[過去ログ] 邪馬台国畿内説 Part1070 (1002レス)
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(4): 警備員[Lv.24] 11/14(木)13:35 ID:RAi76AAC0(5/35) AAS
そうすればヤマトに殉葬はもちろんのこと、「倭国大乱」や「更立男王 国中不服」など戦乱の痕跡がまったくない平和な王都&王墓建設遺跡という矛盾も納得で、
さらに(黄巾の乱で膨大な餓死者を出しながら厚葬を続けた後漢皇帝たちを反面教師に)薄葬令を出している魏帝に朝貢平伏している卑弥呼が、なぜかその魏帝陵より遥かに巨大な箸墓を造っている矛盾や、
相攻中で帯方郡にまで援軍要請して張政が来てるのに、その目の前でなぜか相攻中の東海狗奴国が箸墓の築造を手伝っている矛盾、官である狗古智卑狗(河内大阪彦)が東海狗奴国とは別の国になってしまうも解消するのでゎ?
98: 警備員[Lv.23] 11/14(木)13:37 ID:wL8DBgsj0(1/2) AAS
倭の都邪馬台国は日本の都大和国でした。
99
(7): 警備員[Lv.24] 11/14(木)13:40 ID:RAi76AAC0(6/35) AAS
畿内説はちょうど同じ時期、吉備楯築弥生墳丘墓以降の2世紀後半から3世紀前半の本州纏向にあった初期ヤマト王権(纏向型前方後円墳=ホタテ貝型)を「魏志倭人伝の邪馬台国」と勘違いしてるんじゃよ!
280年頃の西晋代に書かれているのに、日数表記(倭人からの伝聞)のままということは、239年の魏使も、247年の張政も、纏向まで行ってないし、箸墓も見てないってことw
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(1): 警備員[Lv.13][芽] 11/14(木)13:44 ID:3RlhtKfQ0(3/12) AAS
後漢書に書いてあるように、後漢時代ですでに邪馬台国は代々王を継ぐ30国からなる事が記されており、大倭王が邪馬臺に住んでいたと書いてある
この後継が卑弥呼女王である
魏志には邪馬台国は7万戸と記されているので後漢時代ですでに大きな勢力だったことがわかるが倭国大乱により衰退し、女王を共立する事で再建を試みたものと考えられる
他の史書によれば卑弥呼時代に倭国で飢饉が発生したとも記録されている
3世紀中頃には狗奴国に戦争を仕掛けられるほど衰退し、滅びたのかもしれない

つまり畿内説はガセです
101
(5): 警備員[Lv.24] 11/14(木)13:47 ID:RAi76AAC0(7/35) AAS
AA省
102: 警備員[Lv.5][新芽] 11/14(木)13:54 ID:XX/aEBi30(2/5) AAS
>>99
中国人だって日数くらい数える
逆に別の使命を帯びた郡使が距離を測りながら来たと思ってるのか?
不自然だと思わんか?
103
(6): 警備員[Lv.25] 11/14(木)13:56 ID:RAi76AAC0(8/35) AAS
57年漢委奴国王→107年筑紫倭面土(邪馬台)国王帥升→238年邪馬台国王卑弥呼→266年台与が初期ヤマト王権ニギハヤヒへ禅譲「復立男王 並受中国爵命」→それを不服として日向投馬国(神武)東征、吉備特殊器台の箸墓ヤマト王権が爆誕→筑豊国造(旧邪馬台国王)家(神功)が嫁入り(香坂忍熊誅殺→応神即位)三韓征伐開始〜讃珍齋興武(雄略)上表文(海北95西66東55)
527年筑紫君磐井の乱鎮圧後、百済支配(半島攻略)専念のため継体(今城塚ピンク石)が阿蘇【山外】輪山・邪靡堆へ西遷、倭(九州)年号創始→「日出処天子」倭王阿毎多利思比孤→天智が太宰府へ北遷(阿蘇山大噴火で邪靡堆が壊滅)白村江完敗で近江へ再び東遷。
天武が唐外交の障害(古代倭王の朝貢+継体の倭九州年号+阿毎多利思比孤)を記紀で抹消。
104
(3): 警備員[Lv.4][苗] 11/14(木)14:04 ID:wl95Fu9A0(1/4) AAS
ようやく、世間も俺の考察に追い付いてきたな

卑弥呼時代に「邪馬台国」はなかった

これが俺の説だが
魏志倭人伝に載ってる情報が
50年以上ぶんの情報だから
当然おかしい解釈になってしまうだけ

683 日本@名無史さん 2023/12/11(月) 12:38:00.17
魏志倭人伝に書かれてるのは九州の話ばかり

東の倭種も九州から見ての話
省6
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(1): 警備員[Lv.25] 11/14(木)14:15 ID:RAi76AAC0(9/35) AAS
>>103
聖徳太子(架空の人物)=阿毎多利思比孤(兄王朝@九州)+厩戸王子(弟王朝@大和)
 i.imgur.com/fOcwZ0y.png
106: 警備員[Lv.7][芽] 11/14(木)14:30 ID:raUaMgUR0(1) AAS
>>104
このように
結論だけ言って理由が無いのが
九州説
107: あ 警備員[Lv.1][新芽] 11/14(木)14:34 ID:My5O6ujl0(1) AAS
卑弥呼の墓
①径100余歩
②殉葬する者奴婢100余人
③棺あるも槨なく土を封じて冢を作る

