早くも浦賀近海小柴冲に入った。始め軍艦七隻を率いていたが、次いで二隻が来て、同月下旬神奈川冲に進み、すこぶる強固な態度をとった。
幕府は会見の場所を浦賀にするつもりであったが、彼は江戸の近海でなければならないことを主張して譲らず、今や彼は夜中江戸の半鐘が聞こえるところまでも進んだから、余儀なく会見場所を横浜に変更して、数度の交渉を重ねた結果、孝明天皇の御代、将軍家定、老中阿部伊勢守正弘の時、安政元年三月三日に至り、日米和親条約が締結された。世にこれを神奈川条約という。
これによって下田・函館の二港を開き、薪水食料を給することなど十二章を定めたが、ペリーはこの時から下田・函館を視察して、五月再び下田で条約付録を締結し、六月初旬帰途についた。次いでイギリス・ロシア・オランダとも略々同様の条約を結んだが、ロシアとはこの時国境の問題をも議定した。つまりロシア国とは千島を二分し、択捉以南は日本、ウルップ以北は露領ということにし、樺太は両国人の雑居地ということにして安政三年十二月二十一日日露和親条約と共に確定した。
165: 09/28(土)07:14 AAS
p136(六)攘夷開港の論定まらず

和親条約は結ばれたので、その条約の規定に従って、アメリカ合衆国の総領事タウンゼント・ハリスが下田に来たのは安政三年七月二十一日であったが、八月五日柿崎の玉泉寺に入って領事館とし、九月二十七日書を幕府に進呈し、出府して将軍家定に見え、通商条約を結ぶべき世界の大勢を説いた。よどみなく六時間に亘ったので、幕府もこれに動かされ、会議の上、通商条約及び貿易章程の案を議定したのが安政五年正月十二日であった。
この案で勅許を願ったが、国論はいまだ定まらないので、孝明天皇は深く国家の前途を憂えて容易に許しなさらず、それなのに幕府は勅許を得られるものと信じていたので、三月五日をもって調印するはずのことを、すでにハリスと約束してあったから、阿部伊勢守に次いで老中上座となり外交のことに当たった堀田備中守正睦自ら上洛して百万運動を試みたが、結局、朝廷では、三家以下列藩の会議をもってさらに具奏せよと命じなさった。天皇は幕府の施設について不安な宸憂があったため、事を誤らせないようにとの天子の裁断であったという。畏れ多いことである。
三月五日になっても堀田は帰らないので、ハリスは調印を迫ることがすこぶる急であった。堀田は四月五日京を発し、二十日江戸にかえった。
166: 09/28(土)07:16 AAS
堀田正睦も蘭癖大名
167: 09/28(土)07:36 AAS
p137(七)通商条約を結ぶ

この時から以前に、幕府では大老推任の議決をし、堀田備中守が帰府の後、僅かに二日、即座に井伊掃部頭直弼が徴用される。直弼は近江彦根の城主、提封三十五万石、諸大名の上首として世に関西旗頭と見られていた人。人物の上からみても幕府としては、非常時局面を処理するにはこれ以上の適任者がないと考えた。
井伊直弼が大老となるや、ハリスに対して調印三ヶ月の猶予を願い、七月をもって調印しようとした。
以前に安政三年、清国において広東の官吏が停泊していた英船アロー号に使役する支那人水夫を長髪族と疑い、船内に闖入して英国旗を倒し、水夫を捕縛していったというアロー号事件が起こり、英仏は同盟して清国を攻め、英仏は大勝して安政五年五月天津で和を講じ、その勢いをもって我が国に来て通商を迫ろうとする風聞があり、ハリスは時によると英仏に先を越されては一大事と考え、幕府に対して英仏が恐るべきことを説明して、七月を待たずに即時調印すべきを促すことはすこぶる入念であった。井伊直弼もよほど決断に苦しんだが、もはや猶予はならずと、ついに決意して、勅許を待たないで調印してしまった。これが安政五年六月十九日である。
この条約は十四条からなっていて、下田・函館の他に、神奈川・兵庫・長崎・新潟の四港を開き、また我が国に居留する外国人に信教の自由を与え、治外法権や関税の片務協定を認めたので、不利不面目の点が多く、これが明治に至って条約改正という外交上の癌となって現れてくる。
こうして米国との通商条約は調印され、次いで七月にはオランダ・ロシア・イギリスと、九月には仏と、ほぼ同様の条約を結んだので、世に五国条約ともいっている。
168: 09/28(土)07:55 AAS
最後のオランダ商館長クルティウスが日蘭修好通商条約を締結しオランダとの自由貿易が認められたその年、クルティウスは長崎奉行所と交渉して踏み絵も廃止している。
ハリスも信教の自由を重視した。

「1858年7月29日(安政5年6月19日)には,日米修好通商条約が調印されるに至った。キリスト教的には,この条約の第8条が重要である。すなわち,
「日本に在る亞米利加人自ら其の國の宗法を念し禮拜堂を居留場の内に置も障りなし
 並に其建物を破壊し亞米利加人宗法を自ら念するを妨る事なし・・・・・
  日本長崎役所に於て踏絵の仕來は既に廢せり

