【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
1-

343: 2024/10/16(水)16:06 AAS
p228
改正条約は明治三十二年から実施されることとなり、国民多年の希望はここに達せられ、治外法権は除かれ、外国人も内地に雑居して、我が国の法権を受けるに至り、ただ税権の方は全く回復されてはいなかった。すなわち英・独・仏に限って、我が国から輸出するものの国税率はその国が決定し、我が国に輸入されるものの税率はこれら輸出国の協定を要することとなっていた。この規定は明治四十四年までの期限となっていたから、この年四月英国と関税の双務協定すなわち両締約国相互に税率を協定する約款を議定し、その他の国と同様に協定は成立し、四十四年七月より完全に対等な条約が実施されるに至った。
ちなみに我が国も、真に一人前の国となったのは、明治も末年になったことを思えば、まことに我が国も若い国であり、新興の国である。発展をなお将来に待たねばならない。

(四)諸種の法典が備わる

改正条約が実施された頃、諸種の法典もまた施行された。政府はかねて、我が国古来の習慣を基礎とし、さらに西洋の法制を参酌して、民事及び商事に関する法規を編纂していたが、いよいよ民法は三十一年七月から、商法は翌年六月から実施されることとなった。また時勢が進むと共に、刑法の改正も行われて、四十一年十月から実施され、法典はいよいよ備わって、大いに社会の発達を助けた。
344: 2024/10/16(水)16:43 AAS
p229 学習参考

(1)挿絵解説

「列国の公使と条約改正を議す」の絵は、聖徳記念絵画館画題考証図の内五姓田芳柳氏筆に拠ったもの。外務大臣井上馨が、明治十九年五月一日から翌年四月二十日までに十二国の公使と外務省で会し、前後二十九回の会議をした。改正条約も議決したのであるが、総理伊藤博文、外務井上馨の極端な欧化政策が国民の反感をかい、井上外務が退いたので、改正案は流れたのであった。
この図の会議には十四名いる。正面にいるのが井上外務大臣、その左が伊藤総理、他は十二国公使のように思われる。

(2)指導要領

当時における我が国の実力と外国の実力を比較して学習する。その間に我が国が、負けじ魂を発揮して、外交に内治に努力していく先人の態度を十分に味あわせる。
現在に投影している法律や条約を学習環境にもたせて、それの史的研究に遡れば、この教材の学習となるわけである。
345: 2024/10/16(水)21:41 AAS
p230 第五十一 朝鮮の事変と明治二十七、八年戦役

学習目的

隣国朝鮮との事変から、ひいては明治二十七、八年戦役に至る次第と事実を学習させ、我が国の国家的発展について会得させ、併せて国家と国際の生活、文化と戦争などについて適切な考察を行わせる。

学習事項

(一)明治十五年朝鮮京城の変
省3
346: ブログ転載 2024/10/16(水)21:44 AAS
p232
この時はすでに大院君が政権を握り、清国の袁世凱や丁汝昌がこれを助けて兵を朝鮮に出していたが、ここにおいて兵を構えることの不利を察した清国は、大院君を伴って自国に去った。
そこで我が国は国王に謁して要求を提示し、三日以内に回答を求めたが、期日に至るも答えはなかったので、公使の一行は京城を去って済物浦に至った。するとかの全権大臣李祐元など後を追って来て、はじめて談判を開き、朝鮮は償金五十五万円を支払い、日本公使館には一大隊の守兵を置くことなど六款を約束させた。時は八月三十日、これが済物浦条約で、この事件を明治十五年朝鮮京城の変という。
347: ブログ転載 2024/10/17(木)18:45 AAS
p232(二)明治十七年朝鮮京城の変

