【日本史】GHQに焚書された書籍 (517レス)
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500: ブログ転載 [sage] 2024/11/19(火) 18:52:06.67 p331 学習参考 (1)挿絵解説 「皇太子英国ロンドン市の歓迎会に望みなさる」絵は御写真によったもので、大正十年五月ロンドン市のギルドホールすなわち公会堂で、皇太子がロンドン市の歓迎会におのぞみなされた時の光景である。殿下は御椅子を立ちなさり、演壇の端までお進みになり、片手脇に御帽子をはさみ、片手には答辞を持ちなさる。この時から会衆に御演説になるのであるが、その御態度は実に立派なものであったともれうかがう。殿下の後に椅子に寄ってロンドン市長夫妻がいる。右方前列に御椅子にかけなさる四人の右から、コンノート殿下、ヨーク殿下、閑院宮殿下、英国皇太子殿下であり、ロンドン市長の左に起立するのは駐英大使林権助男、その後ろが供奉長珍田伯、その後ろの右が奈良東宮武官長である。式場は荘厳なもので、日英親善の気分が濃厚なものであった。なお二荒芳徳・沢田節蔵著皇太子御外遊記によれば、当時の御模様がよくわかる。 「パリの講和会議」は当時の写真によったもの。大正七年十一月十一日休戦の条約が成立し、大正八年一月から二十七ヶ国の代表六十七名が、フランスのパリ西方ヴェルサイユに会し、大正八年六月二十八日講和条約は調印された。 この間総会議というものは、大正八年一月十八日に第一回を開き、その時から六回を開いただけで、あとは部分会議であった。この写真はその総会議中のものである。室はルイ十四世王宮内の時計の間で図の最も左に立っているのは米ウィルソン、その隣が英のロイドジョージ、ウィルソンと相対するのが仏のクレマンソー、その後方背の高いのが英外相バルフォア、図の中央より少し右手前に椅子に寄るのはイタリアのソンニノ、その向こうに椅子に寄ってこちらを見るのは我が国の西園寺公、その後に牧野全権、その隣に松井全権、ソンソニの前に立つのはイタリアのオルランド、ソンソニの右手前にカバンをもって立っているのはブオッシュ元帥である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/500
学習参考 挿絵解説 皇太子英国ロンドン市の歓迎会に望みなさる絵は御写真によったもので大正十年五月ロンドン市のギルドホールすなわち公会堂で皇太子がロンドン市の歓迎会におのぞみなされた時の光景である殿下は御椅子を立ちなさり演壇の端までお進みになり片手脇に御帽子をはさみ片手には答辞を持ちなさるこの時から会衆に御演説になるのであるがその御態度は実に立派なものであったともれうかがう殿下の後に椅子に寄ってロンドン市長夫妻がいる右方前列に御椅子にかけなさる四人の右からコンノート殿下ヨーク殿下閑院宮殿下英国皇太子殿下でありロンドン市長の左に起立するのは駐英大使林権助男その後ろが供奉長珍田伯その後ろの右が奈良東宮武官長である式場は荘厳なもので日英親善の気分が濃厚なものであったなお二荒芳徳沢田節蔵著皇太子御外遊記によれば当時の御模様がよくわかる パリの講和会議は当時の写真によったもの大正七年十一月十一日休戦の条約が成立し大正八年一月から二十七ヶ国の代表六十七名がフランスのパリ西方ヴェルサイユに会し大正八年六月二十八日講和条約は調印された この間総会議というものは大正八年一月十八日に第一回を開きその時から六回を開いただけであとは部分会議であったこの写真はその総会議中のものである室はルイ十四世王宮内の時計の間で図の最も左に立っているのは米ウィルソンその隣が英のロイドジョージウィルソンと相対するのが仏のクレマンソーその後方背の高いのが英外相バルフォア図の中央より少し右手前に椅子に寄るのはイタリアのソンニノその向こうに椅子に寄ってこちらを見るのは我が国の西園寺公その後に牧野全権その隣に松井全権ソンソニの前に立つのはイタリアのオルランドソンソニの右手前にカバンをもって立っているのはブオッシュ元帥である
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