[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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707: 2022/09/03(土)07:00 ID:HwBvERXo0(11/21) AAS
ともかく、小石川藩邸の庭には、大徳寺左兵衛が采配し家光が口を出した立派な庭が
あったわけである。これを光圀が改修した。後楽園は光圀作ということになっている。
この光圀が作庭した後楽園の姿というのは、具体的にはほとんど分からない。
現在あるもので一番古い図面は、彰考館蔵の「水戸様江戸御屋敷御庭の図 」である。
この図面の作成時期は不明だが、元禄16年の地震で崩れた瀑布が書かれているので、
それ以前に作成されたことは確かである。
この図面によっても、池の形とか築山の位置、どういった建物が建っていたのかと
いったことは分かるが、石組みの有様や植え込みの様子は全くと言っていいほど
分からない。

だが、保守的で正当なものを好むという光圀の性格からして、勝手に庭園を造り変えた
とは思えない。頼房が亡くなった後に、朱子学にガチガチに凝り固まった光圀が、父の
作った庭園をぶち壊すなどあり得るだろうか。
おそらく光圀は、庭の石組みや植栽はほとんど変えていないと思われる。
ただ、自分の趣味と朱舜水のアドバイスにより、一部中国庭園の趣きを加えた。
円月橋や西湖堤などである。
その他は、庭園周辺に建物を建てただけである。
建物の数は多く、当初は30棟ほどもあった。
庭園の池の周囲や平面部分はほぼそのままにし、その周囲の崖に連なる斜面の部分を削り
平らにして、そこに新しく建物を建てた。
元からの木はなるべく切らず、林の中に中国風の建物が並んだ。
一番大きな建物は彰考館であり、編纂所の他に大きな文庫(資料を収める文庫蔵)を
建てた。これらはさすがに中国風ではなく、編纂所は書院造り、文庫は蔵造りであったと
思われる。江戸城内に「紅葉山文庫」というのがあり、蔵造りで、資料が増えるたびに
一棟づつ建て増ししていった。多少の火事では燃えないような構造だったと思われる。
画像リンク[jpg]:upload.wikimedia.org

小石川藩邸内に彰考館を建てたのは藩主時代の寛文12年(1672)である。
その時に、従来「史館」としか呼ばれていなかった名称を彰考館に改めたのである。
「彰考」とは中国の学者杜預(どよ)の左伝の序「彰往考来」の語句に由来する。
過去をあきらかにして未来を考えるという意味である。
光圀は、それまで「後園」という一般名詞でしか呼ばれていなかった庭に「後楽園」と
いう名前を付けた。それゆえに後楽園を作った人物として記憶されることになった。
しかし、実際はわずかに変更を加えたのみである。
後楽園と名を変えても、庭はほぼ父の頼房が徳大寺左兵衛に作らせたままの姿だった。
太古の森を背景に広大な池を現出させ、巨岩怪石を配した重厚な庭である。
巨木の木陰から滝の音が響き、庭を巡る人は深山にいるかのような錯覚に陥っただろう。
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