すぐに朴泳孝は謝罪の使いとして金玉均などと共に来朝した。我が国は竹添進一郎を公使として朝鮮に駐在させた。朴・金などは我が国の制度・文物を視察して帰り、同士と相談して国政を改め、我が国にたよって独立を揺るぎなくしようとした。これを独立党という。我が国はまた済物浦条約で得た償金中四十万円を返して、国政改革の費用に充てさせた。
独立党に反対して、保守を喜び、大国清につかえようとする閔族その他がいる。これを事大党という。清国は袁世凱に大軍をつけて、京城に入って事大党を助けさせた。
おりしも清国は仏国と事を構え、朝鮮を顧みる暇がないのを見て、独立党の朴泳孝・金玉均・徐光範・洪英植など少壮気鋭の徒が、明治十七年十二月四日京城郵便局開設の祝宴を幸(さきわ)い、保守派の高官泳翊を傷つけさせ、ただちに進んで王宮に迫り、閔族の権臣数人を殺し、翌朝大政維新を布告し朴・金などは新政府の大臣として、政権は完全に独立党に帰した。このとき朝鮮王の要請により我が国の竹添公使は兵百人以上で王宮を守る。
ここにおいて閔族はただちに清国に依頼した。よって袁世凱は兵二千を率いて王宮に迫ったので、我が国の公使は兵を率いて公使館に帰ろうとして、途上清韓の兵と衝突し殺傷されるものも多く、公使館に入ったが糧食が乏しいため、七日公使館を去り、翌日仁川に達した。この間に公使館は清・韓二国の兵に焼かれた。変報は十三日に至って日本に達したので、我が国は外務卿井上馨を特命全権大使に任じ、海軍大輔樺山資紀・陸軍中将高島鞆之助に命じて二大隊の兵を率いて、全権大使を護衛し、朝鮮に赴いて国王に謁見し、談判して京城条約五事を約束させた。その主な事は、十一万円の償金を支払うこと、公使館建築費二万円を弁償することであった。
十七年の変はこれでおさまったわけだが、しかしこの事変は、もともと清国にも関係することが多かったので、清国と相談して、他日の紛争を避けようとするために、宮内大臣伊藤博文を全権とし、農商務大臣西郷従道を副使とし、明治十八年二月二十八日横浜を出発して清国に向かい、三月十四日天津に到着し、清国の李鴻章・呉大徴と会見し、四月三日裁判をはじめて、次のような約款三項を議決して、四月十八日調印した。
348: ブログ転載 2024/10/17(木)19:26 AAS
p234
1)従来両国から朝鮮に駐屯させている兵士を撤去すること。
(2)軍事教練のために両国から教官を派遣してはならない。
(3)将来事があって両国が兵を朝鮮に派遣しようとする時は、互いに公文書を出して通知しなければならないこと。

世にこれを天津条約というが、我が国の全権の一行は二十日に天津を出発し、二十八日に帰朝した。

(三)清国と戦を開く

(1)防穀令事件 天津条約が結ばれたにも関わらず、清国は袁世凱を朝鮮に駐在させて、朝鮮の政権に干渉し、威権政府を圧し、日本の権力を伸ばすことはできない有り様であった。従って朝鮮は我が国を侮り、明治二十二年九月咸鏡道において防穀令を出すに至った。咸鏡道の中、元山地方は米の産地であったから、我が国の移民は多く、年々その地方の米を内地に輸送して業を営む者が多かったが、この防穀令によって、営業は完全に止まり、損害は大なるものがあった。時の朝鮮公使近藤真鍬は談判して、翌年この令を解いたが、我が国の商人が蒙った十四万円の損害賠償金の要求に対しては言を左右にして応じず、公使を交迭して梶山鼎助が交渉して決まらず、二十六年一月大石正己が公使となって強硬談判を行い、結局十一万円を我が国に支払わさせて局を結んだ。