である。この第8条に対して,「幕府が何ら難色を示さず疑問ももたなかった」ことは,「聖公会会員のハリスにとって非常な驚きであり。感謝であった」。これにより,「宣教の拡大活動」,すなわち,医療・英語教育・社会教育を通じて,居留地に出入りする日本人とキリスト教との関わ
りができるのである。この視点から,ハリスは,上海の聖公会宣教師に対して「日本宣教の将来の成功は派遣される初代宣教師の性行,態度,人格によるものである。・・・学校を興し,英語を教え,貧民に施療することなどが有益である。従って日米通商条約は貿易の開始ばかりでなく,キリスト教の開教第一歩である」と書簡を送っているのである。
169: 09/28(土)08:02 AAS
キリスト教布教が再開したことで、近代日本史板のフリーメーソンスレに書いたような、渡辺悌治の本の話に繋がっていく。
渡辺は東北大学神学科に在籍して、キリスト教が日本の農家に米食をやめパン食にするよう布教するのを見たり、戦前戦時中スパイとなって日本軍を諜報・作戦失敗させていたのもキリスト教やフリーメーソンだったと。
170: 09/28(土)17:08 AAS
p139(八)仮条約勅許される

勅許なくして結んだ安政の条約を仮条約というのであるが、幕府はまずこの仮条約によって、まず長崎・函館・神奈川の三港を開いて、内外人が互いに貿易することを許した。
しかし条約に神奈川とあるが、実際は横浜を開いたのである。神奈川は東海道交通の要路に当たり、諸大名をはじめ武人の来往が頻繁であるがゆえに、もし不用意にこの地に外人の住居を許せば、攘夷論の喧しい世、不足の患害を生じるかも知れず、もしまた同地を開放しようとするならば、東海道の道路と宿駅を変更することが必要で、しかし外国人のために古来の駅路を変えるとあっては、これまた攘夷論者の物議を招くことは勿論であるから、幕府はハリスに交渉を重ねて横浜に変更しようとした。ハリスはまた以前の長崎の出島のようにするのではないかなどと疑い、容易に承諾の色がなかった。しかし井伊大老は強硬にとって動かず、横浜は神奈川の一部であると言って着々とここに開港設備を整えた。これはこの後も紆余曲折あり、結局は横浜が開港場となったのである。
幕府はまた安政仮条約の締結と共に、安政五年七月はじめて外国奉行を置いた。老中の所管として営中に一局を設け、奉行は始めは五人くらいであったが、後には十人にもなる。通商貿易その他外国人に関する一切のことをつかさどった。
次いで幕府は万延元年正月、外国奉行新見正興・村垣範正らを使節としてアメリカ合衆国へ遣わせた。一行は米国船ポータハン号に搭乗し、別に軍艦奉行木村毅・勝安芳などが軍艦咸臨丸に乗って彼の地へ向かった。福沢諭吉らもこれに従った。
使節は途中風のためにハワイに寄港し、サンフランシスコに寄り、パナマ海峡を経てワシントンに至り、米国上下の熱烈な歓迎を受け、四月三日条約書を交換して、その使命を全うした。何でもこの間の費用は全てアメリカ政府によって支払われたという。使節はこの時からニューヨークで気ままに歩き回り、大西洋を横切ってアフリカ南端を経て、九月二十七日品川についた。
この時から金貨の流出は甚だしく、物価もまた大いに騰貴し、下級階層は生計に苦しみ、このために外人を憎んで殺害などの事件が頻出し、幕府もこの処置に疲れ、再び鎖国しようとも考え、文久三年池田筑後守長発(チカ)らをフランスに遣わせたが、彼の地の文物が優れているのを見て、鎖国など到底行われないものと思い、空しく帰って来たともある。
171: 09/28(土)17:28 AAS
p140
こうして朝廷でも、熟議の上やむを得ないものとして、慶応元年十月二十三日初めて仮条約を勅許あらせられた。安政五年の調印から八年目、ここに江戸幕府の鎖国政策は完全に破れることとなった。

>>26>>114をみると、江戸中〜後期は金一両およそ4〜6万円の価値で、金一両=銀60匁で取引されていたが、幕末になると、金一両およそ4千円〜1万円の価値になり、金一両=銀百匁の取引となったほどの急激なインフレ。
輸出に回されて国内のモノが無くなったのもインフレの原因。
172: 09/28(土)22:18 AAS
p140学習参考

