【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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84: 2024/09/15(日)15:16 AAS
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中山道は中仙道とも書き、江戸から京に至る別路で、約百三十七里十一町、草津で東海道に合し、六十九駅をおいた。
奥州街道は江戸から青森まで六十九次、日光街道は江戸から日光まで二十四次(江戸から宇都宮までは奥州街道と同じ)、甲州街道は江戸から甲府まで三十四次である。
水路は慶長中は角倉了似がいる。性格は工役を好み、家康に用いられて、丹波の保津川・駿河の富士川・信濃の天竜川・京都の加茂川を分流させた高瀬川などに水運の便を開き、さらに琵琶湖の疏水を計画したが果たせず没した。
また四代将軍家綱の頃、河村瑞賢が出て、治水や運輸航海の術に長じ、幕府の命を受けて大阪淀川の末流で常に氾濫して市民が害を蒙ったのを、川底にたまった土砂をすくいだして、名を安治川と改めてその害を除き、また寛文中は瑞賢が奥羽の官米輸送の命を受け、船と人を選び、見張りを厳かにし、難所には水先案内人や烽火を設け、奥州の米は荒浜から東海道を通って江戸へ送り、出羽の米は酒田を出て北海路により下関に出て、さらに瀬戸内海を通り、大阪に寄って江戸に着かせて以降、この両海路の発達が著しくなった。
なんでも従来は一年以上も費やした奥羽海路が、瑞賢の功績によって三ヶ月に短縮されたということである。
陸上水上の交通が開け、商業もようやく盛んになり、遠方と通信するという必要が起こってから、飛脚を業とする者が出てきた。飛脚にも色々と種類があって、幕府の公用に継飛脚というのがある。これは各駅で人馬を継ぎ代えて順送りにしたのである。
大名飛脚というのは、大名が江戸と国との間に設けたもので、尾・紀両家の七里飛脚がもっとも有名である。
町飛脚は、元和元年大阪城定番の諸士は、東海道の各駅長と相談し、その家隷をもって飛脚とし、毎月八の日をもって東海道を往復した三度飛脚にならって、大阪の商人が始めたもので、寛文三年には飛脚組合の創立を見、この時から各地に定飛脚を生じた。
寛文十一年大阪飛脚商などは江戸同業者と相談し、初めて両地商売の金銀順送りを行う。これを金飛脚というので、商取引の便を大にしたものである。
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