まず①、漢代だと1歩135cmで135m。二またぎ135cmは長すぎるとして1歩70cmとして70m。一またぎとして35m説もあるようだ。
②の殉葬が確定された墓は我が国には今の所ないとのことだが、書いてあるから仕方ない。魏使が見て殉葬多数と認識する、または誤認する状況があったということになる。
③は卑弥呼の冢を直接描写した文ではなく、卑弥呼については当てはまらないとする説もある。しかし、卑弥呼の墓について、他の倭人と違い有棺有槨とする記載もなく、卑弥呼の墓も槨が無かったとするのが合理的な解釈だろう。

よって、有棺無槨で、魏人が殉葬多数と認識する全体の状況で、直径(方形なら対角線)が135mか70mか35mの冢が卑弥呼のお墓ということになるね。
108: 警備員[Lv.14][芽] 11/14(木)14:35 ID:3RlhtKfQ0(4/12) AAS
>>104
>卑弥呼時代に「邪馬台国」はなかった

卑弥呼が邪馬台国最後の王だ
109
(1): 警備員[Lv.25] 11/14(木)14:38 ID:RAi76AAC0(10/35) AAS
陳寿が百尺→百歩と盛ったとするだけで完全に倭人伝に合致する九州説
VS
何一つとして一致する箇所のない畿内説

君はどっち?w
110: 警備員[Lv.14][芽] 11/14(木)14:41 ID:3RlhtKfQ0(5/12) AAS
>>109
倭人に百人ほどが卑弥呼の後を追って死んだと聞いたから大きさは百余歩だろうなと中国側が見積もっただけ
111
(4): 警備員[Lv.25] 11/14(木)14:43 ID:RAi76AAC0(11/35) AAS
>>104
247年卑弥呼が援軍要請し、帯方郡の太守王頎が派遣した張政が台与に諭告(秘策伝授)した狗奴国(熊襲)撃滅作戦とゎ、背後の投馬(都萬)国(官彌々=神武)との挟み討ち以外に考えられない。
その後、張政を洛陽まで送り届けたお礼と狗奴国(熊襲)平定のお祝いに皇帝曹芳から英雄曹操鉄鏡を貰った台与は、266年その魏が晋に禅譲して消滅して後ろ盾(威信)を失ったため、台頭著しい初期ヤマト王権ニギハヤヒ(纏向ホタテ貝型前方後円墳)に禅譲してしまう「復立男王 並受中国爵命」。
それを不服とした最大同盟国の投馬(都萬)国・神武が東征して、ニギハヤヒの初期ヤマト王権(纏向ホタテ貝型前方後円墳体制)を乗っ取り、吉備特殊器台の巨大な箸墓を築き(記紀の王統譜に繋がる)古墳時代が始まったのだろう。
112
(9): 警備員[Lv.25] 11/14(木)14:45 ID:RAi76AAC0(12/35) AAS
>>111
日向投馬(都萬)国王(官彌々=神武)は、あの屈強な狗奴国(熊襲)王・卑弥弓呼を倒せたのだから、東方の蛮族など簡単に踏み潰せると思っていたため、
台与の禅譲後、実際に東征してみたら(地の利がないため)河内では生駒の大豪族・長脛彦に撃退されるが、猿田彦(八咫烏)の案内で紀伊半島を回り込んで南東岸の熊野経由で奇襲(紀州だけにw)してみたら、見事大和ニギハヤヒを屈服させてしまった。
だから旧邪馬台国はじめ九州諸王から英雄視され、一気に畿内への東遷が進んだのだろう(紀年鏡の多さはその証拠)。
113
(1): 警備員[Lv.27] 11/14(木)15:06 ID:6MgcpmuT0(1/2) AAS
前スレの三重構造説、二重構造説に関して

三重構造を提唱した金沢大学が使用した下本山岩陰遺跡(低身長の西北九州弥生人)のゲノムデータは
縄文人のゲノム成分と北東アジア系ゲノム成分しかもっていなかった
東京大学が解析した土井ヶ浜弥生人は、既に古墳時代人や現代人と同様に
縄文人のゲノム成分と東アジア系ゲノム成分と北東アジア系ゲノム成分をもっていた
つまり地域によって差がある
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(11): 警備員[Lv.25] 11/14(木)15:07 ID:RAi76AAC0(13/35) AAS
祇園山古墳の墳丘外周からは、66人分以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5基・不明2基を含む)、箱式石棺墓7基、竪穴式石室墓13基、構造不明7基の埋葬施設が確認されている。
甕棺は糸島地区にみられる甕棺専用大型土器の系統に連なり、その末期型式に位置付けられる。
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(12): 警備員[Lv.25] 11/14(木)15:10 ID:RAi76AAC0(14/35) AAS
>>114
第7号箱式石棺墓(H7)では、石棺の小口(短辺)両側それぞれに朱に染まった粘土塊があることから枕の痕跡と捉え(人骨は見つかっていない)、被葬者2体の頭位を逆にして同じ棺に埋葬した「差し違い2体葬」と考えられている。
このような「差し違い2体葬」は当墓のほか、祇園山古墳の南に位置する祇園山2号墳の墳丘直下で検出された石蓋土壙墓でも見つかっている。

この箱式石棺の「刺し違えた2体」とは、「以婢千人自侍、【唯有男子一人】給飲食傳辭出入。居處宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」
奴婢千人の(大奥)取締役♀と給飲食男子♂ではないだろうか?
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(1): 警備員[Lv.25] 11/14(木)15:32 ID:RAi76AAC0(15/35) AAS
「有棺無槨」「殉葬奴婢百人」のイメージ。倭国のどこか、場所は絶対に秘密。
pbs.twimg.com/media/GbvXXGsaYAALpje?format=jpg&name=900x900
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