【日本史】GHQに焚書された書籍 (517レス)
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16: 09/08(日)13:57 AAS
江戸城はもと扇谷定正の重臣太田持資(道灌)が築いた所であるが、当時は北条氏の家臣遠山景政という一万石くらいの小名が、城代としていた所であるから、その城は小さく、居館の玄関は船板を張ってあって、城下には農家・漁家が点々と散在し、西北は武蔵野に連なり、東南は内海に臨んで蘆の茂った寂しい一漁村にすぎなかったが、家康はまず城郭を改築し、城下の海岸を埋め立てて町を開き、次第に繁栄におもむき、今日の東京都の起源をなしている。

(二)江戸幕府成立

秀吉は天正十三年関白に任じ、天下の財務を行うに当たり、前田玄以・長東正家・浅野長政・増田長盛・石田三成を五奉行と称して政務を分掌させたが、後さらに天正十九年には、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝(初小早川隆景)の大五老、生駒親正・中村一氏・梶尾吉晴の三老中などを置いて大事を会議させた。
慶長三年八月秀吉が伏見城で薨去した時、当時六歳であった秀頼には、前田利家に補佐役が命じられ、家康は遺命によって、伏見にいて政務を見たが、翌慶長四年閏三月に至って、利家は薨去したので、家康の勢いはこの時からひとり盛んとなった。
石田三成は豊公恩顧の士で、近江佐和山二十二万石を得、五奉行の首席として大小政務を処理していたが、豊臣氏のために家康を除こうとし、他の大老つまり毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝と結び、慶長五年(紀元二二六〇ーー世紀一六六〇)ついに関ケ原の決戦を惹起した。

草も木も東へなびく関ケ原

ーー木宮泰彦詠史狂句集ーー

いわゆる天下分け目の戦で大勝を得た家康は、結局政権獲得の鍵を三成に捧げてもらった形になった。
ここにおいて家康は自由に天下の賞罰を行い、かつ諸大名の配置を断行した。今まで豊臣氏に従った者で、関ケ原役の前後、家康に服従した大名を外様大名といい、旧来の家臣で大名となった者を譜代大名といったが、外様大名は、多くを僻遠の地に置き、親藩(一門の大名)及び譜代大名は、要地に置くこととした。
従って東海・東山の二道及び機内の要地にはほとんど外様大名を置かず、また越前では庶子秀康をおいて加賀の前田に備えるとか、越後には庶子忠輝を置いて北陸・陸奥の帰路を断たせるとか、あるいは一地方に何人かの大名を置いて、互いに牽制させ合うとかした。詳しくは大名配置図を見るがよい。この図中白い所は大名領・幕府領交錯地である。
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