(2)金玉均暗殺事件 十七年の変によって朝鮮独立党の朴泳孝・金玉均は日本に亡命していたので、我が国ではこれを助けて独立の優れた成果を挙げさせようと計る者は多かったが、事大党の刺客李逸植が日本に来て、かねて日本にいた洪鐘宇を語らって同士とし、洪に命じて金玉均を上海の日本ホテルに誘い、短銃で金を倒させた。金の従者である日本人和田某が、金の死体をもって日本に帰ろうとしたのに、上海警察署はこれを拒み、金の死体と洪鐘宇を清艦成遠に乗せて朝鮮に送った。朝鮮は大いに喜び、洪鐘宇を重職に用い、金の死体を寸断し、全国各道にすてて頭と胴は楊革津のほとりに梟首し、大悪不道金玉均之屍と書して傍らに立札した。これによって日本人の清国に対する敵がい心はいよいよ増長した。
349: ブログ転載 2024/10/17(木)21:35 AAS
p235
(3)東学党の乱 この頃朝鮮の国勢は振るわず、内政はますます乱れて、人民ははなはだこれに苦しんでいたので、不平の徒も少なくなかったが、明治二十七年四月、全羅道の古阜に暴徒が起こり、儒・仏・道三教の粋をあつめた者と称して民望をあつめ、政府の虐政を責め、閔族の好き勝手をならし、乱を起こしてその徒は万をもって数え、勢いは猖獗を極めたので、朝鮮政府は洪啓薫に命じて兵八百を率いて討たせたが、かえって破れて帰った。
こうして公州以南の地はことごとく東学党となったので、清国公使袁世凱は、朝鮮政府の関泳駿にすすめ、清兵をかりて征伐させることとした。袁は、当時我が国内が政府と議会と衝突を重ね、議会は解散また解散という有り様であったから、到底外国などに兵を出すことはできないだろうと考えたので、直隷総督李鴻章に出兵を促したのである。こうして明治二十六年六月八日、清兵二千が牙山に上陸した。
我が国へは六月七日付をもって、いわゆる公文書を出して通知することをした。その中に「我が朝が保護する属邦旧例」の一句があったので我が国は、「帝国政府はいまだかつて朝鮮をもって、清国の属邦としたのを聞かない」と照復した。清国はなおも牙山に向かって兵を送る準備はできていたので、六月二日朝鮮出兵の御裁可を得て、四日大磯で病を養っていた大鳥公使を急行させ、十日出兵を清国に通じ、公使館・領事館・居留民を保護するため陸戦隊四十二人進発、次いで第五師団長陸軍中将野津道貫は混成旅団を編成し、陸軍少将大島義昌を出発させ、海軍も連合艦隊司令長官伊藤祐享が松島以下十隻で出勤、海陸共に仁川・京城あたり、勢威は優に清・韓二国を圧するというおもむきがあった。
大島公使は兵を率いて京城に入るや、閔は自ら責任を負って閉門し、清国は牙山に駐屯して進まず、東学党は両国の出兵に恐れて平定に帰した。

※猖獗(しょうけつ)=悪人や疫病などの悪いことや良くないものが強い勢いを持つこと。
350: 2024/10/18(金)00:58 AAS
p236
(4)日・清・韓三国の交渉 ここにおいて清国は、東学党をすでに平らげる上は、日本の兵を撤回するのがよいことを求めた。我が国は禍根を絶つために、共に協力して朝鮮の弊制を改めるのがよいことを申し込んだが、清国は応じなかった。この上は我が国は独力で朝鮮内地の改革を行おうとし、六月二十八日に貴国は果たして独立国であるか否かを朝鮮に照合した。朝鮮はその答え方を支那に問い、日を経て三十日に至り、独立国であると答えてきた。大島公使は弾丸の中を交渉に従事し、七月二十四日に至って、当時親日傾向に転じていた大院君に政務を託し、大島公使を顧問として、諸政を改革して、清韓条約を破棄させ、日韓攻守同盟を結ばせた。
351: 2024/10/18(金)00:59 AAS
p237
(5)日清開戦 清国もこの上は開戦と決し、すでに七月二十一日の前後にしきりに兵を発し、一方では牙山に送り、一方では義州に送り、漸次平壌から南方に進め、京城の我が兵を挟撃しようとした。
この時より以前、我が国もすでに決意し、七月十四日には清国駐在公使小村寿太郎が国交断絶のことを明らかにして、かの地を引き上げている。この時から我が国は戦を交えてよかったことは国際法に認めるところである。
戦はいよいよ七月二十五日豊島沖の海戦で始まった。二十九日には成歓の戦いに勝った。
八月一日宣戦の大詔が下り、九月十三日明治天皇が東京御発車、十五日広島大本営にお着き遊ばされる。
十月十五日には広島において第七回帝国議会が招集され、一億五千万円の軍費支出を満場一致で可決した。三ヶ月前までは衝突を重ねていた議会と政府が、ここに至って光風霽月、提携共同の実を示したのには、清国をはじめ、諸外国が驚いた一事であった。しかも老幼婦女に至るまで資を献じ、全く挙国一致して奉公の誠をいたそうと期したのである。
九月十六日には平壌占領、翌十七日には黄海の大海戦、二十八年二月十二日は威海衛において敵将丁汝昌は我が国の連合艦隊司令官伊藤祐享に降伏した。この間に第三・第五の両師団をもって編成された第一軍は山縣有朋が大将司令官となって、義州・九連城・鳳凰城・大東溝・大弧山・岫巌城・析木城・海城を攻略し、第一・二・六師団から編成された第二軍は大山巌大将司令官となり、金州城・大連湾・旅順を占領、一部に命じて威海衛に至らせ、海軍と共同してこれを陥れ、大部を率いて熊岳城・蓋平をやぶり、第一軍と連絡し、第一軍はさらに進んで牛荘・営口を屠り、二十八年三月九日田庄台を焼いて敵の本拠を奪った。第二軍はまた進んで田庄台に至る。
この時から第二期作戦に入って、太沽の砲台を陥れ、山海関を抜き、長駆して北京に入るはずであった。
352: ブログ転載 2024/10/18(金)18:01 AAS
p238(四)清国と和を結ぶ