(1)挿絵解説

「洋学者集会す」の絵は大槻文彦蔵、芝蘭堂元会図によったものである。大槻玄沢が寛政六年閏十一月十一日が、西紀一七九四年一月一日に当たるので、門弟知友を集めて祝意を表している光景である。この時から玄沢が没する文政十年までこれが続いた。この頃はこれを新元会といい、俗に和蘭正月と言っていた。この図では集まった者二十九名、右向こうに椅子にかけて洋服を着ているのは玄沢で、すべてに洋式が多分に入り込んでいる。
「ペリー横浜に上陸す」の絵は、松平子爵蔵の絵図によったもの。子爵は旧津山候の家である。この絵はペリーが第二回に来た時の光景で、彼は安政元年正月十六日浦賀の近海小柴冲に来た。
この時から横浜村を会見場所として数回の談判をしたのであるが、図は二月十日横浜会見所へ米使上陸の所で、九隻の軍艦に乗って来たのであるが、今度は二十七隻のボートに乗りかえて上陸した。そのボートも図中には見える。
陸上には約五百名の米国水兵が捧銃をしている。応接所は右に見えるが、これは今の横浜税関の辺りで、向こうの丘は神奈川台、この時の衛兵つまり固(カタメ)は松代・小倉の両藩で、図の左方に六文銭の旗印があるのは松平藩真田美濃守である。小倉藩は北方にいたが図には出ていない。浦賀の御用船も海中に出ている。こうして三月三日には和親条約十二ヶ条が帰結される。
「新見正興らアメリカ合衆国において観兵式に臨む」絵はニューヨーク絵入り新聞(一八〇六年六月三十日発行)からとったもの。外国奉行新見正興・村垣範正ら八十一名が米国差し回しのポータハン号に乗って浦賀を出発し、ワシントンについたのであるが、これはニューヨーク市で観兵式にのぞんでいるところ。ユニオン広場では歓迎のために義勇兵が観兵式をしているし、こちらには四人連の日本使節の姿も見える。向こうの日章旗は使節一行の旅館メトロポリタンホテルに立っているので、手前には軍楽隊もいる。到るところ非常な歓迎を受けて帰ったことがわかる。本文中にもこの事は書いておいた。
173: 09/28(土)22:46 AAS
p142(2)指導要領

外交にしても、文化にしても、ともかく一つの発展経路を辿っている。それをこの教材から汲みとらせなければならない。
攘夷と開港はその論者の立場やその動機がよってくるところを明らかにし、尊皇攘夷・尊皇開港・佐幕攘夷・佐幕開港というように意見が分かれるから、それらを十分に批判していかなければならない。
要は海外関係を巧みに処置しながら、倒幕目的が達せられたならば最もよいのであるから、この方向に活動している人がよいというわけになる。
文化の方では西洋文明の長短を分からせると共に、日本文化のそれをも考えさせ、将来我が国の文化が向かうべきところを考察させるがよい。
この外交・文化共に現在に投影していることが甚だ多い。それらと連絡して、環境を整理し、学習を進めて、十分に判断を錬磨しなければならない。
こうした教材になると討議式学習は最も適当している。
なおこの教材と連絡して「国旗」についてやや詳細に学習し、国家的精神を深めておいた方がよいと思う。少し時間を余分に使って我が国古来の旗について、日章旗の由来、国旗の意味、日章旗の意味、国旗についての心得、世界国旗とそれに対する注意などを取り扱った方がよい。
我が国ではペリー来航によって大いに刺激される所があり、安政元年幕府は日章旗を国旗と定め、万延元年新見正興がアメリカに行った時に、はじめて堂々日章旗を翻して彼の国に行ったのであるが、彼の国人はその壮烈な意匠を見て驚嘆したというのである。
174: 09/29(日)00:21 AAS
日章旗の由来に嶋津斉彬が船に使い始めて幕府に教えたとあったけれど、白地に赤丸なのは、島津の初期の家紋の丸ニ朱十字紋を意識してるのかな。
175
(1): 09/29(日)01:17 AAS
オランダ商館長クルティウスからの別段風説書でペリー来航を予告しオランダとの条約交渉を拒否ったのは海岸防禦御用掛のWikipediaに書いてあったの消されてなかった見つけた。>>74

「嘉永5年(1852年)、長崎に着任したオランダ商館長ドンケル・クルチウスは、別段風説書によりマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の来航を予告し、かつ砲艦外交に屈して開国するよりはオランダと平和的に通商条約を結ぶことを提案した。阿部は当時海防掛であった、松平近直、石河政平、川路聖謨、竹内保徳等に諮問したが、条約交渉には応じるべきではないとの回答を得ている。
嘉永6年(1853年)6月、オランダから予告されていた通り、フィルモア大統領の親書を携えたペリー艦隊が浦賀沖に来航(黒船来航)して浦賀奉行戸田氏栄らを通じて日本の開国と条約の締結を求めてきた。ペリー来航当時、時の将軍徳川家慶は死の床にあり、国家の一大事に際して執政をとるなど適わない状態であった。幕府は一旦は親書を受け取り、実際の交渉は翌年に行うという条件でペリーを退去させた。
阿部は川路聖謨と松平近直以外の海防掛を順次外し、幕臣から堀利煕、岩瀬忠震、永井尚志、大久保忠寛を抜擢した。この人事により、海防掛は諮問機関から行政機関へと変貌し、また開国の準備が整った。幕臣からは水野忠徳、土岐頼旨(再任)、筒井政憲、井上清直等も海防掛に任官している。韮山代官であった江川英龍も加わった。」

海岸防禦御用掛
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