【日本史】GHQに焚書された書籍 (517レス)
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15: 09/08(日)11:50 AAS
p28
第三十五 江戸幕府の創立

学習目的

家康・秀忠・家光の間において、幕府の組織が全部整うのに至る次第をしらしめ、政治的・経済的に中央集権的封建制度を現出し、太平の基を定め、美術その他文化が発達しようとする事情を学習させるのである。

学習事項

(一)家康江戸にうつる

秀吉の後を受けて、さらにその統一を固くし、太平の基を定めたのは徳川家康である。家康は小牧山の戦いにおいて信雄を助けて秀吉に対抗したことは、一面においては義気をあらわし、一面においては容易に秀吉に屈従すべき者でないことをも示している。
その戦は全局から見る時は、いずれを勝ちとしいずれを負けとすることはできないが、例えば長久手の戦いは、明らかに秀吉の武将池田信輝戦は死して、秀吉方が敗れて秀吉は容易に勝ち難いのを知っていたところへ、大阪城が危険にさらされる傾向が出てきたので、和睦してかえったが、その後といっても、決して家康を軽視することはできなかった。
従って秀吉は和睦の結果、家康の庶長子秀康を養って子とする名義をとった。
やがて天正十三年秀吉が関白となり、家康を上洛させようとしたがうなずかなかったので、佐渡日向守に嫁いでいた異父妹朝日姫を無理に引き取って、これを家康に嫁がせた。
家康はまた秀吉と争うことの不利を知っていたので、天正十四年十月大阪に至って秀吉に会見した。
家康はこの時正三位に叙せられて帰国し、その後慶長元年正月には正二位内大臣となり、天正十八年秀吉に従って小田原を征伐し、功によって、関東二百五十万石に封じられて、武蔵の江戸にうつった。この転封命令は、家康をして駿・遠・三・甲・信、特に駿・遠・三の郷里の離れがたさを感じさせると共に、前途に対して大望をも持たないではなかった。
天正十八年八月一日、江戸城に移った日を八朔といって、江戸時代の間、幕府の大切な記念日としたのも理由のあることであった。
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