清国政府は連戦連敗、大いに恐れて米国政府に頼って、講話の議を開くつもりのことを求め、李鴻章を我が国に遣わして和を請わせた。我が国は内閣総理大臣伊藤博文・外務大臣陸奥宗光に命じて三月二十日から下関春帆樓上で会見し談判を始めた。
二十四日一凶漢が李鴻章を狙撃して軽傷を負わせたので、明治天皇は深く御心を悩ませなさり、特別に待医を御派遣になり、皇后もまた親製の包帯をお与えになった。天皇の命令により無条件で三十日間の休戦定約が成り、翌月一日談判に移ったが、議は容易に決せず、この時かねてから征清大総督に拝されなさった陸軍大将小松宮参謀長彰仁親王が、総督府を金州に進めなさるつもりのため三十以上の運送船に兵士を満載して宇品を出発して四月十四日下関海峡を通過された。これを見て李鴻章は大いに怖れ、ついに十五日に至って我が国の提案を許諾し、十七日これに調印した。これが下関条約で、十一ヶ条から成っている。その主なことは次の三点である。

(1)清国が朝鮮の独立を確認すること。
(2)遼東半島・台湾全島とその属島澎湖島を日本に割譲すること。
(3)庫平(ターピン)銀二億両(およそ三億円)を日本に支払うこと。

こうして東洋の平和は再び回復を見たのであった。

(五)戦役の結果
省2
353: 2024/10/18(金)18:03 AAS
上海といえば阿片王と言われ東洋のロスチャイルドとも異名を持つフリーメーソン東洋幹部デビット・サッスーンの本拠地
354: ブログ転載 2024/10/18(金)18:06 AAS
p239
開戦と共に、我が国から欧米諸国に連絡をした。するとイギリス・ドイツ・イタリー・アメリカ・オランダ・スペイン・ポルトガル・デンマルク・スウェーデン・ノルウェーは局外中立を声明し、ロシア・フランス・オーストリアは公然と中立を布告しなけれども、事実上これを守る意思であると返事をしたのであった。
今や我が国は清国と戦って大勝したので、諸外国の予想を裏切ることはおびただしいものがあった。

