【日本史】GHQに焚書された書籍 (533レス)
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227: 10/03(木)16:41 AAS
p14(八)信長・秀吉の民政
信長は入京するや、まず兵士に命じて皇居を護らせ、また市中の乱暴狼藉を取り締まり、市内は静謐に帰したので、人々は大いに心服した。また当時は私関が多くて通行税を徴発するという習わしがあったので、信長はこれを廃止し、さらに諸国の道路を修繕して、道の両辺に松柳を植え、交通を便利にし、都市百姓の諸役を免じ、折々馬揃・相撲などを催して武芸をすすめ、その他一芸一能ある者は必ずこれを優遇した。
秀吉はまた天正十五年に、銀銅を使って天正通宝を鋳造する。十六年には大判小判を鋳造してこれを流通させた。
我が国の貨幣は村上天皇以来中絶し、室町時代には永楽通宝など通用していたのであるが、ここに至って本邦貨幣が復興した。
秀吉は天正十七年聚楽第に金銀三十六万五千両を積み上げて、これを一族公卿諸将に分配した。これを「金賦」といい、秀吉の遺品分であり、財力の豊富を示したのであり、民政に注意したのである。
大茶湯は天正十三年のことであるが、北野の松原に八百以上の茶席を設け、風流に志ある人々を広く国内でつのって大茶湯を催し、士民と共に楽しんだことは挿し絵解説においても述べる。寒夜静かに渋茶を方丈ですった室町の風情と相対比して、豪華な桃山時代の風尚に接することができると共に民政に心を用いた例証にもなる。
職制も次第に整い、前田玄以は京都の市政及び社寺のことをつかさどり、長束正家は財政、浅野長政・増田長盛・石田三成は訴訟その他の庶務をつかさどり、これを五奉行といい、のち更に徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝(初小早川景勝)の五大老、または生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴の三中老などおかれて大事を議することとした。
こうして京都を洛中洛外へ区画し、御土居をつくって境とし、大いに市街の整理復興に努め、また全国に検地を行い、曲尺六尺三寸四方を歩とし、在来の三百六十歩一段を改めて三百歩を一段とした。十段を一町、三十歩を一畝としたのである。
鎌倉以来、貫高を使って田地をはかったのに対して、石高を使ってするようにしたのを「天正石直」とも「文禄検地」とも「太閤検地」ともいうのであるが、この時には全国は一八二五万石になった。
※馬揃=騎馬を揃えて優劣を競い合う
※方丈=1丈は約3mで、四畳半。
※御土居=京都を囲った土塁
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