【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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(1): 2024/09/09(月)16:55 AAS
こうして慶長六年には、弊制を定めて金は大判・小判・一分判の三種、銀は丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)の二種として鋳造した。
この時の金貨は名目貨幣で、大判は十両、小判は一両、一分判は四文の一両であり、銀は量目貨幣であるから、目方を量って通用させた。従って金と銀との関係は時によって違うが、明治初年の頃は銀六十匁ないし百匁をもって金一両に当てていた。
家光は従来の銭が不統一であったので、寛永十三年以来、江戸はじめ諸方で、銅銭寛永通貨を鋳してその統一をみた。
なんでも家康が慶長十一年駿府に移った時、秀忠に与えた金は、黄金三万枚、銀一万三千貫という。これを金一枚十両、銀五十匁を一両とすれば五十六万両となる。その内家康が駿府で薨去する時に遺した金いわゆる駿府の遺金と称するものは、おおよそ二百万両とみることができる。
そして秀忠は守成の人であるから、この財力を減じてはいない。
家光に至って寛永二年、僧天海に命じて寛永寺を造営させ、寛永十一年には同天海によって日光廟を造らせた。この日光の建築については従来寛永元年起工、十三年上棟式をあげたものと言われていたが、工学博士大熊喜邦氏は寛永十一年の暮れか秋の末頃起工して十三年四月完成、その間十五ヶ月で仕上がった。従って一夜一千人も夜業をしたと言われる。(昭和三年八月八日 大阪毎日新聞)
平泉澄博士が寛永十一年冬に始まり、同十三年春に落成し、その間一年半、費用総計五十六万八千両、銀百貫目、米千石と言われたのと合致する。
ともかくこの時は諸侯の寄付は少しも受けていないという。それで当代美術の代表的建築(これは挿絵解説にゆずる)ができている。
一代十一度の日光社参や寛永二度の上洛、その他家光の闊達な気象によって、大名・旗本に与えた金も莫大なものである。
家康薨去と共に、江戸幕府も多少財政不如意の気味が現れたとはいえ、これ位のことができたのは、いかに財力が豊富であったかを物語るもの、家光の歴史は財力が致せる歴史だとみるのは、一面において真理かもしれない。
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