(2)遼東半島の還付

明治二十八年四月十七日下関条約が調印されると、その二十三日には、露・独・仏の三国政府は、各東京駐在の公使に命じて遼東半島の還付を勧告した。
この三国が干渉した原動力はロシアの南下政策にあることは言うまでもない。彼は朝鮮に至るまでも野心を抱いていたのであるから、今日本の勢力が朝鮮に確立し、遼東半島を日本が領有することになって東洋平和が成り立てば、ロシアの野心は完全に水泡に帰すわけであったから、彼はフランスと同盟していたのを幸いに、これと謀り、またしきりに支那に勢力を拡張する野心を持っていたドイツをも誘い、ついに三国干渉の挙に出たのである。
三国公使は形式上別々に我が国に勧告書を送ってきたのであるが、その説くところは全く同一の主旨で、文面の表では友誼上の好意的勧告ということであるが、事実上から見れば完全に威嚇したものであった。例えば「貴国は弱く我が国は強い、もし戦を交えるに至るなら貴国は必ず敗(やぶ)れるだろう」というような文句もあった。これは外務省の注意によって削除したと伝えられており、また例えばロシアはウラジオに陸兵を駐屯させ、海上からは太平洋艦隊をもって我が国に驚異を与えていた。
これは無論我が国の屈辱ではあったが、当時の形勢上、怨みを呑んで、三国の提議を受け容れ、五月五日をもって遼東半島を還付し、五月八日批准交換を終え、十日には明治天皇が義憤に燃える国民に対して次のような詔を下しなさった。
355: 2024/10/18(金)20:58 AAS
Googleの創業者の一人ユダヤ人のラリーペイジが創△学会員というWikipediaが削除されていたので探していたらトランプの親父も創△学会員だった。

外部リンク:ja.m.wikipedia.org創△学会USA

↑上のサイトのアーカイブ
外部リンク:web.archive.org
「フレッド・トランプ ドナルド・トランプの父親で事業家。池田大作の教えにより人種差別的な考えをやめ、資金支援と広告活動の協力を申し入れた。そしてまた、自身も創△学会USAの会員となったことで知られる[要出典]。」

画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
356: ブログ転載 2024/10/18(金)21:58 AAS
p241
さらに事件の発端を起こし、政局を悪く言い、治平の回復を遅滞させ、もって民政の疾苦を醸し、国運の進展をはばむことは、真に我が意ではない。
今において大局に顧み、度量大きく、もって事を処するとしても、帝国の光栄と威厳とには毀損する所があるのを見ない。
百僚臣庶、それらはよく朕の意を体現し、深く時勢の局を見て、些細なことでも慎重に行い、切り殺すことを諌め、邦家の大計を誤ることがないのを期せよ。

