邪馬台国畿内説 Part1063 (198レス)
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170: 2024/11/18(月)19:43 AAS
寺沢が邪馬台国論争を終わらせたがってるわけだ
171
(1): 2024/11/19(火)00:33 AAS
北部九州にも邪馬台国の運営する何らかの大規模な施設があったのはあったんだと思うよ。機内に首都があって少なくとも西日本全域ぐらいは影響下に置いてたであろうから。

日本の地理的に外交の入り口は九州が都合が良いから江戸時代の出島や平安時代の大宰府のように吉野ヶ里に女王国の出先機関を置いてただけなんではないかな
172: 2024/11/19(火)06:01 AAS
>>171
>北部九州にも邪馬台国の運営する何らかの大規模な施設があったのはあったんだと思うよ

現実に、無い!

>機内に首都があって少なくとも西日本全域ぐらいは影響下に置いてたであろうから

寒村畿内に、微塵も無い!   @阿波
173: 2024/11/19(火)21:11 AAS
女王であること自体が海人族、交易民族を示していると思うんだがな
男は外に出るから出先で指揮をする存在
残った女が土地と地域を守る役目
この棲み分けを拡大したものが女王

つまり集落、地域として見た場合は女に権力があるが一族、勢力として見た場合は男が権威を持つ
これがヒメヒコ制の本質なのではないか
174
(1): 2024/11/19(火)22:18 AAS
卑弥呼の没後に男の王が立って国中が服さなかったという経緯からして、
ヒメヒコ制は当時模索中の体制で
狩猟・漁労に出かける男と村を守る女のような根源的な体制ではなかったと思う。

後世の宗教的権威としての天皇と世俗的権威としての将軍のように、
神託を行う巫女と施政を行う王があったんじゃないの?
175: 2024/11/19(火)23:06 AAS
>>174
このような議論が出来て嬉しい
確かに卑弥呼以前は男王だからそのような見解にも納得出来る
卑弥呼傘下の地域豪族は果たして女王なのか?男王なのではという疑問もある
邪馬台国が狗奴国に攻められ卑弥呼が死んだ経緯は女王の存在意義の限界点を感じさせるんだよね
だからその後の国取りや戦闘は男が担うと

記紀でも九州は宗像三女神など女王文化の印象
本州は大国主、天皇家、長髄彦など男王優勢の印象
なので九州は海人族の拠点だから
本州は占領地だから、という考察が原点にある
省1
176: 2024/11/20(水)10:20 AAS
天照大御神や宗像三女神の件があって、女が強いのは確か

邪馬台国畿内説でニギハヤヒやナガスネヒコに注目する考え方でも、
武内宿禰と応神王朝はニギハヤヒ系崇神王朝に対する九州系の復権と考えられて、
神功皇后が即位していたっぽいことと符合する
ただし、神功皇后は滋賀県彦根市や米原市を本拠地とする息長氏の出身なので
神功皇后が九州系の権力構造だったかどうかの判断には注意を要する

邪馬台国が狗奴国に攻められて云々の節は違う
魏志倭人伝の記載はどちらがどちらに攻めかかったとも判別できない中立の書き方になっている
邪馬台国は遠絶21ヶ国を支配していて、狗奴国1ヶ国に苦しめられるような状況ではない
177: 2024/11/20(水)20:47 AAS
女王が東遷したというのは魏志からもほかの記述からも読み取れない
あえて言うなら丹波の天女伝説くらいか
これは籠神社が存在するので説得力がある

天照は女性という設定が卑弥呼と畿内を結びつける観念だが、饒速日が天照神と呼ばれたことからも初めは女神に拘らなかったことが見て取れる
それに饒速日が天照ということは、天照が畿内の外から移入された神のの擬人化とも見て取れる
天照は倭姫命以降に女性設定が加えられたというのが現状の理解だ

畿内で卑弥呼という女王の権威が天照を通して語り継がれることがなかった事が何よりの謎、というより無理設定なんだよね
箸墓の百襲姫も神の妻という位置づけでこれは斎宮に近い存在
この辺から察するに、纒向遺跡に西日本を統括する女王が居た、ということは考えづらい
178: 2024/11/20(水)22:14 AAS
九州のド田舎に女王国があったとすることもよほど考えづらい
179: 2024/11/21(木)08:45 AAS
テステス
180: 2024/11/21(木)08:50 AAS
まあ今も江戸時代も奈良はド田舎だけどな。そんな所に邪馬台国があった訳はない。
181: 2024/11/21(木)11:07 AAS
「東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國。」
九州北部に王朝ないよ。邪馬台(大和)が征服済。
182: 2024/11/21(木)22:40 AAS
王朝どころか人が住んでないだろ北九州なんざ
183: 2024/11/21(木)23:29 AAS
【後漢書】
倭在韓東南大海中 依山㠀為居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)

後漢書に書いてあるように、後漢時代ですでに邪馬台国は代々王を継ぐ30国からなる事が記されており、大倭王が邪馬臺に住んでいたと書かれている。
この後継が卑弥呼女王である。
魏志には邪馬台国は7万戸と記されているので後漢時代ですでに大きな勢力だったことがわかる。

つまり畿内説の主張は全く整合性がありませんよと
184: 2024/11/22(金)05:46 AAS
後漢書は間違いなんだろうな。他の中国正史には魏の時に初めて邪馬台国は中国相通。三韓、百済、新羅も魏晋代。
185
(2): 2024/11/22(金)07:49 AAS
魏志の著者は北部九州があまりに荒涼とした無人地帯であったため敢えて何も触れずに書かなかったという可能性もある
186: 2024/12/16(月)16:12 AAS
>>185
著者は九州には行っていない
187: 2024/12/16(月)18:30 AAS
ボム
188: 2024/12/16(月)18:39 AAS
伸びんな、当然だ
189: 2024/12/16(月)19:14 AAS
>>185
>北部九州があまりに荒涼とした無人地帯であったため
多数の遺跡が見つかってるのに何言ってるの?馬鹿なの?
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