【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
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p79 第三十九 江戸幕府の中興
家光の薨後、家綱は幼くして職を継ぎ、国内に事変は起こったにしろ、名臣の輔弼に好ましい者を得て、善政多く太平をいたしたが、綱吉が出るに及んで弊政をしき、上下は大いに苦しんだけれども、やがて新井白石・徳川吉宗が出て、よく幕府中興の実を挙げるのに至った次第を知らせ、統制文化を中心として兼ねて学問・経済などの文化をも追求させたいものである。
学習事項
(一)家綱の政治
厳有公家綱は大猷院家光の第一子、慶安四年将軍となる。輔弼の臣に松平信綱・保科正之がいて善政を施した。松平信綱は幼名が長四郎で、武蔵川越六万石の城主、出て前将軍の幕政を助け、智彗伊豆と言われた人、今また家綱を、老中としてよく助けたのである。
保科正之は家光の弟で、保科正光の養子となり、会津二十三万石の城主である。寛文五年山崎闇斎を招いて仁義の道を奨励し、正之家訓十五則は有名である。また産業をすすめて民利を興し、賢明の聞こえが高かった人でもある。
家光が在職十九年で慶安四月正月、年四十八で薨去し、当時十一歳の家綱が将軍になるや、家光の喪を秘すべきか発表すべきかについて幕臣の間に議論があった程、それほど危ぶまれた幕府の運命を、幸いにこれを切り開いていくことができたのは、全く重臣の補佐が好ましいことを得たからである。
当時家綱が職につくという初め、慶安四年に浪士由井正雪は駿府に、丸橋忠彌は江戸にいて、互いに相結託し、党を結んで乱を起こそうとしたのを未然に発覚し、七月二十五日正雪は誅に伏し、八月十日丸橋忠彌も誅された。
次いで明暦三年正月十八・九両日、江戸市中大火あり。死亡十万八千人以上という惨禍であったが、救護の処置はよく行き届き、本所牛嶋新田に土地を頂戴し、大火で焼失したものの死骸を合葬させ、増上寺の方丈貴屋に命じて法事を行わせ、無縁寺を建てさせて死魂を弔わせた。これが国豊山回向院である。
また新たに市区を改正し、万治元年九月火消し四隊をおいた。なお寛文三年二月二十五日には、この頃流行になっていた殉死を厳禁した。
その他橋を掛けるとか排水路を開削するとか善政をしいたので国内は太平であった。
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