一語一語は慈父母の赤子におけるかのように、ただ恐懼の他はない。この時から我が国の臥薪嘗胆の外交時代がはじまるのであった。

(3)台湾の経営 以前に我が国の海軍が威海衛を陥落させ、次いで伊東司令官は支那南部の制海権を得ようとし、陸海混成支隊の比志島大佐を率いて、二十八年三月二十六日澎湖島を占領したが、いくばくもなく休戦の約束となり、講和が成立して、台湾全島及び澎湖島が我が国の所有に帰したので、我が国は海軍大将樺山資紀を台湾総督に任じて進発させたが、この時台湾では台湾巡撫唐景?ッ以下、割譲を憤慨される者は甚だ多く。景?ッを台湾民主総統に推して独立国であると称し、景?ッはもっぱら北部の防備に任じ、軍部総統劉永福は南部の防備につとめていたので、近衛師団長北白川宮能久親王が台湾征伐の命令を奉じられたので、樺山は親王の軍と琉球において合併し、共に進んで五月二十九日台湾三貂景角に上陸、六月三日基隆を占領して景?ッを厦門に追い、台北を収めてここに総督府を置いた。
我が軍はさらに南進、台南の劉永福の本拠をつこうとするや、台湾総督陸軍中将高島鞆之助は台湾の南端から上陸して台南を挟撃した。永福は密かに厦門へ逃れ去ったので、十月二十二日我が軍は台南に入った。ここにおいて台湾全島ことごとく平定し、完全に我が国の統治の下に置かれる事となったのである。親王はここの疫病を得て、左右は切に帰国保養を勧告したが聞き入れないで、軍を進められ十月二十八日台南において薨じなさった。
台湾はこの時から次第に皇化に俗し、産業も興って、文化もだんだん開いて行き、三十一年陸軍中将児玉源太郎が台湾総督となり、後藤新平がその下で民政長官となってもっぱら力を島民の懐柔に尽くし、治績は大に挙がり、土匪の乱もほとんど一掃され、財政のようなものもほとんど独立して、次第に国庫の補助を減じるに至った。
357: ブログ転載 2024/10/19(土)09:25 AAS
p242(4)韓国の成立 我が国と朝鮮とは明治二十七年八月二十六日攻守同盟を結んだことは前に述べた。その十月、内務大臣井上馨が特命全権公使として京城に駐在するに及び、施政綱領二十条を定め、諸般の改革を行わせ、朴永孝・徐光範などを内閣に入れ、邦人は多く各省の顧問となった。
こうして戦争は日本が勝ったので、朝鮮における我が国の勢力も強かったが、実はこの間に明治十八年以来露国公使ウェバーが、排日派の閔氏と通じて折りもあらば朴永孝らを倒そうと陰謀を巡らせていたのであるが、井上馨はそれとも知らず三浦梧楼と交代した。
時に我が国には三国干渉のことがあって、遼東を清国に還付するや、閔妃などはだんだん我が国を軽視していた。二十八年七月井上公使が帰朝の途につくや、閔氏一派はただちに韓帝を擁して内閣を更迭し、朴永孝は我が国に亡命した。しかも閔氏一派の陰謀はますます進むばかりであったから、親日党はこれに先んじて事をあげようとし、三浦公使を誘い、十月八日大院君を擁して訓練兵第二大隊を率い、王宮に闖入し、王妃を殺してしまった。ここにおいて我が国は、政務局長小村寿太郎を京城に派遣して善後策を講じさせ、三浦公使を免職させ、以下四十七人を罪し、井上馨を特派大使として韓廷を慰問させた。しかしこの事があってから朝鮮人が我が国を怨む者も多く、列国はまた我が国を批難し、我が国の朝鮮における威信はにわかに失堕する有り様となり、ロシアが朝鮮の内政に干渉する端を拓いた。
二十九年二月十一日、国王は閔妃の残党に擁されて露国公使館に向かい、ここに政府をおくという状態になった。日露間の葛藤はこの時から次第に深刻な度を加えるのである。
ウェバーはこの時から国王を擁して辣腕をふるい、各種の利権も得た。しかし我が国は露国と衝突することはもとより欲しなかった。折しも露帝ニコラス二世の戴冠式がモスクワで挙げられたので、山縣有朋が特派大使となってこれに列し、次いで外務大臣ロバノフと協商し、京城においても議定するところをあるようにさせた。これが第一次日露協商で、国王の還宮・大臣の進退・日露の出兵は互いに公文書を書いて出して通知することなどが定まった。
358: ブログ転載 2024/10/19(土)16:40 AAS
しかしこれによって露国は、我が国と共に朝鮮の財政及び政治の助力勧告者となった。我が国は明治初年以来多大な犠牲を供して手に入れた所のものを、彼は座して容易に収めることができたのである。すでに明治三十年朝鮮国王は露国公使館を出て、王宮に還る。次いで元号を改めて光武とし、国号を大韓と改め、国王はさらに皇帝の位につきなさる。ここにおいてか独立国たるの体面を整えるに至った。
しかしこの時から次第に日露戦争に導かれることも記憶しなければならない。

学習参考

(1)挿絵解説

「広島大本営において日夜軍務を統べなさる」絵は聖徳記念絵画館書題考証図五姓田芳柳筆によったもの。明治二十七年九月十五日から二十八年四月二十七日まで大本営とされた第五師団司令部階上の六間に四間の一室におかせになられて、明治天皇が、冬の寒夜軍務にいそしみなさる図である。前にいるのは参謀次長川上操六で、側にいるのは岡沢侍従武官長である。ちなみにこの御室は御座所であり、御謁見所であり御寝所でもあった。この御址は、今も親しく拝観することができるのであるから、いかに御質素不自由のうちに御奨励遊ばせたかを想像することができる。
359: ブログ転載 2024/10/19(土)16:44 AAS
p244(2)指導要領

