【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
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220: [sage] 2024/10/02(水) 20:28:55.04 p9(六)国内の統一 ところが信孝の兄信雄も、秀吉の勢いが盛んであるのを見て、徳川家康に頼って秀吉を除こうと謀る。家康はもとの恩義を重んじてこれに応じ天正十二年三月自ら兵を率いて尾張に入り、清州において信雄と会し、小牧山(東春日井郡小牧町)に陣した。秀吉も大軍を率いて大阪から来て、尾張の犬山城(丹羽郡犬山町)に入り、さらに楽田(ガクデン)を本営として家康と対峙した。 ところが両将は互いに自重して動かず、四月に入って秀吉の部将池田信輝は、間道から進んで家康の本国三河の岡崎を衝こうとしたが、家康は早くもこれを知って、自ら兵を率いてこれを追跡し、その背後をうったのでついに全軍の壊敗となり、池田信輝は討死した。この戦を長久手の戦いというのは会戦地の字名によるのである。 長久手で勝った家康は小幡に退き、小幡から小牧山に退いて陣した。秀吉はその神速に感じた位である。秀吉はまた楽田にいてこれと対峙するうち、家康の巧妙な外交策が功を奏し、四国の長宗我部元親・紀伊根来寺の僧徒・同雑賀の一揆・越中の佐々成政らは、ひそかに家康に応じて、大阪城の虚をつこうとしたので、十一月に至って秀吉はまた信雄・家康と和を結んで大阪へ還った。 秀吉はすぐに天正十三年三月の末から紀州へ向かい、根来寺の金堂伽藍はことごとく焼き尽くし、雑賀の一揆も平らげ、熊野も下し、かつその落人をかくまった高野山に交渉をはじめ、木食上人(応基)の懇請により、僅かに寺領を削り、武具差し出しの程度でこれを許してかえった。武具差し出しということは、余程深い意味をもっているわけで、後にこれが刀狩りにまで発展する。 ※雑賀衆=戦国期,紀伊国鷺森御坊によった本願寺門徒の集団。在地の国人層と農民からなるが,紀ノ川河口で水運に従事する者も多かった。根来衆と結んで鉄砲の技術にたけ,石山合戦では本願寺の中心兵力として織田信長軍に抗戦。しかし優勢な信長軍に降伏する勢力などがでて結束は徐々に崩れ,1585年(天正13)豊臣秀吉の紀州攻めをうけ壊滅した。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/220
六国内の統一 ところが信孝の兄信雄も秀吉の勢いが盛んであるのを見て徳川家康に頼って秀吉を除こうと謀る家康はもとの恩義を重んじてこれに応じ天正十二年三月自ら兵を率いて尾張に入り清州において信雄と会し小牧山東春日井郡小牧町に陣した秀吉も大軍を率いて大阪から来て尾張の犬山城丹羽郡犬山町に入りさらに楽田ガクデンを本営として家康と対した ところが両将は互いに自重して動かず四月に入って秀吉の部将池田信輝は間道から進んで家康の本国三河の岡崎を衝こうとしたが家康は早くもこれを知って自ら兵を率いてこれを追跡しその背後をうったのでついに全軍の壊敗となり池田信輝は討死したこの戦を長久手の戦いというのは会戦地の字名によるのである 長久手で勝った家康は小幡に退き小幡から小牧山に退いて陣した秀吉はその神速に感じた位である秀吉はまた楽田にいてこれと対するうち家康の巧妙な外交策が功を奏し四国の長宗我部元親紀伊根来寺の僧徒同雑賀の一越中の佐成政らはひそかに家康に応じて大阪城の虚をつこうとしたので十一月に至って秀吉はまた信雄家康と和を結んで大阪へ還った 秀吉はすぐに天正十三年三月の末から紀州へ向かい根来寺の金堂伽藍はことごとく焼き尽くし雑賀の一も平らげ熊野も下しかつその落人をかくまった高野山に交渉をはじめ木食上人応基の懇請により僅かに寺領を削り武具差し出しの程度でこれを許してかえった武具差し出しということは余程深い意味をもっているわけで後にこれが刀狩りにまで発展する 雑賀衆戦国期紀伊国鷺森御坊によった本願寺門徒の集団在地の国人層と農民からなるが紀ノ川河口で水運に従事する者も多かった根来衆と結んで鉄砲の技術にたけ石山合戦では本願寺の中心兵力として織田信長軍に抗戦しかし優勢な信長軍に降伏する勢力などがでて結束は徐に崩れ年天正豊臣秀吉の紀州攻めをうけ壊滅した
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