我が国と朝鮮及び清国との関係が教材となっているのであるから、こんな時に、清国史、朝鮮史の概念を与え、我が国と比較させておいた方がよい。
この史実は程近いことであるから、実際の体験談も聞けないことはないし、戦利品や奉公碑や従軍記章や勲章など各種の学習環境も整理しやすいであろう。
朝鮮や支那との関係は、常に現在及び将来のことを心において取り扱わなければならない。歴史はあくまで現在的なものだという人もいる。
例えば特に朝鮮は、日本の心臓を狙う短剣のように突出しているだけに、常に我が国につきまとって彼の国我が国共に幸福ではなかったことを悟らせ、今日の状態を肯定させねばならない。
支那の政策にはよく信をおけないことがある。これも今日と照応させ、彼らを矯正するのが我らの任務であることを会得させる。
ロシアの侵略策も批評しなければならない。
この間に立って我が国が難局を打開して雄々しく発展する、その事実と精神を力説する。
こうして国家と国際との一元生活、総合的文化発展の必要と戦争の不可避について考察させ、現在及び将来の覚悟を定めさせる。
地図などは要るが、教科書挿入の地図などは何にもならない。このくらいの地図ならば要れる必要もなかろう。要れるならば、二十七、八年戦局地図をやや詳しくしてその他をかき入れておいた方がよい。指導者はさらに他の地図を見せたり、かかせたりすることが必要であり、また絵画とか時表とかの形式環境も準備しなければならない。特に時表を作製させると、この教材などは、はっきりするであろう。
省1
360: 2024/10/19(土)16:47 AAS
>>269
『肥後藩国事資料第六』を図書館で借りてきたからしばらく脱線して荘村の手紙を転載したい。
361
(1): 2024/10/20(日)11:20 AAS
荘村助右衛門(省三)の主な手紙
六巻に載っているものだけ転載予定

文久3年5月2日
本藩「肥後藩・熊本藩」荘村助右衛門・庄林曽太郎等、家老小笠原備前「長洪」を訪ひ、大砲鋳造の為め、増田弥曽六其属工を率ゐて下藩すべきことを語る。

元治元年3月23日
本藩「肥後藩・熊本藩」庄村助右衛門・河瀬典次等、勝麟太郎「海舟・義邦・安芳、軍艦奉行並」を長崎の旅館に訪ひ、横井平四郎「時存・小楠、肥後藩士・熊本藩士」託する所の海軍問答書を贈る

慶応元年5月2日
在長崎荘村助右衛門「肥後藩士・熊本藩士」、英人グラバを訪ひ、薩藩英国留学生の消息を得たり。

慶応元年5月3日
米人宇利也牟斯「ウリヤムンス」、将軍進発につき援兵を英仏に借らんとするの議ある由を荘村助右衛門「肥後藩士・熊本藩士」に告ぐ。
省6
362: 2024/10/20(日)11:20 AAS
慶応2年6月11日
在長崎荘村助右衛門「肥後藩士・熊本藩士」、英国公使パークスの行動に関するフルベツキ「宣教師」の談話を奉行道家角左衛門「同藩士」に報告す。

慶応2年8月3日
在長崎荘村助右衛門「肥後藩士・熊本藩士」は、閣老小笠原長行「老中・唐津藩世子」の動静、諸藩兵の小倉撤退及本藩「肥後藩・熊本藩」の銃器弾薬購入等に関する報告をなす。

慶応2年8月6日
在長崎荘村助右衛門「肥後藩士・熊本藩士」は、幕府軍艦の集合、閣老小笠原長行「壱岐守・唐津藩世子」の長崎退去、小倉戦争当時幕府軍艦逡巡の状況等を奉行田中八郎兵衛「肥後藩士・熊本藩士」等に報告す。

慶応3年5月14日
我藩「肥後藩・熊本藩」荘村助右衛門、長崎より書を坂本彦兵衛「同藩士」に贈り、土佐藩坂本龍馬「直柔」と談合の顛末を報じ且つ其所見を陳ぶ。

明治元年閏4月21日
本藩「肥後藩・熊本藩」庄村助右衛門、京摂間に於ける内外の異聞を在藩機局吏坂本彦兵衛に詳報す。
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